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     ナイアガラ号で帰國の途へ

 万延元年(1860年)5月13日、ニューヨークを出発。これから日本まではナイアガラ号での旅。その後多くの日本人が目指したイギリス方向には向かわず、東南に針路をとる。(スエズ運河は開発中で開通するのは9年先)。
 大西洋に浮かぶボルト・グランデ(ポルトガル領)に立ち寄り、アフリカ大陸のロアンダに着いたのは21日の夕方であった。
 現在のアンゴラの首都ルアンダ。
 この港は奴隷密輸の基地として知られていた。植民地時代の治安はどうだったんだろう、10日間の停泊中、使節団は交代で上陸した。
 そこで何を見たか。
 3人の黒人が首を鎖でつながれて荷物運びをさせられているスケッチがある。鎖の端を鞭を持ったポルトガル人が握っている。
 熊本藩から参加した木村鉄太が描いたものだ(『万延元年遣米使節航米記』=高野和人編、平成17年、熊本日々新聞社)。当時の武士に人権感覚など望むべくもないが、「逃げるのを防ぐため」との説明である。150年近く前、アフリカの彼方でこんな光景に接した土佐人がいたのである。

   9カ月余りの世界一周

 帰りを急ごう。6月晦日にロアンダを出発、10日ほどで喜望峰沖を廻る。陸地は見えなかった。
 山のような波に翻弄される。インド洋を東に進んで、スマトラ島とジャワ島の間の海峡を通り、8月18日にバタビア(現ジャカルタ)着。ロアンダから46日かかっている。
 11日間の停泊を終え27日に出発、次は香港である。
 9月10日に香港市街から1キロ沖のビクトリア港に錨を下ろした。
 ここで10年ほど前紀州沖で漂流しアメリカ商船に救助されていた芸州人亀五郎を引き取る。18日出帆。
 9月25日、土佐沖を通過。
 前掲木村鉄太の『航米記』には「九月二十四日 曇 北風烈しく(中略)北緯三十度三十三分 東経百三十三度三十五分」
 とある。
 日付について書いておかねばならない。
 横浜からアメリカへの途次、ポウハタン号は2月23日東経180度線を通過した。その際米国測量官から「きょうは23日であるが、日付変更線を通過したので、きょうを22日としておけばアメリカ到着の際現地の日付と一致する」と説明を受けた。
 しかし使節団は「日本人は従前の日付を追い、改めない」としたそうである。そのため帰朝下船の際初めて1日の差を確認することになる。
 ただ『航米記』の著者だけは帰途、日記に5月20日を2日連続して記入、日付調整をしている。
 27日正午ごろ下田沖、富士山は雲に隠れて見えなかった。
 その夜は地理不案内なため江戸湾に入らず夜明けを待った。翌日は午前11時ごろ横浜に到着、従者らは上陸して早駕籠で一足早く江戸へ。ナイアガラ号は午後3時ごろ品川沖に投錨、使節団は全員下船した。万延元年9月28日(江戸時間27日)着、ニューヨーク港を出帆して4ヵ月余り、日本を離れてからだと9カ月余りをかけた世界一周の旅であった。

   攘夷一色だった故国

 この間、世の中変わっていた。一行を送り出した最高責任者の井伊大老が殺され、攘夷の焔が燃え盛っていた。ナイアガラ号は冷たくあしらわれて帰國して行った。土佐でもやがて吉田東洋が命を奪われる時代である。外国通を振りかざして自慢話のできる雰囲気ではなかったと想像される。
 馬次郎は帰國の翌文久元年4月9日、洋学修業生として江戸に出、御雇中3人扶持30石を支給されたが、同2年11月30日病死した(御侍中先祖書系図牒)。32歳の若さである。
 謹慎処分の全く解けた容堂公に謁見を許され訪米の復命ができたのは帰国後2年、死の約3カ月前であった。
 3カ月余りのアメリカ視察であったが、その見聞が生かされることはなかった。(つづく)


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