2015.07.04
中平亮の記事
中平亮(なかひら・りょう)という方に詳しい方、いらっしゃいますでしょうか。インターネットで検索すると出てくるのは「ボイストレーナー」と名乗る方ですが、この方ではありません。戦前(1894~1982年)朝日新聞記者として活躍した高知県出身のジャーナリストです。革命後のロシアに入り、レーニンとの会見に成功したことが有名です。彼がモスクワから打った「惨憺たる専制政治」という電報には次のようなくだりがあります(大阪朝日新聞社史「中平特派員のロシア潜入」の141ページ)
レーニンは日本が攻撃に転ぜんことを恐れ居れり。黒竜州を日本に割譲すべき意嚮さへ有し居れり。レーニンが日本に対し深き注意を払ひ居れる主な理由は戦後の対欧州政策より出づるものにして即ち日露の平和的結合を欲し居れり。是れ欧州諸国は必ず露国に対し経済戦を開くべきを見越し、亜細亜諸国を結合して欧州に対抗せんとするもりなり。左れば過激派は全力を注ぎ波斯(ペルシャ)を過激化せんとし、今や多少の成績を挙げつゝあり。此計画を実行するに当り邪魔となるのは日本なるを以て先づ日本を撹乱せんとし、我が労働運動には至大の注意を払ひつゝあり。黒竜州を割譲せんとするも一は此目的の為なり、又浦潮を自由港にせよと主張しつゝあるも是が為なり。彼の西伯利の極東共和国の如きも独立の共和国にあらず、日本を欺く苦肉策のみ。
どなたか、この文章の解説をお願いできないでしょうか。
レーニンは日本が攻撃に転ぜんことを恐れ居れり。黒竜州を日本に割譲すべき意嚮さへ有し居れり。レーニンが日本に対し深き注意を払ひ居れる主な理由は戦後の対欧州政策より出づるものにして即ち日露の平和的結合を欲し居れり。是れ欧州諸国は必ず露国に対し経済戦を開くべきを見越し、亜細亜諸国を結合して欧州に対抗せんとするもりなり。左れば過激派は全力を注ぎ波斯(ペルシャ)を過激化せんとし、今や多少の成績を挙げつゝあり。此計画を実行するに当り邪魔となるのは日本なるを以て先づ日本を撹乱せんとし、我が労働運動には至大の注意を払ひつゝあり。黒竜州を割譲せんとするも一は此目的の為なり、又浦潮を自由港にせよと主張しつゝあるも是が為なり。彼の西伯利の極東共和国の如きも独立の共和国にあらず、日本を欺く苦肉策のみ。
どなたか、この文章の解説をお願いできないでしょうか。
2012.11.20
池田屋事件と野老山吾吉郎
幕末、風雲急を告げる京都で後世池田屋事件と呼ばれる動乱がありました。三条小橋の旅館池田屋に潜伏していた長州藩をはじめとする尊王攘夷派の志士を京都守護職配下の新選組が襲撃した事件です。多くの志士が殺されました。
土佐藩の者で事件に関わって死亡したのは北添佶磨、望月亀弥太、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉郎の5人ですが、野老山については出身地が安芸郡芸西村で私の故郷、女優栗原小巻さんの一族と伝えられていること、それに私の長男の嫁が同姓だったことなどのため特別な関心を持っています。
吾吉郎の最期について、2009年4月の当欄で次のように書きました。
「吾吉郎は元冶元年(1864年)6月5日の池田屋事件の犠牲者とされていますが、池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介という方を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。重傷を受けて長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました」。
ところが、3年前に高知県が購入した「土佐藩京都藩邸史料」(県立坂本龍馬記念館蔵)の中に吾吉郎(史料では吾吉)のことを記した長文の調書がありました。これまで伝えられてきた事件前後の足取りとはかなり違うことが書かれています。
通りがかりに新選組の検問にかかって重傷を負ったのではなく、池田屋の二階で諸藩の尊攘派志士と一緒に宴会を開いていて、つまり土佐でいう“お客”をしていて新選組の家宅捜索「お改め」に会い、斬り合いになったことになっています。
志士たちの謀議に加わっていたのか、あるいは単に酒の席に付き合っていたのかは、はっきりしませんが、戦いは多勢に無勢、ここで斬り死にするよりはひとまず逃げようと、店の裏から屋根裏へ上がり、屋根伝いに人気のない所へ飛び降りたとあります。
池田屋へ立ち寄るまでの足取りも書かれています。
事件当日の6月5日七ツ時(午後4時)ごろ藩邸の門を出て、四条小橋にある居酒屋で石川潤次郎、藤崎八郎と3人で飲食、夕刻になって店を出、四条橋を西へ入った酒屋へはしごし、暮れごろまで居ました。潤次郎と別れたあと、八郎と二人で四条寺町の書店へ行き、『日本外史』はないかと尋ねました。ないとの答えでしたので「本屋なら外史の1部ぐらい置いておけよ」と店員と口論になりました。『日本外史』は頼山陽の著作で、幕末の尊王攘夷運動や勤王思想に多大な影響を与えた本です。二人は「我らは土州脱藩の野老山吾吉郎と藤崎八郎である」と名乗り、そんな口のききかたをすると許さんぞと言い置いて店を出ました。
ここに初めて吾吉郎の頭に「脱藩」という形容詞が登場します。また数日後になりますが、吾吉郎は尊攘派のスポンサーである板倉筑前介(淡海槐堂)に会って「遠足留になっているうえ池田屋事件に関わったので藩邸へは帰れない」と訴えますので、この段階で吾吉郎は事実上、藩の支配を離れていたことが窺われます。
