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 昭和7、8年頃の高知県立高知城東中学校校舎(『高知追手前高校百年史』から)
  この校舎は昭和5年7月15日起工、翌6年(1931年)11月19日落成式。
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 新学年が始まりました。67年前の旧制中学校入学の頃を思い出します。以下は高知追手前高等学校校友会の会誌『時計台』30号(平成21年7月15日発行)に載せてもらったものです。
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 父の遺品をつついていたら出てきたのが写真(文末尾)の受験票。
 私の受験番号は238番、「本票ハ考査當日必ズ携帯ノコト」と注意書があり、考査料領収印として「久万」という丸判が押してある。先日亡くなられた久万忠郎先生の判だろうか(当時同姓の職員は名簿にない)。
 奇妙なのは『高知縣立高知城東中學校』と『高知縣立海南中學校』の校名が並んで印刷してある点だ。少々説明を要する。
 私は昭和18年(1943)春、安芸郡西分村国民学校(現芸西村)から城東中学校へ入れてもらったが、入学試験は口頭試問と身体検査、体力考査だけであった。
 学区制などといったものはなく、遠く宿毛や室戸の人とも知り合いになれた。
 入学定員はこの時から50人増えて250人(海南は200人)、両校合同の試験が両校に分かれて行われた。
 試験に臨んだのは718人。私の受験場所は海南中学校。受験票を待機教室の机の上に置いて、呼ばれるのを待っていた記憶がある。第一志望を「城東」としてあったので希望通り入学できたわけである。(受験票の学校印が城東だけになっている)。
 1区域内の志願者を一括募集して共通の考査を行い、所定数の合格者を決定したのち各校に配分するという「綜合制入学考査」はこの年に始められた。(『高知追手前高校百年史』316ページ)
 この口頭試問に備えて各小学校では練習に余念がなかった。合格してもらおうと先生方も懸命。
 のち机を並べることになる北村雅男君の回想。
 先生「雅男君はけさ校門を入る時、礼をしましたね。どう思ってしましたか」
 雅男「先生方、きょうもよろしくとお願いしました」
 先生「……」
 先生は、その席では何も言いませんでした。しかし、あとでおばあちゃんが校長先生に呼ばれ、「雅男君はこう言いよったが、校長室におまつりしてあるご真影に頭を下げたがじゃと答えるのが正解ぞね」と注意されたそうです。そんな時代でした。
 当時のスケジュールを「学校日誌」から拾うと、試験は3月25日から3日間行われて30日に合格発表、4月8日(大詔奉戴日)午後1時から講堂で入学式となっている。
 「海南」は軍人を目指す人たちの行く学校として評価が高かったが、「城東」も軍人志望は結構多く、2年生になると成績のいい生徒は続々と陸軍幼年学校へ行った。前田祐吉君もその一人。
 実は私も受けたが落ちた。試験官から「お前は偏平足だ」と告げられた時はショックだった。初めて知った自分の肉体的欠陥、学科試験の至らぬのを棚に上げて、天を恨んだ。
 話が前後して申し訳ない。入学の時に戻る。
 250人の合格者は50人ずつ5組に編成された。どういう具合に配分されたか。これは後年、ある先生から聞いた話である。
 組の名前はA組、B組、C組、D組、E組と呼ばれた。各組に級長として入学試験成績1番から5番の者をA組から順番に配置、次に副級長として6番から10番の者をE組から逆順に配分、あとは順、逆に折り返して最後の250番はA組で終わり。
 私はE組に組分けされた。ビリの250番ではなかった訳だ。1年の時どの組だったかは、何十年経っても折に触れて話題になる。前年まではD組どまりだったからE組は初めての登場。翌年からは消えた。
 敵性語まかりならぬとお上から通達でもあったのであろうか、軍隊と同じ「第二中隊第○小隊」と変わった。
 「E」…そんなアルファベットは私の字引にはなかった。田舎の小学校ではローマ字は教えてくれなかったし、学問的雰囲気には縁遠いわが家だったから、ABCDの四文字しか知らなかった。
 戦争はすでに始まっていたし、その原因は連合国が「エービーシーディー包囲網」を敷いてわが国を締め上げたからだと教えられていたから、この4文字だけは知っていた。
 Aはアメリカ、Bはイギリス、Cはチャイナ、Dはオランダ。支那をチナと発音する地理の先生がいた。ニックネームのチナは先輩からの申し送りである。
 そのE組、担任は英語の今井美佐雄先生、級長は藤田晋一郎君(高知市・第三国民学校出身)、副級長は京馬達(けば・すすむ)君(高知市・昭和国民学校出身)だった。
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         1年E組の担任だった今井先生
 でっぷり太った今井先生はこの年10月19日(或いは前日か)急逝された。尋常の死ではなかったと噂には聞いたが真相は知らない。全校生徒が弘岡方面へ1日ががりの行軍をしている最中、先生方が自宅へ急行される。この異変は生徒にも伝わる。私はこの訃をもう暮れかかっていた行軍終盤、旭町の路上で知った。
 今井先生亡き後の学級担任には配属将校の兼松平氏(教授嘱託)が発令された。
 (高知追手前高等学校校友会誌『時計台』第30号から)
     (つづく)
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