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2011.01.16
(98)土佐史談245号を紹介
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土佐史談245号(2010年12月)の内容を紹介します。「明治維新の群像」特集号です。
◇巻頭言=松岡司(1ページ)
◇幕末土佐の国是(藩論)=松岡司(14ページ)
◇田中光顕と「志士」顕彰‐維新史料論との架橋-=高田祐介(17ページ)
◇溝渕廣之丞と幻の「自然堂」=渋谷雅之(14ページ)
◇吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの-小田村素太郎(楫取素彦)を通して-=加藤健太郎(13ページ)
◇幕末の板垣退助=公文豪(17ページ)
◇明治維新の群像 中濱万次郎~その帰郷の意図と黒船来航~=永国淳哉(23ページ)
◇信念を貫いた土方久元の系譜=松本紀郎(14ページ)
◇土佐勤王党と須崎の志士たち=香崎和平(7ページ)
◇坂本龍馬の遺志を継いだ男・菅野覚兵衛(千屋寅之助)=佐藤寿良(15ページ)
◇樋口真吉のこと=南寿吉(15ページ)
◇堀見熈助と民権政社佐川南山社=間宮尚子(12ページ)
◇土佐史談会関東支部 第九回例会報告=石川泰志(1ページ)
◇歴史サロン 歪められた吉田東洋像=竹本義明(2ページ)
明治維新の群像特集と銘打つにしては少々少ないのでは…との声もありそうですが、これらの論考はいずれも読み応えのあるものばかり。
例えば「幕末の板垣退助」、筆者の公文豪氏はその前書き「はじめに」でこの稿の狙いを次のように述べています。長くなりますが、そのまま引用させていただきます。
※ ※
司馬遼太郎氏の板垣冷評が、国民的作家であるがゆえに、戦後の板垣評価に多大な影響を及ぼしたことは間違いないであろう。『翔ぶが如く』では、「板垣は元来、幕末にあって格別に革命運動をしたというほどの苛烈な経歴はもっていない。かれは土佐藩の藩官僚で、藩の洋式軍隊をにぎっていたことが、戊辰戦争での功績になり、維新の元勲になるという結果になった。土佐藩での革命運動は郷士や下士がにない、多くは脱藩し、めぼしい人物のほとんどが死んだあと、維新の果実だけを、板垣退助や後藤象二郎といった上士出身者が食うというかたちになった」と述べ、「板垣などの栄達はかれら(注・武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎など)の死に載っかったものであった」とまで極論している。
乾退助が、「馬上天下を取るものは、馬上之を復するにあらずんば、到底二百有余年の覇政を覆へすこと不可能」と、一貫して武力倒幕論を唱えたことはよく知られている。このため山内容堂の怒りをかって再三藩の要職を却けられ、藩内佐幕派からは水戸浪士隠匿の罪を弾劾され、死地に立った事もある。半年に及ぶ砲煙弾雨の戊辰戦争を闘い、会津攻略に及んだことは、果たして「格別に革命運動をしたというほどの苛烈な経歴」に値しないのだろうか。
司馬氏の板垣評価をつらぬくものは「下士勤王派史観」ともいうべきもので、かなり皮相な見方である。板垣の栄達が革命運動の苛烈な経歴をもたず、維新の果実だけを食い、瑞山、龍馬、慎太郎等の死に載っかっただけのものとすれば、のちに自由民権運動の指導者として旧土佐勤王党員らもふくめて衆を率い、県民の熱狂的な信頼を集めるようなことはなかったであろう。「司馬史観」の粗漏さは、あらためて検証する必要があると思う。
本稿では、こうした問題意識から、上士、下士の対立を止揚して土佐藩を一藩勤王に導き、明治新政府確立に貢献した板垣退助の役割をあらためて考察しようとするものである。
※ ※
これらの論考を総評して土佐史談会理事の松岡司氏は巻頭言で「明治政府がすすめた志士顕彰の変化という新見地からの大胆・沈着な好論、理性的分析によった時代や志士の紹介論などがあるかたわら、深い郷土への愛、郷里の偉人をたたえた温かい文もみられる。佐幕派に関する研究がないのはやむを得ず、これは当面必要であることを認識していただき、おおむねバランスよく収められている」と述べています。