吾吉郎はそのあと六ツ半(午後7時)ごろ、もう一軒、川原町四条上るの貸本屋に寄って水を一杯もらってから池田屋へ立ち寄ったことになっています。
これは私の想像で証拠はありませんが、四条寺町の本屋での遣り取りを新選組に見られ、あとを着けられた可能性があるのではないか、と思ったりします。
池田屋から脱出した吾吉郎はどうしたか。
ここで、参考までに『維新土佐勤王史』の関係部分を書きます。
「此の夜藤崎八郎、野老山吾吉郎二人は、板倉筑前介を訪ひて密談中、不意に新選組の襲撃する所となり、二人奮闘の余相失せしが、野老山は逸走して長藩邸に入るを得しも、創重くして遂に死し、藤崎は河原町の藩邸に達するの余勇ありしにも拘らず、脱藩志士と事を共にしたるを以て、敢て帰邸する能はざるに至り、亦途上に屠腹せり」
事実関係は全然違っています。
このあと吾吉郎はどうしたか。傷の具合についての記述はありません。
①その夜は三条川原に潜伏し、夜が明けぬうちに長州藩の宮川某と宮川町の揚茶屋へ行き翌6日の昼ごろまで隠れていましたが、探索の人数が多くなったので内山を残して立ち去ります。
②6日八ツ半(午後3時)ごろ熊野権現境内にある森升という料理屋へ立ち寄り、岡崎御殿詰めの石川潤次郎宛の手紙を書きます。店の者が御殿へ届けてくれました。潤次郎は一緒に脱走していますので当然居ません。足軽の六兵衛という者が開封しましたが、分かりにくい文章だったので森升へ聞きにくるという話だったそうです。
③森升へやって来た六兵衛と面会します。吾吉郎は普段は赤鞘の大小で人より長いものを差していましたが、このときは脇差一本で、服もしわになり、実にみすぼらしい恰好だったそうです。涙を流しながら池田屋での模様を話します。刀や袴は捕り手に打ち落とされ、そのまま捨ててきたこと、宮川町の揚茶屋へ行ったことは話さず、あちこち隠れ回ってやっと一命を保っているが、もうなすすべがないので割腹すると言ったそうです。六兵衛が一命を捨てるのは早すぎる、藩邸へ帰ろうと説得しますが、聞き入れてもらえません。ただ「一人だけ頼めそうな人がいるので訪ねてみたい」という吾吉郎の言葉を引き出して六兵衛は帰ります。
④夕方店を出て西へ向かい、どの道を通ったか分かりませんが、五条伏見街道の方へ同日暮れごろ着き、板倉筑前介方を訪ねます。話を聞いた筑前介も六兵衛と同じように藩邸へ帰るよう促しますが、帰れない、切腹するの一点張りだったそうです。そこで筑前介は長州か因州の藩邸に匿ってもらうことを提案します。長州藩邸へ行って必ず門内に入れてもらい「所郁太郎という人を訪ねなさい。所が不審がるなら近日中に板倉が参上するので、それまでの間でも匿って欲しいと頼みなさい」といい含めたとあります。
⑤吾吉郎の身なりは明らかに不審で道中怪しまれる恐れがあるため、差している脇差を板倉宅のものと替え、深い編み笠も取り替えました。路銀も底をついていたようなので300疋を持たせました。
吾吉身廻り全躰中間躰之仕成、着用すそやはずからげニ為致、同時ニ長邸之如く罷越申由ニ候事
子六月
(吾吉の身なりは中間風で、着物の裾・矢筈をからげ、同時に長州藩邸へ行くと申したとのことです
子六月)
「御足軽吾吉につき調書」はここで終わっています。刀や袴は取られていますが、負傷についての記述はありません。あちこち逃げ隠れして、伝えられていた重傷とはとても思えません。
また最期についても、調書では長州藩邸に向かったまでで、その後は不明です。ただ墓が東山正法寺にあるため死亡場所は長州藩邸であろうと推測できます。自裁かどうかは分かりません。
土佐藩の者で事件に関わって死亡したのは北添佶磨、望月亀弥太、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉郎の5人ですが、野老山については出身地が安芸郡芸西村で私の故郷、女優栗原小巻さんの一族と伝えられていること、それに私の長男の嫁が同姓だったことなどのため特別な関心を持っています。
吾吉郎の最期について、2009年4月の当欄で次のように書きました。
「吾吉郎は元冶元年(1864年)6月5日の池田屋事件の犠牲者とされていますが、池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介という方を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。重傷を受けて長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました」。
ところが、3年前に高知県が購入した「土佐藩京都藩邸史料」(県立坂本龍馬記念館蔵)の中に吾吉郎(史料では吾吉)のことを記した長文の調書がありました。これまで伝えられてきた事件前後の足取りとはかなり違うことが書かれています。
通りがかりに新選組の検問にかかって重傷を負ったのではなく、池田屋の二階で諸藩の尊攘派志士と一緒に宴会を開いていて、つまり土佐でいう“お客”をしていて新選組の家宅捜索「お改め」に会い、斬り合いになったことになっています。
志士たちの謀議に加わっていたのか、あるいは単に酒の席に付き合っていたのかは、はっきりしませんが、戦いは多勢に無勢、ここで斬り死にするよりはひとまず逃げようと、店の裏から屋根裏へ上がり、屋根伝いに人気のない所へ飛び降りたとあります。
