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    瑞山武市半平太小楯 (ちぎり絵 藤戸京子)
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 NHK大河ドラマ「龍馬伝」も後半に入りました。坂本龍馬はいよいよ日本の未来を賭けた戦い、倒幕へと歩を進めます。7月11日放映の第27回は第2部の最終回「半平太の夢」。吉田東洋暗殺の疑いで取り調べを受けた瑞山武市半平太は遂に死の時を迎えました。
 1年9カ月に及ぶ過酷な入牢取り調べでも具体的な立証は出来ず、「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられました。
 判決文は意訳しますと次の通りです。
 「右(武市)は去る酉年(文久元年)以来、天下の形勢に乗じて密かに党与を結び人心を扇動し、爾来京都高貴の方へ容易ならざる事をしばしば申し上げ、またご隠居様(山内容堂)へたびたび不届きな願いを申し上げるなど、総じて臣下の分を失し、上威を軽蔑し、国憲を紛紊(ふんびん)し言語道断、重々不届きの至り。厳罰に処せられる筈のところ、お慈恵をもって切腹仰せ付けらる」(慶応元年5月11日)
 不敬罪で死刑が執行されたのは慶応元年(1865年)閏5月11日の夜。切腹の模様を、師である五十嵐文吉が介錯人から聞き取った手記をもとに再現します。
 この日の半平太は牢内着や道具類を片付け、髪を結い、「死体ニ垢付キ居テハ見苦シトテ、洗粉ニテ擦リ磨キ」、取り寄せた衣類を身に着けました。下着は晒(さらし)、上は浅黄紋付、絹の帯を締め、袴姿で中椽に罷り出、御目付の間忠蔵から上記判決文を申し渡されます。この時の表情は「聊カモ家礼ヲ失ハズ、顔色立居振舞常ノ如シ」とあります。 それから吟味場の蒔砂(まきすな)へ出る潜りの内で上下(かみしも)に着替え切腹の場所に着きました。
 その場所は 南会所大広庭の吟味場、落椽(おちえん)から3尺ばかり離して畳を2枚敷き、その上に藺表(いおもて)を広げ、白木の三宝に棒鞘の懐剣に白の木綿ぎれを添えてありました。
 介錯人を努める半平太の妻冨の実弟・島村寿太郎と義理の甥・小笠原保馬が両側に控えます。
 「半平太ヨリ両人ヘ御苦労ト挨拶致し、懐剣ヲ取リ抜テ中身ヲ能(よ)ク能ク見テ三宝ヘ置キ、諸肩(もろかた)引抜キ帯際を押クツロゲ、懐剣を取リ木綿切ニテ刃ヲ押シ巻キ、腹ヘ突立三コノ通リ三段ニ切リ、剣ヲ右ヘ置キ、手を突キ、ウツ伏ニ俯ス。是ニテ介錯人両方ヨリ脇腹を刺ス六刀計リニテ絶息ニ至ル」。
 以上土佐史談151号(昭和54年)の史料紹介「武市半平太最後の始末」から引用しました。
 切腹の作法については時代により、地方によっても違いはありますが、この場合は腹を横に3段切る三文字割腹法がとられ、介錯についても首を落とす仕方は避けられていることが分かります。
 「龍馬伝」のこのシーン、介錯人が刀を振り上げる姿が放映されましたが、土佐史談会理事の松岡司さんは下記「維新の群像10講座」で瑞山を貶めるものだと憤慨していました。
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 実際に切腹の行われた地点が今のどこなのかははっきりしませんが、帯屋町・大橋通り交差点から西へ1ブロック寄った所、四国銀行帯屋町支店の建物に沿って「武市瑞山先生殉節之地」と刻した石碑(写真)が立っています。しかしこれは昭和28年(1953年)に“ここも南会所の一廓”と場所を移して建てたもので、戦災前までは大橋通り道路脇にありました。
 昭和18年、私は高知県立高知城東中学校の1年生で、中島町(今は本町2丁目で竹下病院のある所)の親戚・小松武重さん方に下宿していました。その家から中島町を西進し高野寺の角を曲がって北進、学校の西門に至るのが朝の通学路でした。本町の電車通りを渡って少し行った西側、道路沿いにその碑は立っていました。立派な台座に乗った自然石の碑で、鎖で繋いだ玉垣をめぐらしてあったように記憶しています。毎朝その前を通っていましたから。
 この碑については土佐史壇3号(大正7年)と5号(同9年)に記事があります。
 大正8年(1919年)9月28日に除幕式が行われたもので、「贈正四位武市半平太先生死節之處」という文字が刻まれたとあります。
 土佐藩庁南会所は明治に入って市立商業学校が使っていましたが、移転後は荒れるがままとなっていました。土佐勤王運動の重要な史跡が忘れ去られるのを憂慮した中城直正氏(高知図書館長)らが発起人となり、建碑運動を進めます。土地所有者の浜口駒次郎氏(佐川出身)が7坪を提供し、山内侯爵家も200円を寄付、一般募金を合わせて維持経費込み総額1000円の事業だったということです。以来この碑は高知県教育会長中島和三氏の名義になっていましたが、このような史跡地を個人名義にしておくことは管理上支障もあるため昭和11年から高知市に寄付、その管理下に置くことにしたそうです(同年4月18日土陽新聞、20日高知新聞)
 昭和20年の戦災復興の過程ですっかり取り壊され、28年に至って場所も形も変えて復活したのが写真の碑です。高知市教育委員会と帯屋町公設市場組合によって建てられました。

