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  あすから師走。師走といえば…。

 大石内蔵助を総大将とする赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入り主君の恨みを晴らしたのは今から300年あまり前の元禄15年12月14日のこと。

 上野介の首級をあげて泉岳寺へ引き揚げる一行の中にただひとりの足軽寺坂吉右衛門の姿はなかった。46人であった。

 逃げたという説、大石から密命を受けて一行から離れたという説、いろいろあって本当のところは分からない。

 ただ「忠臣蔵」の物語では浅野内匠頭の遺族らへ報告するよう大石から命ぜられ西に向かったと描かれている。

 今回はその吉右衛門が土佐藩士として無事83歳の生涯を終えたという話。

  『土佐史壇』2号(大正7年)に青木義正という人の講演要旨が載っています。浜口雄幸・第27代内閣総理大臣の実兄で土佐高等女学校の校長などを勤めた人です。(水口家から養子に行って青木家を継ぎました)

  「赤穂義士と土佐との関係」と題した講演で3つの側面から薀蓄を傾けていますが、そのなかから今回は吉右衛門と土佐との関係を紹介します。

  吉右衛門が姿を消したのは内蔵助から「お前は今後の行動を他と共にする必要はない。お前には別に使命を与える。安芸(広島)゜に行って今回の義挙の顛末を告げよ」と命じられたからである。

 吉右衛門は早速早馬に乗って、まず赤穂に駆けつけた。3昼夜で着いた。当時、江戸と播州との間を3日で到着するということは異例の速さである。

 浅野家と縁故のあった華岳寺の蟠渓和尚に事の次第を報じたあと広島へ馬を走らせる。広島の浅野本家には蟄居中の浅野大学(浅野内匠頭の弟)がいた。

 使命を果たしたあと江戸に帰って幕府に自首するが、すでに46人の処刑も済んでいたので格別の詮議もなく無罪放免となった。

 その後、義士の一人吉田忠左衛門の女婿、姫路藩士の伊藤某(別の史料により伊藤十郎太夫、或いは伊藤八郎右衛門)に仕え、再び江戸に出て麻布の曹渓寺に身を寄せた。

 寺の僧(梁州禅師)が檀家である麻布山内家(麻布様)の主膳公と懇意だったことから、その紹介で麻布家に奇遇することになったわけであるが、これは討ち入りから16年のちのことである。

 この頃山内家は7代豊常公が家督を継いだ翌年であったが、室鳩巣という人物が斡旋して吉右衛門の籍を土佐の本家に移そうという動きがあった。

 ところが、山内家は米澤の上杉家と縁談が進行中であり、上杉家は吉良家と父子の間柄、この辺の遠慮があって召し抱えのことは成立せず、麻布家お抱えのまま、麻布の屋敷で死亡した。
 
 これらのことは『土佐史談』33号(昭和5年)に福島成行氏(山内家家史編輯者)も書いており、それによりますと、吉右衛門は麻布様のもと「刀矢のこと」を担当し、夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。

 子孫も代々、麻布山内家に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、明治維新に至って土佐藩士の禄を離れています。そして今は信正さんの時代で茨城県に健在だと昭和9年12月20日の高知新聞を転載した『土佐史談』50号は伝えています。

 寺坂吉右衛門の正統であることを物語るものとして同家には、討ち入りの際吉右衛門が使用した衣服の片袖、槍1筋、提燈の柄、家系図があるそうです。

 最後に昭和9年6月12日の大阪朝日新聞の記事を紹介します。『土佐史談』48号が転載したもので、見出しは「寺坂吉右衛門の逃亡説は覆さる 貴重な文献現はる」。

 姫路藩士・伊藤十郎太夫の子孫の家から義士の手紙など古文書133点が出てきたということを報じています。

  青木義正氏は、講演のなかで大石内蔵助良雄の先祖は土佐の出であるとの説、義士の遺墨が土佐に伝わった由来についても述べていますが、これはまたの機会に。
 
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