池田屋へ立ち寄るまでの足取りも書かれています。
事件当日の6月5日七ツ時(午後4時)ごろ藩邸の門を出て、四条小橋にある居酒屋で石川潤次郎、藤崎八郎と3人で飲食、夕刻になって店を出、四条橋を西へ入った酒屋へはしごし、暮れごろまで居ました。潤次郎と別れたあと、八郎と二人で四条寺町の書店へ行き、『日本外史』はないかと尋ねました。ないとの答えでしたので「本屋なら外史の1部ぐらい置いておけよ」と店員と口論になりました。『日本外史』は頼山陽の著作で、幕末の尊王攘夷運動や勤王思想に多大な影響を与えた本です。二人は「我らは土州脱藩の野老山吾吉郎と藤崎八郎である」と名乗り、そんな口のききかたをすると許さんぞと言い置いて店を出ました。
ここに初めて吾吉郎の頭に「脱藩」という形容詞が登場します。また数日後になりますが、吾吉郎は尊攘派のスポンサーである板倉筑前介(淡海槐堂)に会って「遠足留になっているうえ池田屋事件に関わったので藩邸へは帰れない」と訴えますので、この段階で吾吉郎は事実上、藩の支配を離れていたことが窺われます。
吾吉郎はそのあと六ツ半(午後7時)ごろ、もう一軒、川原町四条上るの貸本屋に寄って水を一杯もらってから池田屋へ立ち寄ったことになっています。
これは私の想像で証拠はありませんが、四条寺町の本屋での遣り取りを新選組に見られ、あとを着けられた可能性があるのではないか、と思ったりします。
池田屋から脱出した吾吉郎はどうしたか。
ここで、参考までに『維新土佐勤王史』の関係部分を書きます。
「此の夜藤崎八郎、野老山吾吉郎二人は、板倉筑前介を訪ひて密談中、不意に新選組の襲撃する所となり、二人奮闘の余相失せしが、野老山は逸走して長藩邸に入るを得しも、創重くして遂に死し、藤崎は河原町の藩邸に達するの余勇ありしにも拘らず、脱藩志士と事を共にしたるを以て、敢て帰邸する能はざるに至り、亦途上に屠腹せり」
事実関係は全然違っています。
このあと吾吉郎はどうしたか。傷の具合についての記述はありません。
①その夜は三条川原に潜伏し、夜が明けぬうちに長州藩の宮川某と宮川町の揚茶屋へ行き翌6日の昼ごろまで隠れていましたが、探索の人数が多くなったので内山を残して立ち去ります。
②6日八ツ半(午後3時)ごろ熊野権現境内にある森升という料理屋へ立ち寄り、岡崎御殿詰めの石川潤次郎宛の手紙を書きます。店の者が御殿へ届けてくれました。潤次郎は一緒に脱走していますので当然居ません。足軽の六兵衛という者が開封しましたが、分かりにくい文章だったので森升へ聞きにくるという話だったそうです。
③森升へやって来た六兵衛と面会します。吾吉郎は普段は赤鞘の大小で人より長いものを差していましたが、このときは脇差一本で、服もしわになり、実にみすぼらしい恰好だったそうです。涙を流しながら池田屋での模様を話します。刀や袴は捕り手に打ち落とされ、そのまま捨ててきたこと、宮川町の揚茶屋へ行ったことは話さず、あちこち隠れ回ってやっと一命を保っているが、もうなすすべがないので割腹すると言ったそうです。六兵衛が一命を捨てるのは早すぎる、藩邸へ帰ろうと説得しますが、聞き入れてもらえません。ただ「一人だけ頼めそうな人がいるので訪ねてみたい」という吾吉郎の言葉を引き出して六兵衛は帰ります。
④夕方店を出て西へ向かい、どの道を通ったか分かりませんが、五条伏見街道の方へ同日暮れごろ着き、板倉筑前介方を訪ねます。話を聞いた筑前介も六兵衛と同じように藩邸へ帰るよう促しますが、帰れない、切腹するの一点張りだったそうです。そこで筑前介は長州か因州の藩邸に匿ってもらうことを提案します。長州藩邸へ行って必ず門内に入れてもらい「所郁太郎という人を訪ねなさい。所が不審がるなら近日中に板倉が参上するので、それまでの間でも匿って欲しいと頼みなさい」といい含めたとあります。
⑤吾吉郎の身なりは明らかに不審で道中怪しまれる恐れがあるため、差している脇差を板倉宅のものと替え、深い編み笠も取り替えました。路銀も底をついていたようなので300疋を持たせました。
吾吉身廻り全躰中間躰之仕成、着用すそやはずからげニ為致、同時ニ長邸之如く罷越申由ニ候事
子六月
(吾吉の身なりは中間風で、着物の裾・矢筈をからげ、同時に長州藩邸へ行くと申したとのことです
子六月)
「御足軽吾吉につき調書」はここで終わっています。刀や袴は取られていますが、負傷についての記述はありません。あちこち逃げ隠れして、伝えられていた重傷とはとても思えません。
また最期についても、調書では長州藩邸に向かったまでで、その後は不明です。ただ墓が東山正法寺にあるため死亡場所は長州藩邸であろうと推測できます。自裁かどうかは分かりません。
2011.03.01
休ませていただいてます
4年目を進行中の「よさこい高知歴史木漏れ日」、100回を数えた機会にひと休みさせてもらっています。八十路の上り坂が少々しんどくなった上に、新パソコンWindows7(64ビット)の機嫌が悪いのが加わって気分は鬱。
第1回からの目次を作りました。読みたい目次をクリックしますと目的の記事に移動できますので、毎日1件ずつでも読み続けていただくと嬉しいです。
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■2011・02
◇詳細地図でめぐる土佐・龍馬
◇兎耳いろいろ
■2011・01
◇土佐史談245号を紹介
◇『汗血千里駒』のこと
