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 幕末、風雲急を告げる京都で後世池田屋事件と呼ばれる動乱がありました。三条小橋の旅館池田屋に潜伏していた長州藩をはじめとする尊王攘夷派の志士を京都守護職配下の新選組が襲撃した事件です。多くの志士が殺されました。
 土佐藩の者で事件に関わって死亡したのは北添佶磨、望月亀弥太、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉郎の5人ですが、野老山については出身地が安芸郡芸西村で私の故郷、女優栗原小巻さんの一族と伝えられていること、それに私の長男の嫁が同姓だったことなどのため特別な関心を持っています。  
 吾吉郎の最期について、2009年4月の当欄で次のように書きました。
 「吾吉郎は元冶元年(1864年)6月5日の池田屋事件の犠牲者とされていますが、池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介という方を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。重傷を受けて長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました」。
 ところが、3年前に高知県が購入した「土佐藩京都藩邸史料」(県立坂本龍馬記念館蔵)の中に吾吉郎(史料では吾吉)のことを記した長文の調書がありました。これまで伝えられてきた事件前後の足取りとはかなり違うことが書かれています。
 通りがかりに新選組の検問にかかって重傷を負ったのではなく、池田屋の二階で諸藩の尊攘派志士と一緒に宴会を開いていて、つまり土佐でいう“お客”をしていて新選組の家宅捜索「お改め」に会い、斬り合いになったことになっています。
 志士たちの謀議に加わっていたのか、あるいは単に酒の席に付き合っていたのかは、はっきりしませんが、戦いは多勢に無勢、ここで斬り死にするよりはひとまず逃げようと、店の裏から屋根裏へ上がり、屋根伝いに人気のない所へ飛び降りたとあります。
 池田屋へ立ち寄るまでの足取りも書かれています。
 事件当日の6月5日七ツ時(午後4時)ごろ藩邸の門を出て、四条小橋にある居酒屋で石川潤次郎、藤崎八郎と3人で飲食、夕刻になって店を出、四条橋を西へ入った酒屋へはしごし、暮れごろまで居ました。潤次郎と別れたあと、八郎と二人で四条寺町の書店へ行き、『日本外史』はないかと尋ねました。ないとの答えでしたので「本屋なら外史の1部ぐらい置いておけよ」と店員と口論になりました。『日本外史』は頼山陽の著作で、幕末の尊王攘夷運動や勤王思想に多大な影響を与えた本です。二人は「我らは土州脱藩の野老山吾吉郎と藤崎八郎である」と名乗り、そんな口のききかたをすると許さんぞと言い置いて店を出ました。
 ここに初めて吾吉郎の頭に「脱藩」という形容詞が登場します。また数日後になりますが、吾吉郎は尊攘派のスポンサーである板倉筑前介(淡海槐堂)に会って「遠足留になっているうえ池田屋事件に関わったので藩邸へは帰れない」と訴えますので、この段階で吾吉郎は事実上、藩の支配を離れていたことが窺われます。
 吾吉郎はそのあと六ツ半(午後7時)ごろ、もう一軒、川原町四条上るの貸本屋に寄って水を一杯もらってから池田屋へ立ち寄ったことになっています。
 これは私の想像で証拠はありませんが、四条寺町の本屋での遣り取りを新選組に見られ、あとを着けられた可能性があるのではないか、と思ったりします。
 池田屋から脱出した吾吉郎はどうしたか。
 ここで、参考までに『維新土佐勤王史』の関係部分を書きます。
 「此の夜藤崎八郎、野老山吾吉郎二人は、板倉筑前介を訪ひて密談中、不意に新選組の襲撃する所となり、二人奮闘の余相失せしが、野老山は逸走して長藩邸に入るを得しも、創重くして遂に死し、藤崎は河原町の藩邸に達するの余勇ありしにも拘らず、脱藩志士と事を共にしたるを以て、敢て帰邸する能はざるに至り、亦途上に屠腹せり」
 事実関係は全然違っています。
 このあと吾吉郎はどうしたか。傷の具合についての記述はありません。
 ①その夜は三条川原に潜伏し、夜が明けぬうちに長州藩の宮川某と宮川町の揚茶屋へ行き翌6日の昼ごろまで隠れていましたが、探索の人数が多くなったので内山を残して立ち去ります。
 ②6日八ツ半(午後3時)ごろ熊野権現境内にある森升という料理屋へ立ち寄り、岡崎御殿詰めの石川潤次郎宛の手紙を書きます。店の者が御殿へ届けてくれました。潤次郎は一緒に脱走していますので当然居ません。足軽の六兵衛という者が開封しましたが、分かりにくい文章だったので森升へ聞きにくるという話だったそうです。
 ③森升へやって来た六兵衛と面会します。吾吉郎は普段は赤鞘の大小で人より長いものを差していましたが、このときは脇差一本で、服もしわになり、実にみすぼらしい恰好だったそうです。涙を流しながら池田屋での模様を話します。刀や袴は捕り手に打ち落とされ、そのまま捨ててきたこと、宮川町の揚茶屋へ行ったことは話さず、あちこち隠れ回ってやっと一命を保っているが、もうなすすべがないので割腹すると言ったそうです。六兵衛が一命を捨てるのは早すぎる、藩邸へ帰ろうと説得しますが、聞き入れてもらえません。ただ「一人だけ頼めそうな人がいるので訪ねてみたい」という吾吉郎の言葉を引き出して六兵衛は帰ります。
 ④夕方店を出て西へ向かい、どの道を通ったか分かりませんが、五条伏見街道の方へ同日暮れごろ着き、板倉筑前介方を訪ねます。話を聞いた筑前介も六兵衛と同じように藩邸へ帰るよう促しますが、帰れない、切腹するの一点張りだったそうです。そこで筑前介は長州か因州の藩邸に匿ってもらうことを提案します。長州藩邸へ行って必ず門内に入れてもらい「所郁太郎という人を訪ねなさい。所が不審がるなら近日中に板倉が参上するので、それまでの間でも匿って欲しいと頼みなさい」といい含めたとあります。
 ⑤吾吉郎の身なりは明らかに不審で道中怪しまれる恐れがあるため、差している脇差を板倉宅のものと替え、深い編み笠も取り替えました。路銀も底をついていたようなので300疋を持たせました。
 吾吉身廻り全躰中間躰之仕成、着用すそやはずからげニ為致、同時ニ長邸之如く罷越申由ニ候事
 子六月
 (吾吉の身なりは中間風で、着物の裾・矢筈をからげ、同時に長州藩邸へ行くと申したとのことです
 子六月)

  「御足軽吾吉につき調書」はここで終わっています。刀や袴は取られていますが、負傷についての記述はありません。あちこち逃げ隠れして、伝えられていた重傷とはとても思えません。
 また最期についても、調書では長州藩邸に向かったまでで、その後は不明です。ただ墓が東山正法寺にあるため死亡場所は長州藩邸であろうと推測できます。自裁かどうかは分かりません。
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