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 前に一度お話しましたが、『土佐史壇』は大正6年の創刊、明治でかぞえますと50年ですから、藩政時代を経験し、維新の嵐を潜り抜けてきた方たちが多数健在でした。

 雑誌にはその人たち体験談や文章が記録されており、文字通り史料の宝庫です。

 今回はその中から安芸喜代香という自由民権運動の闘士が石川島監獄に収監され、どんな仕打ちを受けたかを、彼が大正7年6月23日、土佐史談会で講演した筆記録から紹介します。(『土佐史壇』3号所載)

 明治20年(1887年)東京は3大事件建白運動で騒然としていました。

 3大事件とは①売国的な条約改正を止めよ②言論出版集会の自由を認めよ③地租軽減を断行せよーこの3つの目標を掲げて全国から多数の総代が上京、政府に対して陳情活動を繰り返した運動です。

 あまりうるさいので政府は12月26日、突如「保安条例」なるものを発布して「明日午後3時までに帝都を隔たる3里以外に退去せよ」と命じて来ました。

 拒否したものは即逮捕されました。

 安芸たちは硬軟両様の議論を戦わしましたが、吉本松吉という人物の説得を受け入れていったん横浜まで退却します。

 吉本というのは高知で代言人(弁護士)をしていましたが、大阪の代言人事務所に招聘されて移り、その足で大阪の総代となって上京していました。

 穏健な考え方の持ち主で、獄につくのはたやすいが、ここは退いて戦線を立て直そうと「苦諫百端声涙共にくだる」説得に同席の一同これを受け入れます。

 横浜の旅館に落ち着いたものの、考えれば考えるほど腹の虫が収まりません。

 安芸、横山又吉、門田智、長沢理定、高田一二の5人は保安条例の取り消しを求めて引き返し逮捕されました。(『土佐史談』158号、高田雁山「保安条例違犯事件顛末」)

 そして石川島監獄署の12番監に放り込まれます。12番監とは徳川時代から国事犯を入れておく所で、この時は片岡健吉や星亨ら40人ほどが収容されました。

 明治政府は反対党を火付けか強盗のように見ていたので、扱いは捕虜以上に虐待され、少しでも不服をいうとすぐ殴られる。看守にサーベルで殴打された者も少なくなかった。

 片岡健吉ら2、3人キリスト者が居ましたが、この人たちがお祈りをするに声を出して祈ると、看守が大声で怒鳴りつける。そのため信者たちは黙祷をしていました。

 肉体的に一番苦しかったのは食べ物が少なかったこと。

 軽禁錮刑でしたから労働はありませんでしたが、その代わり飯は「四合飯」。四歩六飯といって麦が6歩に米が4歩、果たして4合あったかどうか。藁切れが多く入っていました。

 監房の障子が破れ放題で、寒風が吹き込む。その穴をふさごうと紙を張るのですが、5粒10粒の飯粒を出し合うのが大問題となるほど、みんな飢えていました。

 副食物は香の物が2切れとごま塩ひと摘み、朝は薄い味噌汁が1椀。

 労働に出ますと五合飯が食べられると、1合の飯に釣られて平囚の働いている工場へ行く者もありましたが、私(安芸)は空腹を忍んで終日なるべく動かないようにして本を読んでいました。

 明治21年2月10日のことでした。典獄からのご馳走ということで煮た鶏肉が山盛りで幾鉢も出ました。そのうえ飯は毎時の四六ではなく上白の米飯でした。

 特赦放免が近いと感じましたが、案の定、翌11日の紀元節、早朝に教戒堂へ呼び出され、東京裁判所からの大赦出獄及び保安条例違犯解除の命令書を伝達せられ出獄できました。

 なお吉本松吉はそのまま横浜から大阪に帰り、尻無川事件の弁護などを担当します。

 尻無川事件とは、明治政府の打倒と大臣暗殺を企てたグループが、その資金提供を依頼した友人を、密告を恐れて、大阪府下尻無川畔で殺害した事件です。主犯処刑後も埋葬の世話に当たるなど民権派の代言人でした。


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