■2010・12
◇高知藩士になった寺坂吉右衛門
◇アンコール 志士のスポンサー淡海槐堂(下)
■2010・11
◇アンコール 志士のスポンサー淡海槐堂(上)
◇坂本龍馬の月
■2010・10
◇遂に消える植木枝盛旧邸
◇近藤長次郎の生涯
■2010・09
◇アーカイブス再録 手裏剣の名手渡辺一寸
◇室戸岬の中岡慎太郎銅像
◇新しい土佐史談244号
■2010・08
◇明治初期の革姓と革名
◇土佐の懐中ローソク
◇新版固有名詞はむずかしい
■2010・07
◇瑞山武市半平太の切腹
◇土佐の国主 長宗我部と山内
■2010・06
◇時計台下の高知大空襲
◇響け「市商」の校歌「鵬程万里」
◇アーカイブス再録 龍馬関連2題(その2)龍馬の姉千鶴の夫高松小埜(順蔵)
■2010・05
◇坂本龍馬銅像は残った
◇アーカイブス再録 龍馬関連2題(その1)志士のスポンサー淡海槐堂(下)
◇アーカイブス再録 龍馬関連2題(その1)志士のスポンサー淡海槐堂(上)
土佐史談会へぜひご入会ください。年会費6000円です。土佐史談(年3冊)が無料配布されます。
■2010・04
◇戦中、中学入学の頃(下)
◇土佐史談243号紹介します
◇戦中、中学入学の頃(上)
■2010・03
◇誕生日の贈り物「手紙」をどうぞ
◇手代木直右衛門勝任という人物 高知県副知事を務めた龍馬暗殺犯の兄
◇江藤新平の土佐潜行をめぐって 岡田以蔵、敬吉、虎輔
◇野中兼山の肖像画
■2010・02
◇手裏剣の名手 渡辺一寸
◇風雲児・山地土佐太郎
■2010・01
◇固有名詞はむずかしい
◇土佐史談242号をどうぞ
◇2010年の年賀状
■2009・12
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(最終第9回)
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第8回)
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第7回)
■2009・11
◇ちぎり絵で描く龍馬たち
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第6回)
◇龍馬さんに会える展覧会
◇高知新聞を読んでくださいませんか(「土佐 歴史細見」の紹介)
■2009・10
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第5回)
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第4回)
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第3回)
◇高知の空をとんだ高橋真梨子の歌声
■2009・09
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第2回)
◇万延元年、山田馬次郎のアメリカ紀行(第1回)
◇再録 世界遺産姫路城の恩人・中村重遠大佐
◇土佐史談会へのお誘い
■2009・08
◇政権交代、わが家は増税
◇推理・中江兆民先生の辞令
◇河田小龍という人(下)
◇河田小龍という人(上)
◇板垣退助洋行の通訳今村WARAU伝(今村和郎)(最終第15回)
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■2009・07
◇土佐史談241号ができました
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第14回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第13回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第12回)
◇さいとう・べっとう・さーねもり(虫送り)
■2009・06
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第11回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第10回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第9回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第8回)
■2009・05
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第7回)
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◇今村WARAU伝(今村和郎)(第5回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第4回)
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第3回)
■2009・04
◇今村WARAU伝(今村和郎)(第2回)
◇板垣退助洋行の通訳今村WARAU伝(今村和郎)(第1回)
◇志士のスポンサー 淡海槐堂(下)
◇志士のスポンサー 淡海槐堂(上)
