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2010.04.21
(77)戦中、中学入学の頃(下)
城東中学校1年の時の写真。服は国防色、戦闘帽、胸に名札を縫い付けてあります。中央が私(右)と長江正くん。右端は学友の弟の足達秀夫くん(小学生)。2年後の高知大空襲で焼夷弾の炎を浴びて焼き殺されました。高知市中島町にあった家が全焼しましたので私が持っていたこれが唯一の生前写真となりました。長江くんはその当時、予科練に入隊、松山に居ました。乗る飛行機はなかったそうです。妹さんをこの空襲で亡くしています。左端は森沢泰雄くん。その後の消息を得ていません。この写真はたしか高知市大橋通りの電車通りにあった写真館で撮ったものです。秀夫くんは4人にするため引っ張り込まれたものでしょう。3人で写真を写せば真ん中の人に不幸が訪れるという迷信がありましたから。


この写真は昭和18年3月卒業生の服装です。(『高知追手前高校百年史』から)
同じ年の1年生と5年生でご覧のように違います。
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新一年生の服装だが、服は国防色の折り襟。胸に名札。編み上げの革靴にゲートル、巻き脚絆(きゃはん)といったが、うまく巻けず、ずり落ちてきて苦労した。靴にしても自由に買える時代ではない。はき詰めでは傷みも激しい。修理屋さんが週に何回か校舎の出入り口に来ていた。底皮を替えたり磨耗防止の金具を打ってもらったり、大事にしたものである。背嚢を背負わされた。物資不足の折から革製は新調しようにもできず、卒業生から調達したものを抽籤で分けてもらった。私は当たらなかったので、これも国防色の布製を買わされた。帽子は丸い学生帽ではなく、同じく国防色の戦闘帽。六稜の校章に一中伝統の白線が一本入ったのを指定店の曽我帽子店で買った。同級生にこのお店の二男がいた。
ピカピカの新一年生を待ち構えていたのが恒例の「行軍」。新旧生徒親睦と新入生祝賀と銘打って長浜町までの往復。四月十五日午前九時出発、午後五時帰校。落伍者があったとは聞いていない。
当時の学校は「行軍」と称する徒歩鍛錬が好きで、よくやられた。いつだったか、高知市の北山沿いに後免町まで歩いたことがあった。背嚢に何貫かのものを入れて来いと言われたので『大言海』という分厚い辞書を背負って行った。復路、荷物はもういいと言われたが、本を捨てる訳にもいかず、石を入れて行った同僚に差をつけられた覚えがある。ちなみにこの『大言海』、高知新聞・藤戸謙吾社長のお祖父さん・謙治医師が入学祝いとして贈ってくれたものでした。
いやな事もあった。
その一。町ですれ違う時、先生はもちろん上級生に対しても敬礼しなければならなかった。右手を耳の横まで上げるあれである。でなければ殴られる。とにかく一年生にとっては相手が多すぎる。抜かる事だってあるのだ。ビンタをくらっても、ただ、その時そこを通りかかったという自分の運の悪さを嘆くほかなかった。藩政時代は昭和になっても生きていたのである。
そして恐怖の土曜日。放課後、最上級生から屋上集合の号令がかかる。いまでいう「いじめ」が始まるのである。「鍛える」といった。訓育部があった。配属将校もいた。学校公認であったようだ。ズボンを捲り上げ長時間の正座。ざらざらした屋上の床が肌に食い込む、拷問である。よく我慢したものだ。どんな理由があってこんな仕打ちを受けねばならなかったのか、いまもって分からない。
戦時色濃厚であった。敗色ようやく濃く、日本軍はガダルカナルを撤退し、連合艦隊の山本五十六司令長官が撃墜された年である。六月二十五日には軍事教練と勤労動員を課す学徒動員要綱が閣議決定された。十四、五歳の少年も勤労奉仕に駆り出されることになった。本格化するのは二年生になった十九年からだが、勉強そちのけで県下各地へ行かされた。当時の学校日誌には作業状況視察のため飛び回る校長の記事が毎日のように記録されている。越知町へ行っていた同級生の前田幸造君が、頭へ怪我したが経過は順調であるとの記事も見える。
そんな中の一つ。神田川の改修工事。いま周辺は住宅街になってどこらあたりであったか見当もつかないが、五丁目の新月橋を南へ渡って工事現場へ通った。西の方に片倉製糸の工場があった。堤防に使う石を山から運ぶ作業だった。採石場の対岸に火葬場の高い煙突が見えていた。六月九日、校長による視察を受けて二十日間にわたる奉仕に一応の区切りをつけ、体を休めたことだった。
もう一つは弥右衛門の土地改良事業。湿田を乾田にする工事で、私たちの作業は「人間ばん馬」として独特の器具を引っ張る力仕事だった。その器具というのは鋭い金属板の先に砲弾様の金属塊が付いたもので、地下数十センチのところに横穴を通して水分を抜いた。
ここも今は川添や御座といった市街地になっているが、高知市の町づくりの底辺には幼い中学生の汗がにじんでいるのである。
高知龍馬空港、三島山を崩したのは私たちである。
いやなことばかりではなかったはずだが、楽しい思い出の書けなかったのは残念。しかし当時ともに助け合って歩んだ友は私の宝。今も月に一度の会合を持って盃を酌み交わしている。酒は全くいけないが必ず顔を見せる神主さんあり、禁煙数十回でまだ終点にたどり着けないがんばり屋さん、遊びこうじて遂に雀荘を開業した豪の者もいる。傘寿近辺、十数名の集まりだが、会費もだいぶ溜った、最後に独り占めできるのは誰か、こんな話のできるのも、戦時下の時計台下に育った友情の賜物である。
(高知追手前高等学校校友会誌『時計台』第30号から)