土佐史談会へぜひご入会ください。年会費6000円です。土佐史談(年3冊)が無料配布されます。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に8講座を終わり、新年は29日からです。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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土佐史談245号(2010年12月)の内容を紹介します。「明治維新の群像」特集号です。
◇巻頭言=松岡司(1ページ)
◇幕末土佐の国是(藩論)=松岡司(14ページ)
◇田中光顕と「志士」顕彰‐維新史料論との架橋-=高田祐介(17ページ)
◇溝渕廣之丞と幻の「自然堂」=渋谷雅之(14ページ)
◇吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの-小田村素太郎(楫取素彦)を通して-=加藤健太郎(13ページ)
◇幕末の板垣退助=公文豪(17ページ)
◇明治維新の群像 中濱万次郎~その帰郷の意図と黒船来航~=永国淳哉(23ページ)
◇信念を貫いた土方久元の系譜=松本紀郎(14ページ)
◇土佐勤王党と須崎の志士たち=香崎和平(7ページ)
◇坂本龍馬の遺志を継いだ男・菅野覚兵衛(千屋寅之助)=佐藤寿良(15ページ)
◇樋口真吉のこと=南寿吉(15ページ)
◇堀見熈助と民権政社佐川南山社=間宮尚子(12ページ)
◇土佐史談会関東支部 第九回例会報告=石川泰志(1ページ)
◇歴史サロン 歪められた吉田東洋像=竹本義明(2ページ)
明治維新の群像特集と銘打つにしては少々少ないのでは…との声もありそうですが、これらの論考はいずれも読み応えのあるものばかり。
例えば「幕末の板垣退助」、筆者の公文豪氏はその前書き「はじめに」でこの稿の狙いを次のように述べています。長くなりますが、そのまま引用させていただきます。
※ ※
司馬遼太郎氏の板垣冷評が、国民的作家であるがゆえに、戦後の板垣評価に多大な影響を及ぼしたことは間違いないであろう。『翔ぶが如く』では、「板垣は元来、幕末にあって格別に革命運動をしたというほどの苛烈な経歴はもっていない。かれは土佐藩の藩官僚で、藩の洋式軍隊をにぎっていたことが、戊辰戦争での功績になり、維新の元勲になるという結果になった。土佐藩での革命運動は郷士や下士がにない、多くは脱藩し、めぼしい人物のほとんどが死んだあと、維新の果実だけを、板垣退助や後藤象二郎といった上士出身者が食うというかたちになった」と述べ、「板垣などの栄達はかれら(注・武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎など)の死に載っかったものであった」とまで極論している。
乾退助が、「馬上天下を取るものは、馬上之を復するにあらずんば、到底二百有余年の覇政を覆へすこと不可能」と、一貫して武力倒幕論を唱えたことはよく知られている。このため山内容堂の怒りをかって再三藩の要職を却けられ、藩内佐幕派からは水戸浪士隠匿の罪を弾劾され、死地に立った事もある。半年に及ぶ砲煙弾雨の戊辰戦争を闘い、会津攻略に及んだことは、果たして「格別に革命運動をしたというほどの苛烈な経歴」に値しないのだろうか。
司馬氏の板垣評価をつらぬくものは「下士勤王派史観」ともいうべきもので、かなり皮相な見方である。板垣の栄達が革命運動の苛烈な経歴をもたず、維新の果実だけを食い、瑞山、龍馬、慎太郎等の死に載っかっただけのものとすれば、のちに自由民権運動の指導者として旧土佐勤王党員らもふくめて衆を率い、県民の熱狂的な信頼を集めるようなことはなかったであろう。「司馬史観」の粗漏さは、あらためて検証する必要があると思う。
本稿では、こうした問題意識から、上士、下士の対立を止揚して土佐藩を一藩勤王に導き、明治新政府確立に貢献した板垣退助の役割をあらためて考察しようとするものである。
※ ※
これらの論考を総評して土佐史談会理事の松岡司氏は巻頭言で「明治政府がすすめた志士顕彰の変化という新見地からの大胆・沈着な好論、理性的分析によった時代や志士の紹介論などがあるかたわら、深い郷土への愛、郷里の偉人をたたえた温かい文もみられる。佐幕派に関する研究がないのはやむを得ず、これは当面必要であることを認識していただき、おおむねバランスよく収められている」と述べています。
土佐史談会へぜひご入会ください。年会費6000円です。土佐史談(年3冊)が無料配布されます。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に8講座を終わり、新年は29日からです。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