■2009・03
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◇高松小埜(順蔵)=坂本龍馬の姉千鶴の夫
◇土佐の高知の事始め
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■2009・02
◇鉛活字の消えた日(上)
◇谷干城将軍支えた玖満子夫人
◇谷干城将軍の簡素な葬儀
◇移り変わる暮らしの言葉
■2009・01
◇姫路城の恩人・中村重遠大佐
◇囲碁将棋の話
◇南国土佐の習俗迷信
◇囲碁将棋と五七五とお百姓
◇陸を走る船と将棋と(山田馬次郎)
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◇藩政期、情報の伝わり方
◇土佐の出か 大石内蔵助の遠祖
◇中浜万次郎とルーズベルト大統領
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■2008・11
◇四十七士か四十六士か 寺坂吉右衛門のこと
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◇戦国時代、女性もかく戦った 『おあん物語』
◇長宗我部元親と海賊
◇森小弁と冒険ダン吉
◇定額給付金と「米100俵」 小林虎三郎と雄七郎
◇大河ドラマ「龍馬伝」と岩崎弥太郎
◇山内一豊、わしはカツトヨじゃ
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■2008・10
◇土佐史壇創刊号の話
◇山内容堂公のトイレ
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■2009・03
◇土佐史談240号が出来ました
◇高松小埜(順蔵)=坂本龍馬の姉千鶴の夫
◇土佐の高知の事始め
◇鉛活字の消えた日(下)
■2009・02
◇鉛活字の消えた日(上)
◇谷干城将軍支えた玖満子夫人
◇谷干城将軍の簡素な葬儀
◇移り変わる暮らしの言葉
■2009・01
◇姫路城の恩人・中村重遠大佐
◇囲碁将棋の話
◇南国土佐の習俗迷信
◇囲碁将棋と五七五とお百姓
◇陸を走る船と将棋と(山田馬次郎)
■2008・12
◇大河ドラマ「天地人」直江兼継の非情
◇土佐史談239号はこんな内容
◇藩政期、情報の伝わり方
◇土佐の出か 大石内蔵助の遠祖
◇中浜万次郎とルーズベルト大統領
◇ライオン宰相浜口雄幸の生い立ち
■2008・11
◇四十七士か四十六士か 寺坂吉右衛門のこと
◇石川島12番監の話(安芸喜代香の講演から)
◇戦国時代、女性もかく戦った 『おあん物語』
◇長宗我部元親と海賊
◇森小弁と冒険ダン吉
◇定額給付金と「米100俵」 小林虎三郎と雄七郎
◇大河ドラマ「龍馬伝」と岩崎弥太郎
◇山内一豊、わしはカツトヨじゃ
◇坂本龍馬はなんと読む
■2008・10
◇土佐史壇創刊号の話
◇山内容堂公のトイレ
土佐史談会へぜひご入会ください。年会費6000円です。土佐史談(年3冊)が無料配布されます。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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「デジタル史談」ご利用(検索)になれます。

2011.02.16
詳細地図でめぐる土佐・龍馬
最後に高知新聞の本を宣伝させていただきます。
『詳細地図でめぐる土佐・龍馬』 です。定価1,470円。お求めになるにはまず【ここ】をクリックしてください。内容は以下の通りです。
◇高知城を行く 追手門/高知城の石段/石樋と排水路/杉の段の井戸/鉄門跡/本丸正殿 ほか
◇泣き虫龍馬 坂本龍馬誕生地/日根野道場跡/水天宮/近藤長次郎邸跡/才谷屋跡 ほか
◇太平洋を駆ける 佐々木高行誕生地/鶴田塾跡/島浪間の墓/坂本龍馬銅像/桂浜/川島家 ほか
◇龍馬と殿様 板垣退助誕生地/後藤象二郎誕生地/山内容堂邸跡/旧山内家下屋敷長屋 ほか
◇龍馬と乙女姉やん 徳弘董斎屋敷跡/坂本家墓地/岡上樹庵の墓/平井収二郎・加尾誕生地 ほか
◇なんたって龍馬 広井磐之助邸跡/才谷屋の墓地/若一王子宮/池内蔵太邸跡/望月亀弥太邸跡 ほか
◇めぐる縁 国沢新九郎誕生地跡/開成門/寺田寅彦邸/薫的神社/小南五郎右衛門邸跡 ほか
◇ロマン再び 丸岡莞爾の墓/沢辺琢磨先祖の墓/和霊神社/甲藤馬太郎の墓/土岐真金の墓 ほか
◇いきいき青春 立志社跡の碑/はりまや橋/河田小龍邸跡/開成館跡/武市半平太旧邸 ほか
◇アウトロー以蔵 家老福岡家の墓地/谷干城の墓/間崎滄浪の墓/岡田以蔵の墓/岡本寧浦の墓 ほか
◇龍馬世界への夢 長芝旧刑場跡/鍛冶屋さま/円行寺薬師堂/田中良助旧邸/柴巻の八畳岩 ほか
◇龍馬のルーツ 土佐神社/坂本龍馬先生先塋之地の碑/才谷屋先祖の墓/高村家旧邸 ほか
◇志は同じ 宮地彦三郎の墓/大石弥太郎邸/新宮馬之助誕生地/山北両烈士の碑 ほか
◇井の中の蛙 穴内送り番所/杉の大杉/旧立川番所書院/水戸浪士との会見地/本山御殿跡 ほか
◇龍馬と慎太郎 Ⅰ 「船中八策」の碑/維新の志士顕彰碑/お龍・君枝姉妹像/岩崎弥太郎旧邸 ほか
◇龍馬と慎太郎 Ⅱ 高松家旧邸跡/野根山二十三士の墓/清岡道之助旧邸/中岡慎太郎旧邸 ほか
