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   第三章 岩倉使節団に随行

   使節団に先行して渡欧

 岩倉使節一行は明治4年11月12日、太平洋汽船会社のアメリカ号(450トン)に乗って横浜を出港、太平洋を横断してアメリカに向かった。
 アメリカ号には同行の留学生43人も乗っており、その中に中江兆民の姿もあった。
 久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』(明治11年発行)によると、一行は26日間にわたる船旅を終えて12月6日サンフランシスコに上陸、22日に同地を出発、大陸横断鉄道を利用して翌明治5年1月21日ワシントンに到着したとされる。
 途中大雪のため20日間もユタ州のソルトレークシティーに足止めされてスケジュールは大幅に遅れた。そのうえ条約改正交渉に必要な全権委任状を持ってこなかったため副使2人が日本に取りに戻るなどの不手際があって、アメリカ滞在が長引く見通しが出てきた。
 このため別働隊は本隊に先行して自由行動をとることになり、今村は直属上司の田中文部大丞理事官にも先行してヨーロッパヘ渡る。『木戸孝允日記』(日本史籍協会叢書、昭和60年7~9月東京大学出版会発行)2月朔日の条(第二巻144ぺージ)には次のように記されている。
 「雨。肥田、長野と仕立屋に至る。文部より近藤中助教孛へ、今村中助教仏へ向今日出立せり、依て鮫島弁務使青木周蔵へ添書せり、瓜生は英へ向け出立せしに付河北と正児への一書を託せり、毛利公も瓜生一同英へ御発足なされし」

   パリを拠点にロシアヘも

 本人の日記やメモの類がないので、今村の足跡をたどるには、他人の書き残してくれた記録を捜すしかない。次に出てきたのは4月初めのパリであった。
 再び長与専斎の自伝『松香私志』(131ぺージ)を引かしていただく。
 長与も田中文部大丞理事官に先行して欧州大陸に渡ることとし、2月中旬ニューヨークからイギリス行きの船に乗った。11日間の船旅の後、リバプールヘ上陸し、1日休んで3月1日にロンドン着。大村藩の郷友が4人ほど留学していたためなつかしく、ここで1カ月余りを視察に費やしたあとパリに入った。ここで今村と再会する。
 パリを拠点に今村はどうしていたか。
 アメリカを2月1日にたって、どういう経路をとって、いつごろフランス入りしたか全然分からない。しかし先の長与の旅程から類推すれば、道草さえ食わなければ2月中にはパリに着いていたはずである。そしてフランスの教育制度について様々な調査研究を重ねていたであろう。
 田中文部大丞が帰国後提出した復命書『理事功程』は一番まとまっており、その後の田中文政の基礎になったといわれる。途中からメンバーに加わった新島襄(七五三太、三等書記官の心得を以て文部省理事官随行)の貢献が喧伝されるが、その名誉は今村にも分け与えられるべきであろう。
 今村は、その新島と田中文部大丞理事官を7月16日午後6時パリに迎えている。22日にはジュネーブ、8月6日ベルリンヘと旅し、ここでドイツ語の話せる近藤鎮三と合流してロシアに入る。岩倉使節団本隊の公式訪露より約8カ月前のことであった。
 即ち8月8日にプロシャとロシアの国境を越えた4人は9日午後4時、サンクトペテルブルグ入り、10日ロシア文相訪問、11日(日曜日)は田中理事官を宿に残してカザン大聖堂を見学した。(キリスト教徒の新島は安息日のためアメリカン・イングリッシュ・チャーチに行く)。12日棄児養育院訪問、1799年シベリアで発見されたマンモスを見学、13日エルミタージュ宮殿で絵画・彫刻等を鑑賞、14日午後1時ベルリンに向けサンクトペテルブルグを出発した。(同志社新島研究会『新島研究』85号=平成7年=掲載の竹内力雄氏の研究論文から)
 この行動記録は『新島襄全集8 年譜編』(同朋舎出版平成4年発行)によるもので、『保古飛呂比 佐佐木高行日記』(東京大学史料編纂所編、昭和49年東京大学出版会発行)では、今村は12日にはすでにベルリンに出国していて、欧羅巴ホテル16号室に佐佐木理事官(司法大輔)を訪ねたことになっている。
 日記必ずしもその日に書かれたものとは限らないし、日付のずれはままあるが、ロシア出国に当たって今村は一行に先行して単独行動になっていたとも考えられる。

   『保古飛呂比』から

 それより2カ月余りあと、明治5年10月20日、今村はパリに居た。この日、朝早く佐佐木理事官はヨーロッパ各国を歴訪してパリに戻ってきた。今村は、佐佐木の随員でないにもかかわらず同県の誼か、視察のお供はいうに及ばず身の回りの世話に至るまで、ほとんど連日のようにサービスが続く。当然、主人に当たる田中理事官への随行業務もあるわけで、心休まる暇のない毎日であったろう。『保古飛呂比』第五巻338~361ぺージには「今村同伴」「今村来ル」など今村という名前がなんと46回も出てくる。
 今村を主語に反転して何日間かを抜き出すと、(理事官とあるのは佐佐木高行)
▽明治5年10月21日=理事官に100フランを用立て。
▽11月21日=理事官を訪ね、両替と買い物のお供。
▽12月23日=理事官と鶴田浩の宿へ行き日本料理を食べる。
▽12月24日=理事官のお供をして造幣寮を見学。
▽12月30日=理事官と2人でセイン河を蒸気船で上下見物。片岡健吉を迎えにステーションに出向く。
 (片岡を世話する場面が以後何回か出てくるが、『片岡健吉日記』=昭和49年4月、高知市民図書館発行=には今村和郎の名は一度も登場しない。パリ到着の日付にも1日のずれがある。同日記65~67ぺ-ジ)
▽明治6年1月7日=片岡と一緒に理事官のお供をして仕立て屋とバンクヘ行き、帰途買い物。
 こんな奉仕の所為でもあるまいが、11月19日の条を見ると、佐佐木理事官はパリ滞在中の使節団本隊の伊藤博文特命全権副使に「今村ノ義」を相談したとある。
  「今村ノ義」とは何か。
  使節団の任務が終わったあと今村のフランス留学を認めるかどうかという話だが、一方では官費留学生を整理する計画が進んでいた。その費用が新政府の大きな負担になっていたからである。今村は留学生ではなかったので別枠だったのだろうか、軍関係者と女子を除く留学生全員に帰国命令
が出されるのは、この年の暮れである(明治6年12月25日太政官布達)。
 今村はフランス残留が許された。(つづく)


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 8月 1日(土)佐藤寿良  龍馬と海舟、神戸海軍操練所
 9月 5日(土)渋谷雅之  龍馬、長崎、船
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11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司    龍馬・中岡の死とその背景
 1月17日(日)谷是     龍馬死後の海援隊とその思想の継承
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