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 今回は『土佐史談』を離れます。

 政府は追加経済対策として総額2兆円を国民一人ひとりに分配することを決めました。一人あたり1万2000円で、65歳以上と18歳以下は8000円加算だとか。

 兆という巨額も頭割りにすると僅か、1回でおしまいですから私には僅かに見えます。

  思い出すのは「米100俵」の話です。

 明治元年(1868年)戊辰戦争に敗れた長岡藩(新潟県)にその窮状を見かねた支藩の三根山藩から100俵の米が送られてくる。

 どう使うか。藩士の多くは分け合って飢えをしのごうと望んだ。

 いろいろ論議はあったであろうが、藩庁は敗戦国の復興を図るため「書籍器械の費」に当てることにした(同3年5月7日付長岡藩政庁触書)。

 この評決をリードしたのは学校設立に熱心だった大参事文武総督の小林虎三郎であった。

 虎三郎には17歳下の雄七郎という末弟がいた。慶応義塾に学んでいた。

 同4年の春、土佐藩の海南学校から福沢諭吉のもとへ英語の教師を招聘したいという話が持ち込まれた。

 雄七郎は福沢の指示で塚原周造、梅浦精一、吉田五十穂らとともに高知に赴く。病身だった虎三郎も暖地療養をかねて同行する。
 
 一行は品川沖から土佐藩の汽船もみぢ丸に乗って高知に着いた。この船はアメリカの河蒸気を購入して修理したものであったから速力が遅く、5日もかかった。揺れもひどかった。

 高知ではテロに倒れた吉田東洋の子、吉田正春と親しくなった。海南学校で教えた科目は分かっていない。(松本健一著『小林虎三郎「米百俵」の思想』=平成13年学習研究社=から抜粋)

 高知での足跡が私の力では分からない。

 高知縣立図書館に『海南学校仝窓會名簿』(大正14年10月現在)がある。明治5年以降の先生・生徒の名簿だが、同5年5月離高とされている小林雄七郎の名前を見つけることはできなかった。



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