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2010.03.01
(72)野中兼山の肖像画
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野中兼山の肖像画は想像画 (写真は野中兼山墓)
高知市を流れる鏡川南岸・筆山は全山お墓の山と言ってもよく、それこそ有名無名無数のお墓が山を覆っています。人物だけでなく「山月」という名馬を葬って建てた2㍍余りの立派な碑まであります。
その南側斜面、筆山トンネル南口上の筆山小公園(北緯33度32分42秒×東経133度32分23秒)から急な石段を128段(写真)登ったところに野中兼山のお墓があります。
兼山は藩政初期の土佐藩家老で、各種土木工事、産業振興を図り、藩の経済的基盤を形成した政治家であります。しかし過酷な年貢の取りたてなど施政に不満を抱く人達の弾劾を受け失脚に追い込まれました。
一族に対する報復は過酷で、兼山歿後40年男系が絶えるまで幽閉は続きました。それを描いた小説に大原富枝の『婉という女』(1960年、講談社)があります。今井正監督で映画(1971年)にもなりました。
この人物、最期が最期だけに肖像画に描かれることはありませんでした。たとえ描かれていたとしても破棄されたでしょう。とにかく絵はなかったのです。
しかし現在では2種類の肖像画が使われています。依光貫之氏が土佐史談217号に寄せた「野中兼山肖像画の謎」には
①上村昌訓筆(西内青藍著『偉人野中兼山』より)
②楠永直枝筆(『図録高知市史』より)
の2つの写真(絵)が載っています。
①の絵が出来た謂われについては史家の寺石正路氏(杜山居士)が土佐史談30号(昭和5年)に「野中兼山の肖像」と題する一文(郷土史断片其九十)を残しています。
高知県立図書館には30号が欠けていますので、その全文を載せておきます。(高知市民図書館にはあります)。
「近頃、野中兼山の伝記本の中に兼山肖像というものが載せられて居る。巨眼豊頬で筋肉豊満に、風采堂々たる偉人の典型である。そして民間の絵葉書にも同形の姿が載て居る。此の肖像は果して真か、其の出所如何、今之を説明してみよう。
実際、野中兼山には肖像は残って居ない。尤も兼山に限らず、昔の偉人に姿の残って居ない人は沢山にある。
土佐では山内一豊公、康豊公、一豊公夫人、忠直公皆画姿が残って居る。長宗我部元親、是は皆知る通り木像が残って居る。兼山は有名な偉人であるけれど、其の最期の断末が彼の通りで画姿も何にも無い。
然るに明治30年の頃、東京内務省より、兼山の画像は無きか、有れば出せという照会が高知県へ来た。其の頃、勧業課というが今の農商課であったが、色々詮議したけれど何の手掛が無い。
そこで兼山の遺族を探してみると、直系は無論断絶して居るけれど、支系は存続している。是が維新頃、野中太内助継の家で、昔は堀詰(新京橋西詰辺)に住して居た。太内の娘さんが小藤家へ縁付き、其の人が公園の北側に住し、裁縫茶事など教えて居た。
そこで此家へ行き、色々太内氏の事や其の外参考の事を承はり、当時第一中学校(今城東中学校)の教師上村昌訓氏が筆を執り、一同が皆批評研究し、兼山は49歳で死去したから、凡40余の容貌は、此様であったろという所で画が出来上った。
然るに羽織の紋は如何するという事に相成り、余は小藤老夫人に参り其の紋所を詮議したれば、丸の中三短冊ということで、遂に其の紋を採用する事になった。
かくて之を内務省に報告して、愈採用になったものである。
偉人の生姿が残れば結構であるが、無ければ推定で作るも已むを得ぬ。これが今日に伝わる野中兼山の画姿である。其の後、大正12年の関東大震で、内務省も全焼に及んだから、此の画本が猶今日に存在して居るや否やは覚束ない。
薩州の西郷隆盛も決して絵姿写真はない。今日世に伝はる丸刈肥大の薩摩絣式の巨漢の肖像は、明らかに後人の推究である。詰り理想の隆盛であるが、今や満天下に持て囃され実際以上の者となって居る。野中兼山の肖像も他日左様になるであろう。
此の頃、或る人より兼山肖像の出所を問われたから、一言後世参考の為にと之を述べて置く。」
上の文中にある「批評研究した一同」について依光貫之氏は前掲文の中で上村昌訓(うえむら・しょうくん)33歳、楠永直枝(くすなが・なおえ)38歳、寺石正路(てらいし・まさみち)30歳の3人をあげています。

上村昌訓氏 楠永直枝氏 寺石正路氏
(『高知県人名事典新版』高知新聞社刊から拝借)
楠永は上村と同じ第一中学校の図画教師でした。この話し合いの過程で楠永も自分なりの兼山像を作り上げていたと依光氏は言います。そして内務省に納められた上村の絵が関東大震災によって灰になったのを知って自分の作品を発表したのであろうと想像しています。Nkという控えめなサインが識別の印ということです。
現在幾種類かの兼山の画像が伝記などに使われていますが、その源はすべて上村と楠永の2作品といっていいようです。しかしいずれも想像画であることに変わりありません。