◇びっくり維新 北添佶磨屋敷跡/勤王屋敷/深尾邸跡/佐川町立青山文庫/赤土峠の碑 ほか
◇須崎港国際事件 須崎砲台場跡/発生寺/武市半平太銅像/中浜万次郎舟出の地/真覚寺 ほか
◇維新への道脱藩 吉村虎太郎の銅像/天忠神社/勤王六志士の墓/掛橋和泉旧邸/維新の門 ほか
◇漂流者ジョン万次郎 幸徳秋水の墓/樋口真吉邸跡/中浜万次郎誕生地/日新館跡/大江卓旧邸跡 ほか
高知新聞広告の丸写しです。ごめんください。(2011・2・1夕刊)
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『詳細地図でめぐる土佐・龍馬』 です。定価1,470円。お求めになるにはまず【ここ】をクリックしてください。内容は以下の通りです。
◇高知城を行く 追手門/高知城の石段/石樋と排水路/杉の段の井戸/鉄門跡/本丸正殿 ほか
◇泣き虫龍馬 坂本龍馬誕生地/日根野道場跡/水天宮/近藤長次郎邸跡/才谷屋跡 ほか
◇太平洋を駆ける 佐々木高行誕生地/鶴田塾跡/島浪間の墓/坂本龍馬銅像/桂浜/川島家 ほか
◇龍馬と殿様 板垣退助誕生地/後藤象二郎誕生地/山内容堂邸跡/旧山内家下屋敷長屋 ほか
◇龍馬と乙女姉やん 徳弘董斎屋敷跡/坂本家墓地/岡上樹庵の墓/平井収二郎・加尾誕生地 ほか
◇なんたって龍馬 広井磐之助邸跡/才谷屋の墓地/若一王子宮/池内蔵太邸跡/望月亀弥太邸跡 ほか
◇めぐる縁 国沢新九郎誕生地跡/開成門/寺田寅彦邸/薫的神社/小南五郎右衛門邸跡 ほか
◇ロマン再び 丸岡莞爾の墓/沢辺琢磨先祖の墓/和霊神社/甲藤馬太郎の墓/土岐真金の墓 ほか
◇いきいき青春 立志社跡の碑/はりまや橋/河田小龍邸跡/開成館跡/武市半平太旧邸 ほか
◇アウトロー以蔵 家老福岡家の墓地/谷干城の墓/間崎滄浪の墓/岡田以蔵の墓/岡本寧浦の墓 ほか
◇龍馬世界への夢 長芝旧刑場跡/鍛冶屋さま/円行寺薬師堂/田中良助旧邸/柴巻の八畳岩 ほか
◇龍馬のルーツ 土佐神社/坂本龍馬先生先塋之地の碑/才谷屋先祖の墓/高村家旧邸 ほか
◇志は同じ 宮地彦三郎の墓/大石弥太郎邸/新宮馬之助誕生地/山北両烈士の碑 ほか
◇井の中の蛙 穴内送り番所/杉の大杉/旧立川番所書院/水戸浪士との会見地/本山御殿跡 ほか
◇龍馬と慎太郎 Ⅰ 「船中八策」の碑/維新の志士顕彰碑/お龍・君枝姉妹像/岩崎弥太郎旧邸 ほか
◇龍馬と慎太郎 Ⅱ 高松家旧邸跡/野根山二十三士の墓/清岡道之助旧邸/中岡慎太郎旧邸 ほか
◇びっくり維新 北添佶磨屋敷跡/勤王屋敷/深尾邸跡/佐川町立青山文庫/赤土峠の碑 ほか
◇須崎港国際事件 須崎砲台場跡/発生寺/武市半平太銅像/中浜万次郎舟出の地/真覚寺 ほか
◇維新への道脱藩 吉村虎太郎の銅像/天忠神社/勤王六志士の墓/掛橋和泉旧邸/維新の門 ほか
◇漂流者ジョン万次郎 幸徳秋水の墓/樋口真吉邸跡/中浜万次郎誕生地/日新館跡/大江卓旧邸跡 ほか
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2011.02.01
(99)兔耳いろいろ
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西暦2011年、平成23年もはや1カ月経ちましたが、ことしの干支は辛卯(かのと う)、兎の年です。「辛」(つらい)はもう一画加えるだけで「幸」(さいわい)となります。兎にまつわる諺(ことわざ)はいろいろありますが、鳶目兎耳(えんもくとじ)兎耳(うさぎみみ)、いずれも情報収集がすばやいことのたとえです。
『広辞苑』を開きますと、「兎耳」は「うさぎみみ」と読み、よく人の隠し事を聞き出すこと、また、その人と解説してあります。
藩政時代、いかに早耳であっても人から人へ声か手紙しか伝達手段のなかった時代です。坂本龍馬暗殺の報はどう伝わったのでしょう。
土佐藩の重役だった佐々木高行の日記『保古飛呂比』に次のようにあります。
「慶応三年十一月廿七日、晴(中略)空蝉船入津ニテ、坂本龍馬、石川誠之助被害候報知アリ、直様海援隊ヘ相達シ候、渡邊剛八来リ、大ニ憤怒、直様上京、仇討セント云フ、自分云フ、今日ノ天下、一人ノ仇討ノ時ニ非ズ、大仇討ノ策肝要ナリト、理ヲ以テ示諭、剛八漸ク承服ス」
龍馬・慎太郎が京都・近江屋で襲われたのが11月15日夜ですから、佐々木高行の耳に届くまで12日かかったことになります。この情報は船に乗って高知に運ばれてきました。佐々木の様子は冷静でした。
いわゆる8月18日の政変で都落ちした三条実美ら攘夷派公卿の警護に当たっていた土方久元が北九州の大宰府でこの報を知ったのは土佐より遅く、月が変わって12月3日。5日に大宰府本願寺で5卿らも参列して追悼の式を挙げています。(土佐史談245号=平成22年12月=松本紀郎「信念を貫いた土方久元の系譜」)
幕末ペリーの黒船艦隊4隻が浦賀に来航したのは嘉永6年(1853年)6月3日ですが、この大事件の報告が土佐藩に届いたのは、「土佐藩政録」によりますと、2週間後の18日だったそうです。
岩崎弥太郎が安政2年(1855年)父親の強打事件のため急遽帰国したときは江戸から安芸まで16日掛かっています。(時代は移って現代、環境は大きく違っていますが、間寛平さんがやり遂げたアースマラソンの大阪→東京間は12日、福岡→大阪は18日。)
前々回に赤穂47士の寺坂吉右衛門が江戸ー赤穂間を3日で駆け抜けたと紹介しましたが、ちょっと速すぎる気もします。
