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2010.04.11
(76)土佐史談243号紹介します
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写真は高知県安芸郡芸西村の琴ケ浜にある坂本龍馬の妻お龍と妹君枝の姉妹像。二人の見詰める視線の先は高知市桂浜の龍馬像(『芸西村半世紀の歩み』=平成17年、芸西村発行=から)
君枝(東京の墓碑起美)は同村和食(わじき)出身の海援隊士・菅野覚兵衛(1842~93年、初名千屋寅之助)の妻。お龍は明治元年(1868年)初夏、妹の嫁ぎ先である和食村(現芸西村)を訪れており、姉妹で仲良く琴ケ浜を散策したこともあったようです。

土佐史談243号が発行されましたので、紹介します。目次は次の通りです。
◇尊良親王配流地について-第二仮御所「王野山御殿跡」を中心に-…橋田栄澄(16ページ)
◇最後の国人山田氏とその嫡子について…朝倉慶景(8ページ)
◇近世和文体史と土佐の和文(下)…竹本義明(9ページ)
◇山崎年信伝備考-坂本龍馬伝「汗血千里の駒」(坂崎紫瀾著)の絵師…中村茂生(16ページ)
◇大正デモクラシーから満州事変までの高知(下)-満州事変へ…内川清輔(19ページ)
◇戦前・戦中における一漁村の青年団活動…岡林正十郎(10ページ)
◇史料紹介 千葉佐那と泥棒、お龍の死…公文豪(5ページ)
このうち公文豪氏の「お龍の死」は、お龍の最後を伝える3つの土陽新聞記事を紹介しています。
高知を離れて神奈川県横須賀に移り、西村松兵衛と結婚したお龍の末路はまことに哀れなもので、「轗軻落魄殆ど其極に達し、一銭の貯へ、一銭の収入とてなく」とあります。 なじみのない言葉ですので、『広辞苑』を引きますと、
轗軻(かんか)=好機にめぐまれず志を得ぬこと。世にいれられないこと。困窮すること。不遇。不運。
落魄(らくはく)=おちぶれること。零落。
お龍・松兵衛の結婚は馬ノ上村(現芸西村)出身の海援隊士、安岡金馬が媒酌したといわれ、お龍は西村ツルとして入籍したそうです。
土陽新聞明治39年1月21日の記事を読みますと、お龍の最晩年を世話したのは戸籍上の夫・松兵衛(記事では西村松平)ではなく、工藤外太郎(くどう・とたろう)という人物だったことが分かります。この人の詳しいことは貧乏だったこと以外書いてありません。
お龍さん死去の報が伝わりますと皇后陛下から香川皇后宮太夫の名で「哀悼ノ臻(いたり)ニ堪ヘス。相応ノ用向アラバ御申越アリタシ」との電報が来たことを伝えています。
また死亡の日時は明治39年1月16日午前というのと、15日午後11時66歳という2通りが載っています。
なお、お龍ら『龍馬と八人の女性』という阿井景子さんの新刊が高知新聞4月10日夕刊に紹介されています。(ちくま文庫、756円)
土佐史談会が昨年から今年にかけて開いた「龍馬学10講座」はどの講座も盛況で、延べ聴講者は1000人を超えました。近く講演抄録が発行されます。
今年は「維新の群像10講座」をする予定で準備を進めているということです。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-872-6307
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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写真は高知県安芸郡芸西村の琴ケ浜にある坂本龍馬の妻お龍と妹君枝の姉妹像。二人の見詰める視線の先は高知市桂浜の龍馬像(『芸西村半世紀の歩み』=平成17年、芸西村発行=から)
君枝(東京の墓碑起美)は同村和食(わじき)出身の海援隊士・菅野覚兵衛(1842~93年、初名千屋寅之助)の妻。お龍は明治元年(1868年)初夏、妹の嫁ぎ先である和食村(現芸西村)を訪れており、姉妹で仲良く琴ケ浜を散策したこともあったようです。

土佐史談243号が発行されましたので、紹介します。目次は次の通りです。
◇尊良親王配流地について-第二仮御所「王野山御殿跡」を中心に-…橋田栄澄(16ページ)
◇最後の国人山田氏とその嫡子について…朝倉慶景(8ページ)
◇近世和文体史と土佐の和文(下)…竹本義明(9ページ)
◇山崎年信伝備考-坂本龍馬伝「汗血千里の駒」(坂崎紫瀾著)の絵師…中村茂生(16ページ)
◇大正デモクラシーから満州事変までの高知(下)-満州事変へ…内川清輔(19ページ)
◇戦前・戦中における一漁村の青年団活動…岡林正十郎(10ページ)
◇史料紹介 千葉佐那と泥棒、お龍の死…公文豪(5ページ)
このうち公文豪氏の「お龍の死」は、お龍の最後を伝える3つの土陽新聞記事を紹介しています。
高知を離れて神奈川県横須賀に移り、西村松兵衛と結婚したお龍の末路はまことに哀れなもので、「轗軻落魄殆ど其極に達し、一銭の貯へ、一銭の収入とてなく」とあります。 なじみのない言葉ですので、『広辞苑』を引きますと、
轗軻(かんか)=好機にめぐまれず志を得ぬこと。世にいれられないこと。困窮すること。不遇。不運。
落魄(らくはく)=おちぶれること。零落。
お龍・松兵衛の結婚は馬ノ上村(現芸西村)出身の海援隊士、安岡金馬が媒酌したといわれ、お龍は西村ツルとして入籍したそうです。
土陽新聞明治39年1月21日の記事を読みますと、お龍の最晩年を世話したのは戸籍上の夫・松兵衛(記事では西村松平)ではなく、工藤外太郎(くどう・とたろう)という人物だったことが分かります。この人の詳しいことは貧乏だったこと以外書いてありません。
お龍さん死去の報が伝わりますと皇后陛下から香川皇后宮太夫の名で「哀悼ノ臻(いたり)ニ堪ヘス。相応ノ用向アラバ御申越アリタシ」との電報が来たことを伝えています。
また死亡の日時は明治39年1月16日午前というのと、15日午後11時66歳という2通りが載っています。
なお、お龍ら『龍馬と八人の女性』という阿井景子さんの新刊が高知新聞4月10日夕刊に紹介されています。(ちくま文庫、756円)
土佐史談会が昨年から今年にかけて開いた「龍馬学10講座」はどの講座も盛況で、延べ聴講者は1000人を超えました。近く講演抄録が発行されます。
今年は「維新の群像10講座」をする予定で準備を進めているということです。
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