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 前回は兄・義正のことだったので今回は弟・雄幸の話。
 昭和4年(1929年)7月2日、立憲民政党総裁として60歳で第27代内閣総理大臣に就任、明治生まれで初めての首相でした。
 同5年11月14日、東京駅ホームで佐郷屋留雄という右翼青年にピストルで撃たれ、その傷がもとで6年8月26日死去した。
 同年4月まで22カ月の在任期間中、金解禁や緊縮政策を断行し、軍部の横暴を抑えてロンドン海軍軍縮条約に調印した。
 これらの業績については多くの伝記や研究書がある。また『土佐史談』でも正延哲士氏が数回にわたって論考を発表している。(207号=平成10年、208号、210号、214号、220号、221号)
 ここでは政治問題は措いて生い立ちを取り上げてみたい。
 雄幸は明治3年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(現高知市)の水口胤平、繁子の三男として生まれた。
 雄幸は「ユウコウ」と読まれることもあるが高知では「オサヂ」。「ヂ」と濁る。この発音、できるのは土佐だけかも知れない。東京などでは「ジ」であろう。
 この名前の由来について城山三郎著『男子の本懐』(昭和54年、週刊朝日連載)は次のエピソードを書いている。
 男子の続いた水口家では女の子を欲しがり「お幸」という名を用意した。ところが3番目も男の子。そこで「お」を「雄」に変えて届けた。
 ところが、異説あり。インターネットのフリー百科辞典ウィキペディアにはこうある。
 出生届を出しに行く途中で父親が酒を飲み、酔ったため誤って名前の前後を逆に記入したという。
 偉人ともなると、いろいろ逸話が言われるものである。
 水口雄幸は明治22年(1889年)高知県安芸郡田野村(現田野町)浜口義立(ヨシナリ)の長女・夏子と結婚し、浜口家の養嗣子となるが、五台山村と田野村は50キロほど離れている。
 どうして結びついたか。その経緯についても2つの違った話が伝わっている。
 まず前掲『男子の本懐』から。
 男の子2人を夭折させた浜口家は、いい婿養子を迎えることが悲願。近廻りには候補者は居なかった。雄幸が自宅から徒歩で通う高知市の高知尋常中学校(現追手前高校)にまで乗り込んで卒業生から在校生の成績や操行まで調べ上げる。
 白羽の矢は雄幸の上に落ちる。校門で待ち構えて首実検もした。
 なるほど容貌は問題だが、男は顔ではない。手づるをさがして水口家へ縁談を持ちかけ、自分でも直接出向いて懇望した。
 話がまとまって二人の初対面は19歳と16歳。少年を初めて見た少女は「まあ、あのひとかよ!」と、思わず声を上げた、と城山三郎氏は書いてある。
 その2は土佐史談会会員の内川大海氏が『土佐史談』221号(平成14年)に発表した「浜口雄幸と野村茂久馬」。
 まず野村茂久馬という人物。高知の人なら大抵知っているだろう、赤バス高知県交通の創業者。土佐の交通王といわれた貴族院議員。
 田野村の隣り、奈半利村(現奈半利町)の生まれ。父に連れられて高知市に出、雄幸とは高知尋常中学校へ明治18年に入学した同級生。
 学校の規則で全員寮へ入らされた(この点も城山本とずれがある)が、2人は8畳の部屋に同室であった。このことは茂久馬が創立した高知通運『六十年史』にも載っている(同書72ページ)。
 ある日、茂久馬が故郷へ帰って奈半利川で鮎釣りをしていると、父親健吉と親しかった義立も釣りに来ており、「娘の婿になる良い青年は居ないかね」と問われた。茂久馬は即座に雄幸を推薦し、話が進んだという。
 浜口雄幸の語録としては城山氏の伝記小説のタイトルともなった「男子の本懐」が有名だが、高知県安芸郡芸西村にある研修施設「考える村」の語録の道には「正しく明るき政治に機密費が要るわけがない」と刻んだ碑がある。昭和5年度予算編成で雄幸は不明朗な各省機密費を30%削った。その時の言葉というか信念。(前掲『男子の本懐』=新潮社刊城山三郎全集第1巻166ページ参照)
また平成10年には彼が19年間暮らした五台山の生家が復元されている。

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