秋の彼岸を前に高知市筆山南斜面の山田家墓地にお参りして来た。昨年、一族の馬次郎のことについて書かしていただいたお礼を述べたかったためである。
 お墓は野中兼山墓所の上方にある。115段の石段を登ったうえ、さらに急な坂道を迂回しなければならないため、後期高齢者にはきつい。
 山田去暦の先代を祖として15代続く名門だが、去暦と次の助丞の墓はなく、その次の喜助清次以下、嘉永元年(1848年)歿の孫右衛門清道まで24基の墓が並んでいる。 一番端を馬次郎の墓が占めており、これでこの墓域が一杯になり、明治になって歿した八蔵や平左衛門の墓は60㍍ほど離れた別の場所にある。
 写真は山田家墓地。黒い墓碑左端が馬次郎の碑。
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 これから数回に分けて土佐史談239号「欧米文化と土佐人の交流」特集号に載せてもらった「土佐藩海外派遣第1号・山田馬次郎の研究」を連載する。
          ………………………
 山田平左衛門清廉といえば、知る人ぞ知る立志社の2代目社長。戊辰の役を戦い、自由民権運動の指導者として活躍、明治31年の第5回と第6回の総選挙では連続して代議士に当選(この時は土居姓)、土陽新聞の社長に挙げられた人物である。
 その父は八蔵(八右衛門)清粛といい、馬次郎という弟があった。平左衛門にとっては叔父に当たるこの人が、ここにとりあげる土佐藩の海外派遣第1号とされる青年である。

   万延元年の遣米使節団に随行

 安政7年=万延元年(1860)、幕府は2年前にアメリカとの間に調印した修好通商条約の批准書交換のため使節団をワシントンに派遣する(条約第14条により批准書は米国の首都で交換することになっていた)。
 正使として外国奉行兼神奈川奉行の新見房次郎正興(豊前守)を起用、諸藩からも参加を募った。土佐藩もこれに加わることになり、山田馬次郎が随行する。
 当時土佐藩では藩主山内豊信(容堂)のもと参政吉田東洋が西洋の学問技術の吸収に全力を注いでいた。使節団参加もこのような政策の表われであったろう。
 どういう経緯で馬次郎に白羽の矢がたったかはつまびらかにしないが、気鋭の若手であったことは間違いなかろう。30歳の青年である。
 ただこれは推理だが、身内の引きがものをいうのは昔も今も変わらないといえばこの人に失礼か。
 馬次郎はかなり長期にわたって江戸に出て英語の勉強をしていたようだ。
 中浜万次郎の日記によると、安政6年7月29日に細川潤次郎と連れだって万次郎宅を訪問したのをはじめ10月までに5回訪ねている。(川澄哲夫編『増補改訂版中浜万次郎集成』715~725㌻=平成13年、小学館)。
 藩内での彼の評判は「西洋好き」であったらしい。「洋臭者」という言い方もある。そのため彼一人だけでは信用できない、国体派からも一人派遣すべしという意見があった。しかし費用負担の問題でもあったであろうか、2人派遣論は通らなかった。元文武小目付役の佐佐木高行は日記の中で「遺憾ナルコトナリ」と残念がっている。(東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐々木高行日記 一』285㌻)
 使節団は総勢77人。正使・新見豊前守のもとに副使として外国奉行兼神奈川奉行・箱館奉行の村垣与三郎範正(淡路守)、監察に小栗又一忠順(豊後守)。以上が3使。
 馬次郎は随員・成瀬善四郎正典(外国奉行支配組頭)の従者という位置付け。
 土佐藩のほかには佐賀3人、熊本2人、蓮池、杵築、萩、加賀、吉田、館林、仙台、盛岡の諸藩から各1人、合わせて14人が参加している。
 参加の費用についてだが、前掲『保古飛呂比 一』287㌻に「公儀御宛一人ニ米五俵・澤庵二樽・梅干壱壷ト申事ニ候」という記述がある。全額なのか、現物のみのことなのかは分からないが面白い。個人負担が200両ほどいったという話である。(つづく)

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