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 あすはいよいよ討ち入りの日。(11)「47士か46士か…寺坂吉右衛門のこと」のつづきです。合わせて読んでください。

 青山義正さんはこの講演のなかで忠臣蔵の大石内蔵助良雄の祖先は土佐の出であるという説を紹介しています。(『土佐史壇』2号=大正7年)。

 もし兵庫県の方がお読みになっていましたら、高知県にはこんな話も伝わっているとご承知ください。

 まず一つの説、青山さんは否定しますが…。

 高知県中部の山の中に本山(もとやま)という町があって、そこの大石という地区に大石姓を名乗る家が数軒あるそうです。

 慶長年間、土佐の領主が長宗我部から山内に代わって間もなく、ここを山内刑部という家老が治めることになります。

 慶長8年(1603年)圧政に住民が立ち上がり、本山一揆とも瀧山一揆ともいわれる抵抗運動が1カ月余り続きました。

 結局は鎮圧されますが、一揆の大将・左馬之助(高石左馬允、本姓大石と青山氏は言っています)が四国山地を越えて逃れ、赤穂に至ったとされます。

 しかし青山氏は2つの理由を挙げてこれを否定します。

 本山一揆は慶長8年、討ち入りは元禄14年(1710年)、この間100年余り。乱世ならいざ知らず、すでに太平の世の中、門閥を重んじたあの時代に、敗残のよそ者の家系が100年ほどで家老の地位まで登ることはありえない。

 また良雄家の先祖はかなり前まで明らかになっており、曽祖父の内蔵助良勝と高石左馬之助がほぼ同時代に当たるからいよいよおかしい、という訳です。

 ところが、この良雄の先祖が、先の本山から出たという別の資料があるのです。

 ちょっと長くなりますが、書いてみます。

 高知の町の商人堺屋某がある年、琴平に参詣したあと丸亀から大阪へ赴いた。同じ船にひとりの老尼が乗り合わせた。その時聞いた身の上話が書き物となって残っている。

 老尼が「本山という所は土佐の城下からどれほど離れているか」と聞くから、1日くらいと答えた。

 すると老尼は「私の先祖は本山の出です」という。大石良雄の末女で清圓尼と名乗った。

 老尼の話によると、良雄の妻、つまり母は但馬豊岡藩石塚源五左衛門の妹で、ふたりの間に生まれた子は5人。

 長は女、次は討ち入りに加わった主税良金、その下が女、次が大三郎、最後が女即ち清圓尼。

 この時尼は84歳、父が在世中恩顧を加えた京都堺町土屋庄右衛門方に身を寄せているという。父良雄が切腹した時は11歳だったそうです。

 これから計算しますと尼は元禄6年(1693年)の生まれで、船に乗り合わした「ある年」とは安永6年(1777年)ということになります。

 そして尼は大石遺族の末路を詳しく語っています。姉妹3人で母方の仇をとった話もしています。腕や肩には刀傷があったそうです。

 大三郎は自殺し、良雄の男系血脈は絶えました。それだけ、土佐にありという祖先のことが思われ、生涯のうちにはぜひ本山に行って祖先の墓参を果たしたいが、まだその機会に恵まれないのが残念だとしみじみ語ったそうです。

 私は大石内蔵助良雄の家庭のことについてはほとんど知識がありません。符合するでしょうか。3男3女だったということを読んだ記憶がありますが…。

 青木義正氏が語ったもう一点、討ち入り当日泉岳寺にいて大高源五ら4人の遺墨を持って宿毛に帰った白明というお坊さんの話は新聞に載りました(12月8日付高知新聞夕刊)のでやめます。

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