 切腹場面を最後にドラマから半平太の姿は消えるでしょうが、遅まきながらこの人物を演じ切った俳優・大森南朋の横顔を紹介します。
 昭和47年(1972年)生まれですから38歳、東京出身です。平成19年(2007年)に放送されたNHKの土曜ドラマ「ハゲタカ」の主人公鷲津政彦役に抜擢され、日本アカデミー賞の優秀主演男優賞に輝いています。「おおもり・なお」と読みます。人の読み方はむずかしい。岡田以蔵役を終えた佐藤健、けんやたけしでなく「たける」です。

 大正6年(1917年)澤田正二郎(澤正、生まれは大津市ですがお父さんは土佐人)らによって結成された新国劇は座付き作者行友李風の書いた「月形半平太」と「国定忠治」で大当たりをとります。前者は祇園の芸者雛菊の「月様、雨が…」月形が応じて「春雨じゃ、濡れて行こう」という名台詞で知られる芝居です。このモデルが瑞山武市半平太であるという話が流布されています。インターネットで検索してみてください、分かります。
 しかしこれはとんでもない謬説(びゅうせつ)だと入交好脩氏(いりまじり・よしなが=早稲田大学元教授で、桂浜の坂本龍馬銅像を建てた好保氏の弟)は著書や土佐史談で主張しています。
 それによりますと、月形の姓は福岡藩の志士月形洗蔵から、名の半平太は武市半平太から借用しただけのもので、作者の描いた全く架空の人物。最後に薩長連合・王政復古を絶叫するところは坂本龍馬を彷彿とさせるものがありますが、茶屋酒に浸っている姿は越後の志士本間精一郎そっくりで、品行方正、据え膳さえ決して手をつけなかった愛妻家として知られる武市瑞山とは似ても似つかぬ人物、全くの濡れ衣だと述べています。(土佐史談158号、170号 )

 36歳で未亡人となった冨、養子を迎えて武市家を守り大正6年まで生きて88歳の長寿を全うしますが、その晩年を看たのが藤戸謙吾高知新聞社会長のおじいさん、謙治医師でした。高知市の藤戸病院や芸西村の芸西病院を経営する藤戸せつさんのお父さんでもあります。謙治医師は金沢の医学校を出て大正の終わりごろ西分村(現芸西村)で開業しますが、その前に高知病院の野並医師に師事して同病院の勤務医を勤めています。そのころのことでしょう。冨未亡人はガンを患っていたようで、俳句を能くした謙治医師の句が残っています。「腹癌に重さくわわる藁布団 憶良」。芸西村の藤戸家墓地を案内する村が立てた標柱に書いてあります。

 関連人名 半平太切腹と同時に打ち首=岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎◇吉田東洋殺害を実行=那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵(高見弥市)

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     維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
          講師   テーマ
  5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
  6月27日 渡部淳  山内容堂(了)
  7月31日 松岡 司 武市半平太
  8月27日 宅間一之 吉田東洋
  9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士
 10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土
 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
 12月10日 今井章博 後藤象二郎
  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
  2月25日 公文 豪 板垣退助
 場所 高知県立文学館ホール
 時間 午後1時30分~3時30分
 参加費 無料(参加人数は100名)
  葉書かFAXで申し込みください。

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          土佐史談会
          高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
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