この先生方の教えを受けて私たちは昭和23年(1948年)3月、高知県立高知城東中学校最後の卒業生となった。
久万忠郎、中村伝喜、入江雅幸、橋野勝、西山満州、竹村一水、松木健一、杉村督郎、三宮慎助、福川萬次、山本登、上島一司、吉松清の各先生の顔は分かりますが、そのほかは思い出せません。ごめんなさい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-872-6307
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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ピカピカの新一年生を待ち構えていたのが恒例の「行軍」。新旧生徒親睦と新入生祝賀と銘打って長浜町までの往復。四月十五日午前九時出発、午後五時帰校。落伍者があったとは聞いていない。
当時の学校は「行軍」と称する徒歩鍛錬が好きで、よくやられた。いつだったか、高知市の北山沿いに後免町まで歩いたことがあった。背嚢に何貫かのものを入れて来いと言われたので『大言海』という分厚い辞書を背負って行った。復路、荷物はもういいと言われたが、本を捨てる訳にもいかず、石を入れて行った同僚に差をつけられた覚えがある。ちなみにこの『大言海』、高知新聞・藤戸謙吾社長のお祖父さん・謙治医師が入学祝いとして贈ってくれたものでした。
いやな事もあった。
その一。町ですれ違う時、先生はもちろん上級生に対しても敬礼しなければならなかった。右手を耳の横まで上げるあれである。でなければ殴られる。とにかく一年生にとっては相手が多すぎる。抜かる事だってあるのだ。ビンタをくらっても、ただ、その時そこを通りかかったという自分の運の悪さを嘆くほかなかった。藩政時代は昭和になっても生きていたのである。
そして恐怖の土曜日。放課後、最上級生から屋上集合の号令がかかる。いまでいう「いじめ」が始まるのである。「鍛える」といった。訓育部があった。配属将校もいた。学校公認であったようだ。ズボンを捲り上げ長時間の正座。ざらざらした屋上の床が肌に食い込む、拷問である。よく我慢したものだ。どんな理由があってこんな仕打ちを受けねばならなかったのか、いまもって分からない。
戦時色濃厚であった。敗色ようやく濃く、日本軍はガダルカナルを撤退し、連合艦隊の山本五十六司令長官が撃墜された年である。六月二十五日には軍事教練と勤労動員を課す学徒動員要綱が閣議決定された。十四、五歳の少年も勤労奉仕に駆り出されることになった。本格化するのは二年生になった十九年からだが、勉強そちのけで県下各地へ行かされた。当時の学校日誌には作業状況視察のため飛び回る校長の記事が毎日のように記録されている。越知町へ行っていた同級生の前田幸造君が、頭へ怪我したが経過は順調であるとの記事も見える。
そんな中の一つ。神田川の改修工事。いま周辺は住宅街になってどこらあたりであったか見当もつかないが、五丁目の新月橋を南へ渡って工事現場へ通った。西の方に片倉製糸の工場があった。堤防に使う石を山から運ぶ作業だった。採石場の対岸に火葬場の高い煙突が見えていた。六月九日、校長による視察を受けて二十日間にわたる奉仕に一応の区切りをつけ、体を休めたことだった。
もう一つは弥右衛門の土地改良事業。湿田を乾田にする工事で、私たちの作業は「人間ばん馬」として独特の器具を引っ張る力仕事だった。その器具というのは鋭い金属板の先に砲弾様の金属塊が付いたもので、地下数十センチのところに横穴を通して水分を抜いた。
ここも今は川添や御座といった市街地になっているが、高知市の町づくりの底辺には幼い中学生の汗がにじんでいるのである。
高知龍馬空港、三島山を崩したのは私たちである。
いやなことばかりではなかったはずだが、楽しい思い出の書けなかったのは残念。しかし当時ともに助け合って歩んだ友は私の宝。今も月に一度の会合を持って盃を酌み交わしている。酒は全くいけないが必ず顔を見せる神主さんあり、禁煙数十回でまだ終点にたどり着けないがんばり屋さん、遊びこうじて遂に雀荘を開業した豪の者もいる。傘寿近辺、十数名の集まりだが、会費もだいぶ溜った、最後に独り占めできるのは誰か、こんな話のできるのも、戦時下の時計台下に育った友情の賜物である。
(高知追手前高等学校校友会誌『時計台』第30号から)

この先生方の教えを受けて私たちは昭和23年(1948年)3月、高知県立高知城東中学校最後の卒業生となった。
久万忠郎、中村伝喜、入江雅幸、橋野勝、西山満州、竹村一水、松木健一、杉村督郎、三宮慎助、福川萬次、山本登、上島一司、吉松清の各先生の顔は分かりますが、そのほかは思い出せません。ごめんなさい。
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