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 第11回に寺坂吉右衛門が江戸ー赤穂間を3日で駆け抜けたことを紹介しましたが、これは矢張り新記録だったんですねえ。

 『土佐史壇』13号(大正14年)をひもときますと、杜山居士の筆名で「昔の郵便の不便」という記事がありました。筆者は土佐史談会の会長もつとめられた寺石正路氏です。

 大石内蔵助らの吉良邸討ち入りの発端となったのは、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた殿中刃傷事件ですが、浅野家ではこの日二回、急使をもって赤穂に急報します。

 江戸城本丸松の廊下で事件の起こった元禄14年(1701年)3月14日午前、まず早水藤左衛門らが早打ちで出発します。

 内匠頭は異例の早さで即日切腹の処分となり、こんどは原惣右衛門らが早打ちで西に向かいます。

 早打ちとは馬を馳せて急を知らせることと広辞苑にあります。

 二つの急使は昼夜兼行175里を走り、18日赤穂に到着です。

 4日かかりました。さすが1藩1城の浮沈がかかった緊急事態の速報です。

 吉右衛門は3日で駆け抜けていますから新記録でしょう。

 しかし、こんなことは例外中の例外、万延元年の大事件がどんな具合に伝わったか、資料で見てみようというのが杜山居士の一文です。

 資料というのは土佐藩士・森正名(1805~1873年)の日記です。横谷(おうこく)と号し、『土佐人物志』『有馬入湯紀行』など多くの著述を残しています。

 万延元年の大事件というのは大老・井伊掃部頭直弼が殺された、いわゆる桜田門外の変のことで、3月3日雪の朝でした。

 事件の日は当時の年号では安政7年。この事件のため3月28日に至って万延と改元されました。

 森横谷はこの年、まだ安政7年です、3月11日、若干の同行と中国畿内への旅に出ます。その日まで土佐にはなんの噂もありませんでした。

 16日、伊予(愛媛)道後温泉で旅館棉屋万次郎の妻から初めて事件を知らされます。

 「此の日亭主の妻女いふ。江戸表に御大老井伊様を、水戸浪人十数人にて、御下城の所を桜田御門外にて打取りたりと、一両日前より風聞あり」

 「御下城」とあり、情報はゆがんでいます。

 大変なことゆえ口外ならぬといわれていたのか、小声だったそうです。

 森一行は瀬戸内海を渡って20日安芸(広島)に着きます。中屋栄助という旅館に投宿し、金子徳之助という老学者を訪ねます。

 金子「井伊侯、桜田御門外にて盗のため害に遭い給いしの説あり、聞き給えるや」

 森「松山にて商人の話に、井伊侯3月3日桜田門外にて水戸浪人20人ばかり面を包み御駕籠の両方より切り懸かり遂に侯を突き殺したりと聞けり」

 金子「松山にてもその説あれば、いよいよそのことありしも知るべからず」

 こんな問答があったと記されているそうです。

 杜山居士は次のように感想を述べています。

 「金子翁は霜山と号し芸州の大儒なり、芸州は浅野家にて中国の大藩なり、この藩この人にして、桜田騒動の後17日目にして、未だその事実の確否を知らず、これを他藩の人、他藩の噂に聞き尋ねて、初めて事実の確的らしきを認む。封建時代通信機関の不備不便なる、言語の外なりというべし」

 この事件、幕府は最後まで極秘のうちに処理し、後日急病のため死亡したとするのですが、私は、江戸から遠く離れた松山の宿屋のおかみが、この極秘情報を2週間足らずのうちに得ていたことに、杜山居士とは別の驚きを感ずるのです。

 この時代、情報は旅人の口から口へと伝わったのでしょうか。だとすれば、旅館というところは情報の交差点。

 なおこの桜田門外の変、訪米中の遣米使節団は4月23日にフィラデルフィアの新聞で知ることになりますが、殺されたのが井伊直弼とは分からなかったようです。3月には閏月がありましたので約80日かかったことになります。





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