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前々回ちらっと将棋という言葉が出ましたので今回は囲碁・将棋の話です。
 戦国・織豊期の諸大名たちの多くは囲碁・将棋を好みました。
 武田信玄は囲碁が相当強かったといわれています。
 織田信長ですが、本能寺の変で討たれる前夜、名人として聞こえた日海(のちの本因坊算砂)と利玄坊を呼んで碁を打たしています。「三コウ」というめったにできない形で勝ち負けなしとなり、このことから三コウを不吉の前兆と言うようになったということです。
 豊臣秀吉は1585年(天正13年)と1588年(同16年)に御前仕合を主催し、ともに優勝した日海に朱印状を与え、碁の役職(碁所=ごどころ)につけています。
 徳川家康も囲碁・将棋を保護奨励し、慶長17年(1612年)囲碁の本因坊・利玄坊、将棋の大橋宗桂にそれぞれ50石・5人扶持を支給し、幕府としてその普及に当たらせました。
 そして1626年(寛永3年)から御城碁、1682年(天和2年)から御城将棋が始まります。初めは不定期でしたが、1716年(享保元年)からは家康の命日にちなんで毎年11月17日と対局日も統一されました。
 土佐史談会理事の朝倉慶景(よしかげ)さんは『土佐史談』に「囲碁からみた長宗我部氏」(217号)、「囲碁林家五世門入(井家道蔵)について」(233号)という論考を発表しています。
 朝倉さんは昨年、第29回平尾学術奨励賞に輝いた方で、長年にわたり中世史を中心に研鑚を積んでこられました。
 その論文によりますと、土佐の長宗我部元親も同じ趣味を持ち、家臣に森弥五郎という碁打ちを抱え、破格の待遇を与えていました。弥五郎は利玄坊の弟子だったということです。
 たかが碁打ちと言うなかれ。諸大名に取り入ってスパイもどきの情報収集に当たった者もいたようですし、大名の側でも囲碁を通じて為政者の歓心を買う役目にも使ったようです。
 元親も利玄坊や本因坊に見事な碁盤を進上したり、秀吉や家康が伏見の長宗我部邸に臨まれたときなど、弥五郎を側に置いて来客への接待に当たらせています。つまり碁を通じて天下人と誼みを通じていたのです。
 このように囲碁は社交的なものだけではなく、政治・外交手段としての役目が非常に大きかったと言えます。
 ところが、元親の跡を継いだ盛親はどうだったでしょう。自ら打つことはなかったようですし、弥五郎を手許に置くこともありませんでした。
 朝倉さんは次のように書いています。
 「囲碁・将棋の最高位者を抱える家康であれば碁会や将棋会に名をかりて政治上の会合を持つことは十分考えられるところである。盛親には元親や家康のように手許へ囲碁の実力者を置き、いつでも直ちに対処する姿勢はなかった。囲碁を政治・外交にも利用しようとする家康と、そうでない盛親とでは所詮歩む道が異なっていたようである」
 その後、盛親は家康に領国土佐を没収され、最後は京の大路引き回しのうえ六条河原で斬られたのはご承知の通りです。
 昔も今も、何事によらず勝負には情報が大事ということです。
 囲碁の話ばかりになりましたが、将棋は欧米にも紹介されています。
 駒の名前が英語でどう書かれているか、見てみましょう。1869年、ロンドンで発行された雑誌「チェス・ワールド」からの抜き書きです。
   王将  Oho‐shio
   金将  Kin‐shio
   銀将  Gin‐shio Gin‐nari‐kin
   桂馬  Kiema   Kiema‐nari‐kin
   香車  Kioshia  Kioshia-nari-kin
   飛車  His‐hia  Rioho
   角行  Kakuko  Riome
   歩兵  Ho‐hei   Ho-nari-kin
 王手は発音通り「Ote」と書かれています。
 
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土佐史談会
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〒 780-0850
℡ 088-854-5566
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