『土佐史壇』13号(大正14年)をひもときますと、杜山居士の筆名で「昔の郵便の不便」という記事がありました。筆者は土佐史談会の会長もつとめた寺石正路氏です。
大石内蔵助らの吉良邸討ち入りの発端となったのは、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた殿中刃傷事件ですが、浅野家ではこの日2回、急使をもって赤穂に急報します。
江戸城本丸松の廊下で事件の起こった元禄14年(1701年)3月14日午前、まず早水藤左衛門らが早打ちで出発します。
内匠頭は異例の早さで即日切腹の処分となり、こんどは原惣右衛門らが早打ちで西に向かいます。
早打ちとは馬を馳せて急を知らせることと『広辞苑』にあります。
2つの急使は昼夜兼行175里を走り、18日赤穂に到着です。
4日かかりました。さすが1藩1城の浮沈がかかった緊急事態の速報です。吉右衛門の3日が本当なら新記録ですが…。
しかし、こんなことは例外中の例外、万延元年の大事件がどんな具合に伝わったか、資料で見てみようというのが杜山居士の一文です。
資料というのは土佐藩士・森正名(1805~1873年)の日記です。横谷(おうこく)と号し、『土佐人物志』『有馬入湯紀行』など多くの著述を残しています。
万延元年の大事件というのは大老・井伊掃部頭直弼が殺された、いわゆる桜田門外の変のことで、3月3日雪の朝でした。
事件の日は当時の年号では安政7年。この事件のため3月28日に至って万延と改元されました。
森横谷はこの年、まだ安政7年です、3月11日、若干の同行と中国畿内への旅に出ます。その日まで土佐にはなんの噂もありませんでした。
16日、伊予(愛媛)道後温泉で旅館棉屋万次郎の妻から初めて事件を知らされます。 「此の日亭主の妻女いふ。江戸表に御大老井伊様を、水戸浪人十数人にて、御下城の所を桜田御門外にて打取りたりと、一両日前より風聞あり」
「御下城」とあり、情報はゆがんでいます。
大変なことゆえ口外ならぬといわれていたのか、小声だったそうです。
森一行は瀬戸内海を渡って20日安芸(広島)に着きます。中屋栄助という旅館に投宿し、金子徳之助という老学者を訪ねます。
金子「井伊侯、桜田御門外にて盗のため害に遭い給いしの説あり、聞き給えるや」
森「松山にて商人の話に、井伊侯3月3日桜田門外にて水戸浪人20人ばかり面を包み御駕籠の両方より切り懸かり遂に侯を突き殺したりと聞けり」
金子「松山にてもその説あれば、いよいよそのことありしも知るべからず」
こんな問答があったと記されているそうです。
杜山居士は次のように感想を述べています。
「金子翁は霜山と号し芸州の大儒なり、芸州は浅野家にて中国の大藩なり、この藩この人にして、桜田騒動の後17日目にして、未だその事実の確否を知らず、これを他藩の人、他藩の噂に聞き尋ねて、初めて事実の確的らしきを認む。封建時代通信機関の不備不便なる、言語の外なりというべし」
この事件、幕府は最後まで極秘のうちに処理し、後日急病のため死亡したとするのですが、私は、江戸から遠く離れた松山の宿屋のおかみが、この極秘情報を2週間足らずのうちに得ていたことに、杜山居士とは別の驚きを感ずるのです。坂本龍馬の場合と比較して…。
この時代、情報は旅人の口から口へと伝わったのでしょうか。だとすれば、旅館というところは情報の交差点。
なおこの桜田門外の変、訪米中の遣米使節団は4月23日にフィラデルフィアの新聞で知ることになりますが、殺されたのが井伊直弼とは分からなかったようです。3月には閏月がありましたので約80日かかったことになります。
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土佐史談会へぜひご入会ください。年会費6000円です。土佐史談(年3冊)が無料配布されます。
維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に9講座を終わり、あと25日の板垣退助で終わりです。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯(了)
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
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西暦2011年、平成23年もはや1カ月経ちましたが、ことしの干支は辛卯(かのと う)、兎の年です。「辛」(つらい)はもう一画加えるだけで「幸」(さいわい)となります。兎にまつわる諺(ことわざ)はいろいろありますが、鳶目兎耳(えんもくとじ)兎耳(うさぎみみ)、いずれも情報収集がすばやいことのたとえです。
『広辞苑』を開きますと、「兎耳」は「うさぎみみ」と読み、よく人の隠し事を聞き出すこと、また、その人と解説してあります。
藩政時代、いかに早耳であっても人から人へ声か手紙しか伝達手段のなかった時代です。坂本龍馬暗殺の報はどう伝わったのでしょう。
土佐藩の重役だった佐々木高行の日記『保古飛呂比』に次のようにあります。
「慶応三年十一月廿七日、晴(中略)空蝉船入津ニテ、坂本龍馬、石川誠之助被害候報知アリ、直様海援隊ヘ相達シ候、渡邊剛八来リ、大ニ憤怒、直様上京、仇討セント云フ、自分云フ、今日ノ天下、一人ノ仇討ノ時ニ非ズ、大仇討ノ策肝要ナリト、理ヲ以テ示諭、剛八漸ク承服ス」
