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志士のスポンサー淡海槐堂(上)
 
 幕末、国事に奔走する志士たち。国を憂いて東奔西走するには資金がいる。先立つものは「カネ」である。
 脱藩…藩の庇護を離れるわけであるから自己資金は不可欠である。衣類は着たきり、夜は野宿するとしても、食だけはどうにもならない。
 こんな貧乏志士たちから公卿までの活動を支えたスポンサーの一人に淡海槐堂という人があった。
 「おうみ・かいどう」と読みます。いろんな名前を持つ人で、本名は緝(つぐむ)。号が槐堂です。別称として敬天、敬夫、頑山、醒蘇、公朔、重徐、重□(さんずいに余と書いて、じゅうとでしょうか、しげみちでしょうか)。雅号に紅蕉書屋、千秋草堂というのもあります。誤植らしきものも含めて目についたものを記しました。中岡慎太郎(変名・石川清之助)の手紙に「快堂先生」と見えますが、これは昔の人流の当て字でしょう。龍馬を良馬と書いた人がいたように…。
 文政5年(1822年)12月朔日、近江の国、今の滋賀県長浜市の医師とも儒者ともいわれる下坂篁斎(下阪甲内と書いた本もあり、検索泣かせです)の第5子として生まれ、3歳で京都の豪商、薬種商を営む武田家の養子に入ります。
 安政2年(1855年)公家の一つ醍醐家に仕えて板倉姓をもらい筑前介に任ぜられ、板倉筑前介を名乗ります。
 慶応4年(1868年)3月、醍醐家を退いたのを機に姓を生国近江にちなんで淡海と改めて淡海筑前介になり、明治3年からは位記を返上して号を槐堂とし、このときから淡海槐堂を名乗っています。
 武田家は武田信玄の子孫で、武田家滅亡後、京都に逃れて奇応丸などの薬を売って巨万の富を築き上げた商人です。「おひや薬」の名で有名だったそうですが、『防長回天史』には「伏見街道桶屋薬トイヘル薬種屋」、子母沢寛の『新撰組始末記』には「五條橋東小児薬おけや薬といふを売れり」とあるそうで、どの名前が正しいのか、また屋号なのか薬品名なのか私には分かりません。
 その富、例えば、文久3年のクーデターで敗れた尊王攘夷派の三条実美ら公卿7人が長州へ逃れた、いわゆる7卿落ちに当たり、5回にわたって計2150両を融通していることで富豪ぶりがうかがわれます。
 この人、文久3年に京都大仏日吉山に「並修館」という文武館を自費で建てて志士と交わります。
 自らは「文」を担当し、「武」は井汲唯一という剣客が当たりました。
 坂本龍馬をはじめ武市半平太、中岡慎太郎、吉村虎太郎ら多くの志士が出入りしました。 「文」を担当しただけあって絵も善くし、龍馬と慎太郎が殺された部屋にあった梅に椿の花を配した血染めの掛軸はこの人の描いたものです。
 今回はこれまでとし、次回は土佐の人士とのかかわりを中心に続けます。
 参考記事=『土佐史談』6号(大正10年)宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」▽67号(昭和14年)松村巖「淡海槐堂」▽170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)西尾秋風「淡海槐堂と土佐稲荷の謎-坂本竜馬暗殺秘帖」
 このほかインターネット「好古斎」ホームページ▽大阪龍馬会メールマガジン▽龍馬堂ホームページなどを参考にしました。

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