話は横道にそれますが、楠永について作家の森下雨村が残した文があります。追手前高等学校校友会の創立80周年記念誌(昭和34年)の「明治は遠くなりにけり」に載っています。(74~75ページ)
「(楠永直枝先生は)肖像画家として立派に一家をなすべき天分に恵まれながら一中学の図画科教師として悔みなき生涯を終わった人である。
潮江に居住した先生が氾濫する鏡川を抜き手をきって登校したという逸話は学生の間でも有名であった。
笑顔ひとつ見せたこともなかったが、ずんぐりと肥満した体躯とまんまろい赤ら顔の中に、底光りのするつぶらな瞳が、人なつこさと同時にちょっと近づきにくい威厳を帯びて、うっかり先生の機嫌を損じたら、ただではすまない感じがして、“ライオン”とはいみじくも奉ったニックネームと思ったことだった。」


(写真)「野中兼山墓」(高知市史跡)までほぼ一直線に通ずる石段。128段あります。お墓の前に大町桂月撰文の「野中兼山先生墓域改修碑」が建っています。上の写真真正面の高い石碑です。それによりますと、大正10年(1921年)7月、荒れ果てていた墓域を柏島出身の実業家中島平太郎氏が改修し、登山道や道標も整備したもののようです。 改修碑は高さ1㍍70㌢、幅75㌢の御影石で、80㌢の台石に乗っています。彫りが浅く汚れもひどいので拓本にでも採らなければ読めない状態ですが、土佐史談164号(昭和58年)に岡林清水氏が全文採録しています(37ページ「野中兼山と文学」)
中島氏と桂月の結び付きの経緯は分かりませんが、ここにこの全文を載せさせていただきます。
英雄は英雄を知る 偉人の出でたる處には偉人風を望んで起つ されど賢を希ふの風を助長せずんば偉人或は種切とならむ 土佐出身の天下的偉人を史上に求むれば何人も先づ指を野中兼山先生に屈するなるべし 中島平太郎氏少時より兼山先生を敬慕して措かず 電気事業に成功するに及んで其の郷里の柏島に於ける先生の遺功の大石堤の上に先生の祠を建てたるが 先生の墓に謁してその大に荒廃せるを慨き 地を購ひて墓域を擴め参詣の道を造り墓道標を設け 後世永く荒廃に帰せざるべき方法を講ぜり 能く先輩に盡し兼ねて能く後世に盡して世道人心を稗益するものと云はざるべけんや
古をかゞみに今も後の世も土佐に優れし人の出でなむ
大正十年七月 大町桂月撰
島田實書
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-872-6307
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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野中兼山の肖像画は想像画 (写真は野中兼山墓)
高知市を流れる鏡川南岸・筆山は全山お墓の山と言ってもよく、それこそ有名無名無数のお墓が山を覆っています。人物だけでなく「山月」という名馬を葬って建てた2㍍余りの立派な碑まであります。
その南側斜面、筆山トンネル南口上の筆山小公園(北緯33度32分42秒×東経133度32分23秒)から急な石段を128段(写真)登ったところに野中兼山のお墓があります。
兼山は藩政初期の土佐藩家老で、各種土木工事、産業振興を図り、藩の経済的基盤を形成した政治家であります。しかし過酷な年貢の取りたてなど施政に不満を抱く人達の弾劾を受け失脚に追い込まれました。
一族に対する報復は過酷で、兼山歿後40年男系が絶えるまで幽閉は続きました。それを描いた小説に大原富枝の『婉という女』(1960年、講談社)があります。今井正監督で映画(1971年)にもなりました。
この人物、最期が最期だけに肖像画に描かれることはありませんでした。たとえ描かれていたとしても破棄されたでしょう。とにかく絵はなかったのです。
しかし現在では2種類の肖像画が使われています。依光貫之氏が土佐史談217号に寄せた「野中兼山肖像画の謎」には
①上村昌訓筆(西内青藍著『偉人野中兼山』より)
②楠永直枝筆(『図録高知市史』より)
の2つの写真(絵)が載っています。
①の絵が出来た謂われについては史家の寺石正路氏(杜山居士)が土佐史談30号(昭和5年)に「野中兼山の肖像」と題する一文(郷土史断片其九十)を残しています。
高知県立図書館には30号が欠けていますので、その全文を載せておきます。(高知市民図書館にはあります)。
「近頃、野中兼山の伝記本の中に兼山肖像というものが載せられて居る。巨眼豊頬で筋肉豊満に、風采堂々たる偉人の典型である。そして民間の絵葉書にも同形の姿が載て居る。此の肖像は果して真か、其の出所如何、今之を説明してみよう。
実際、野中兼山には肖像は残って居ない。尤も兼山に限らず、昔の偉人に姿の残って居ない人は沢山にある。
土佐では山内一豊公、康豊公、一豊公夫人、忠直公皆画姿が残って居る。長宗我部元親、是は皆知る通り木像が残って居る。兼山は有名な偉人であるけれど、其の最期の断末が彼の通りで画姿も何にも無い。