龍馬・慎太郎が京都・近江屋で襲われたのが11月15日夜ですから、佐々木高行の耳に届くまで12日かかったことになります。この情報は船に乗って高知に運ばれてきました。佐々木の様子は冷静でした。
いわゆる8月18日の政変で都落ちした三条実美ら攘夷派公卿の警護に当たっていた土方久元が北九州の大宰府でこの報を知ったのは土佐より遅く、月が変わって12月3日。5日に大宰府本願寺で5卿らも参列して追悼の式を挙げています。(土佐史談245号=平成22年12月=松本紀郎「信念を貫いた土方久元の系譜」)
幕末ペリーの黒船艦隊4隻が浦賀に来航したのは嘉永6年(1853年)6月3日ですが、この大事件の報告が土佐藩に届いたのは、「土佐藩政録」によりますと、2週間後の18日だったそうです。
岩崎弥太郎が安政2年(1855年)父親の強打事件のため急遽帰国したときは江戸から安芸まで16日掛かっています。(時代は移って現代、環境は大きく違っていますが、間寛平さんがやり遂げたアースマラソンの大阪→東京間は12日、福岡→大阪は18日。)
前々回に赤穂47士の寺坂吉右衛門が江戸ー赤穂間を3日で駆け抜けたと紹介しましたが、ちょっと速すぎる気もします。
『土佐史壇』13号(大正14年)をひもときますと、杜山居士の筆名で「昔の郵便の不便」という記事がありました。筆者は土佐史談会の会長もつとめた寺石正路氏です。
大石内蔵助らの吉良邸討ち入りの発端となったのは、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた殿中刃傷事件ですが、浅野家ではこの日2回、急使をもって赤穂に急報します。
江戸城本丸松の廊下で事件の起こった元禄14年(1701年)3月14日午前、まず早水藤左衛門らが早打ちで出発します。
内匠頭は異例の早さで即日切腹の処分となり、こんどは原惣右衛門らが早打ちで西に向かいます。
早打ちとは馬を馳せて急を知らせることと『広辞苑』にあります。
2つの急使は昼夜兼行175里を走り、18日赤穂に到着です。
4日かかりました。さすが1藩1城の浮沈がかかった緊急事態の速報です。吉右衛門の3日が本当なら新記録ですが…。
しかし、こんなことは例外中の例外、万延元年の大事件がどんな具合に伝わったか、資料で見てみようというのが杜山居士の一文です。
資料というのは土佐藩士・森正名(1805~1873年)の日記です。横谷(おうこく)と号し、『土佐人物志』『有馬入湯紀行』など多くの著述を残しています。
万延元年の大事件というのは大老・井伊掃部頭直弼が殺された、いわゆる桜田門外の変のことで、3月3日雪の朝でした。
事件の日は当時の年号では安政7年。この事件のため3月28日に至って万延と改元されました。
森横谷はこの年、まだ安政7年です、3月11日、若干の同行と中国畿内への旅に出ます。その日まで土佐にはなんの噂もありませんでした。
16日、伊予(愛媛)道後温泉で旅館棉屋万次郎の妻から初めて事件を知らされます。 「此の日亭主の妻女いふ。江戸表に御大老井伊様を、水戸浪人十数人にて、御下城の所を桜田御門外にて打取りたりと、一両日前より風聞あり」
「御下城」とあり、情報はゆがんでいます。
大変なことゆえ口外ならぬといわれていたのか、小声だったそうです。
森一行は瀬戸内海を渡って20日安芸(広島)に着きます。中屋栄助という旅館に投宿し、金子徳之助という老学者を訪ねます。
金子「井伊侯、桜田御門外にて盗のため害に遭い給いしの説あり、聞き給えるや」
森「松山にて商人の話に、井伊侯3月3日桜田門外にて水戸浪人20人ばかり面を包み御駕籠の両方より切り懸かり遂に侯を突き殺したりと聞けり」
金子「松山にてもその説あれば、いよいよそのことありしも知るべからず」
こんな問答があったと記されているそうです。
杜山居士は次のように感想を述べています。
「金子翁は霜山と号し芸州の大儒なり、芸州は浅野家にて中国の大藩なり、この藩この人にして、桜田騒動の後17日目にして、未だその事実の確否を知らず、これを他藩の人、他藩の噂に聞き尋ねて、初めて事実の確的らしきを認む。封建時代通信機関の不備不便なる、言語の外なりというべし」
この事件、幕府は最後まで極秘のうちに処理し、後日急病のため死亡したとするのですが、私は、江戸から遠く離れた松山の宿屋のおかみが、この極秘情報を2週間足らずのうちに得ていたことに、杜山居士とは別の驚きを感ずるのです。坂本龍馬の場合と比較して…。
この時代、情報は旅人の口から口へと伝わったのでしょうか。だとすれば、旅館というところは情報の交差点。
なおこの桜田門外の変、訪米中の遣米使節団は4月23日にフィラデルフィアの新聞で知ることになりますが、殺されたのが井伊直弼とは分からなかったようです。3月には閏月がありましたので約80日かかったことになります。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に9講座を終わり、あと25日の板垣退助で終わりです。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯(了)
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
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