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 今年は全国高校野球選手権大会が始まって100年の記念の年。敗戦後の1946(昭和21)年、高知城東中学校(現追手前高校)が高知県勢として初めて出場した。第28回全国中等学校優勝野球大会である。当時はまだ1県1校の時代ではなかった。四国予選があった。
 その時、私は城東中学校の3年生。同級生はこのチームには5人いた。
 投手は前田祐吉。陸軍幼年学校帰りの秀才。高知市通町の製紙業前田嘉郎氏の子息。彼のカーブはすごかった。当時はドロップといった。慶應義塾大学に進んだ
 一塁に河野了。「さとる」と読む。高知市井口町の永福時の長男で、のち京都の龍谷大学に学び住職を務めた。
 二塁は野瀬泰一。高知市中島町の野瀬薬局の御曹子で、のちお医者さんとなり大阪で開業した。
 三塁を守ったのは国則孝雄。責任感の強い男で、高知中央自動車学校の教官をした。
 中堅手は岡村熊長。介良国民学校の出身で、のち中学野球の監督。「くまおさ」だが「くまちょう先生」、「クマチョウさん」と慕われた。強打者だった。
 現在健在なのは前田のみ、あと4人はみな鬼籍に入った。前田とは2009(平成21)年に彼が高知県スポーツ殿堂入りした時飲んで以来会っていないが、元気だと思う(いま85歳)。

 このチームを引率して、戦後の食糧難、交通難のなかを西宮まで遠征したのは入江雅幸先生であった。1959(昭和34)年8月に発行された追手前高等学校校友会の『創立八十周年記念誌』に「戦争から甲子園時代まで」と題して回顧感想録を書き残している。そのなかから野球に関する部分を紹介する。

 敗戦後生徒の志気を鼓舞する方法としてスポーツを取上げ先づ野球に手をつけた。
 しかし米国の国技を真似るものとして校長からも一部職員からも反対反感があった。しかし矢張り校友の強い支持を得、特に畠中源太郎氏の熱心な後援を得たので心強い限りであった。 
 丁度幼年校から復校した前田君が野球に長じ非凡な投球を示していたので俄然名をなすに至ったのである。
 ボールは商店になく、部費は勿論皆無で、自弁で苦心作成修理して練習を続けた。当時市商も野球部復活を目指していたが、N部長の厚い友情と寛容によって焼け残りの貴重なボール十個を譲ってくれた。この好意が無かったら練習に事欠き城東の戦後第一回の選抜大会への出場は覚束なかったかも知れなかった。
 遠征に際して米はなし闇米の移動は禁止であり、資金はなく、鉄道は南海地震で未だ修理がつかず、山を越えトンネルを抜け、神戸に着くまでにも苦労したのであった。
 三の宮駅に着いた時、駅頭の悲惨事には目を蔽わずには居られなかった。終戦日尚ほ浅く、浮浪人、栄養失調者等が駅構内外に溢れ、この有様で果して野球大会が出来るものであろうかと目を疑い危惧の念にかられた。旅館等ある筈なく焼野原の神戸で漸く校友宇田氏の家屋を拝借し得たのであった。
 飯炊きの燃料は会社の建物を壊し、調味料は阪神の校友を訪ね求め漸く賄う状態であった。
 次に夏の甲子園大会に出場の際は、国内の秩序も次第に回復し、食事情も好転に向い、市民のファンも次第に増加し前回と較べて楽な遠征が出来た。
 しかし寄附金は主として校友に頼り学校の野球部というより寧ろ校友会の野球部であった。城東が所謂「偉大なる敗者」の賛辞を戴いたのはその時であった。
 野球を中心に校友の団結も愈々堅く結ばれて母校復興に寄与するところ少なくなかった
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