然るに明治30年の頃、東京内務省より、兼山の画像は無きか、有れば出せという照会が高知県へ来た。其の頃、勧業課というが今の農商課であったが、色々詮議したけれど何の手掛が無い。
そこで兼山の遺族を探してみると、直系は無論断絶して居るけれど、支系は存続している。是が維新頃、野中太内助継の家で、昔は堀詰(新京橋西詰辺)に住して居た。太内の娘さんが小藤家へ縁付き、其の人が公園の北側に住し、裁縫茶事など教えて居た。
そこで此家へ行き、色々太内氏の事や其の外参考の事を承はり、当時第一中学校(今城東中学校)の教師上村昌訓氏が筆を執り、一同が皆批評研究し、兼山は49歳で死去したから、凡40余の容貌は、此様であったろという所で画が出来上った。
然るに羽織の紋は如何するという事に相成り、余は小藤老夫人に参り其の紋所を詮議したれば、丸の中三短冊ということで、遂に其の紋を採用する事になった。
かくて之を内務省に報告して、愈採用になったものである。
偉人の生姿が残れば結構であるが、無ければ推定で作るも已むを得ぬ。これが今日に伝わる野中兼山の画姿である。其の後、大正12年の関東大震で、内務省も全焼に及んだから、此の画本が猶今日に存在して居るや否やは覚束ない。
薩州の西郷隆盛も決して絵姿写真はない。今日世に伝はる丸刈肥大の薩摩絣式の巨漢の肖像は、明らかに後人の推究である。詰り理想の隆盛であるが、今や満天下に持て囃され実際以上の者となって居る。野中兼山の肖像も他日左様になるであろう。
此の頃、或る人より兼山肖像の出所を問われたから、一言後世参考の為にと之を述べて置く。」
上の文中にある「批評研究した一同」について依光貫之氏は前掲文の中で上村昌訓(うえむら・しょうくん)33歳、楠永直枝(くすなが・なおえ)38歳、寺石正路(てらいし・まさみち)30歳の3人をあげています。

上村昌訓氏 楠永直枝氏 寺石正路氏
(『高知県人名事典新版』高知新聞社刊から拝借)
楠永は上村と同じ第一中学校の図画教師でした。この話し合いの過程で楠永も自分なりの兼山像を作り上げていたと依光氏は言います。そして内務省に納められた上村の絵が関東大震災によって灰になったのを知って自分の作品を発表したのであろうと想像しています。Nkという控えめなサインが識別の印ということです。
現在幾種類かの兼山の画像が伝記などに使われていますが、その源はすべて上村と楠永の2作品といっていいようです。しかしいずれも想像画であることに変わりありません。
話は横道にそれますが、楠永について作家の森下雨村が残した文があります。追手前高等学校校友会の創立80周年記念誌(昭和34年)の「明治は遠くなりにけり」に載っています。(74~75ページ)
「(楠永直枝先生は)肖像画家として立派に一家をなすべき天分に恵まれながら一中学の図画科教師として悔みなき生涯を終わった人である。
潮江に居住した先生が氾濫する鏡川を抜き手をきって登校したという逸話は学生の間でも有名であった。
笑顔ひとつ見せたこともなかったが、ずんぐりと肥満した体躯とまんまろい赤ら顔の中に、底光りのするつぶらな瞳が、人なつこさと同時にちょっと近づきにくい威厳を帯びて、うっかり先生の機嫌を損じたら、ただではすまない感じがして、“ライオン”とはいみじくも奉ったニックネームと思ったことだった。」


(写真)「野中兼山墓」(高知市史跡)までほぼ一直線に通ずる石段。128段あります。お墓の前に大町桂月撰文の「野中兼山先生墓域改修碑」が建っています。上の写真真正面の高い石碑です。それによりますと、大正10年(1921年)7月、荒れ果てていた墓域を柏島出身の実業家中島平太郎氏が改修し、登山道や道標も整備したもののようです。 改修碑は高さ1㍍70㌢、幅75㌢の御影石で、80㌢の台石に乗っています。彫りが浅く汚れもひどいので拓本にでも採らなければ読めない状態ですが、土佐史談164号(昭和58年)に岡林清水氏が全文採録しています(37ページ「野中兼山と文学」)
中島氏と桂月の結び付きの経緯は分かりませんが、ここにこの全文を載せさせていただきます。
英雄は英雄を知る 偉人の出でたる處には偉人風を望んで起つ されど賢を希ふの風を助長せずんば偉人或は種切とならむ 土佐出身の天下的偉人を史上に求むれば何人も先づ指を野中兼山先生に屈するなるべし 中島平太郎氏少時より兼山先生を敬慕して措かず 電気事業に成功するに及んで其の郷里の柏島に於ける先生の遺功の大石堤の上に先生の祠を建てたるが 先生の墓に謁してその大に荒廃せるを慨き 地を購ひて墓域を擴め参詣の道を造り墓道標を設け 後世永く荒廃に帰せざるべき方法を講ぜり 能く先輩に盡し兼ねて能く後世に盡して世道人心を稗益するものと云はざるべけんや
古をかゞみに今も後の世も土佐に優れし人の出でなむ
大正十年七月 大町桂月撰
島田實書
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