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2011.01.01
(97)『汗血千里駒』のこと
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あけましておめでとうございます。
「よさこい高知歴史木漏れ日」も4年目に入りました。いまはわずか月2回ペースの更新ですが、アンコール編も含めながら続けて行きたいと思っています。
※ ※
昨年暮、結婚情報サービス「オーネット」がアンケートで調べた「結婚のお世話をしたい(そろそろ結婚してほしい?)芸能人」1位に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬を演じた福山雅治さん(41)があげられていました。
また大晦日のNHK紅白歌合戦では本職の歌のほか長髪龍馬の断髪式のパフォーマンスも見せてもらいました。
その龍馬を最初に世間に紹介した小説『天下無雙人傑海南第一傳奇 汗血千里の駒』の著者は坂崎紫瀾(さかざき・しらん)であることは広く知られています。
「龍馬伝」にもちらちら顔を出していましたが、浜田学の扮する紫瀾が千葉佐那の灸治療を受けながら横になっている岩崎弥太郎を取材するシーンが記憶に残っています。弥太郎が痛がってました。おそらく『汗血千里の駒』の資料集めだったでしょう。
「本名、謙次のち斌(さかん)。嘉永6年(1853年)、土佐藩医・坂崎耕芸の二男として江戸鍛冶橋土佐藩邸に生まれた」と『高知県人名事典新版』(高知新聞社刊)にあります。
「安政3年(1856年)4歳のとき家族とともに高知に帰り、藩校致道館に学ぶ。明治元年(1868年)16歳で致道館の助教句読席掛となる」
この若さです、英才ぶりがうかがわれます。
明治3年、藩費で廣島に遊学。頼山陽の遺風を慕ってのことでしょうか。翌4年には迎えられて彦根藩の藩校の教授となって彦根に赴任、6年には東京に出てニコライ師の塾に学びます。ニコライ師は本名イオアン・テミトロウィチ・カサーツキンというロシア人。後年、東京駿河台に有名な大聖堂、通称ニコライ堂を建てたのはこの人です。
紫瀾は旧来の儒教に見切りをつけてキリスト教に入ろうとしたのでしょう。忽ち認められて少講義という役を与えられますが、教義のことでニコライ師と激論、牧師となることをあきらめて7年には高知へ帰ってきました。(滝石登鯉「紫瀾雑録」=土佐史談115号・昭和41年)
ニコライといいますと思い浮かぶのが龍馬の従兄弟・沢辺琢磨。しかし紫瀾、琢磨の出会いはなかったようです。この時期、琢磨は仙台で布教活動をしており、捕えられて獄にあったからです。(福永久寿衛著『沢辺琢磨伝』。同書刊行会から単行本にもなっていますが、それに先立って土佐史談121号=昭和43年=から136号まで13回にわたって連載されています。)
『汗血千里の駒』は井口刃傷事件の描写から始まります。
井口刃傷事件というのは身分差別のひどかった土佐藩で、文久元年(1861年)3月4日の夜起こった上士と下士の血で血を洗う争いです。
ここに紫瀾は坂本龍馬を登場させます。
「寅之進(下士池田寅之進)が割腹の血汐へ己が刀の下緒(さげお)(白糸なりしと)を浸し韓血(からくれない)となりしを手に把りて「各々(おのおの)見られよ、之(こ)れぞ世(よ)にも猛男(ますらお)が魂魄(たましひ)残りし最後の紀念(かたみ)、池田は我国軽格の元気を振興させんが為め身を犠牲(いけにえ)に供したり、努々(ゆめゆめ)姑息(こそく)に流るゝなかれ、盡(つく)せよ盡せ国の為」と押戴(おしいただ)きて元の如く刀に結(ゆい)つけ、家内の者に会釈をなして悠然と立去りし其挙動(ふるまい)には一同感じて竭(や)まざりし、是(これ)ぞ汗血千里の駒が驥足(きそく)を舒(のぶ)る(すぐれた人がその才能を十分に振るう)開結(いとぐち)なり」(土佐史談会復刻版『汗血千里駒』7~8ページ)
歌舞伎で大見得を切るような振る舞いをさせていますが、人権無視の封建体制に抗して死んだ池田の血潮を己が血潮とした龍馬に寄せる紫瀾の熱い思いが伝わってきます。
ところで波乱万丈の龍馬の生涯に例えられた汗血千里駒とはどんな馬でしょうか。
今から約2200年前、中国・漢の武帝が大宛(中央アジア・フェルガナ地方)へ大遠征軍を派遣し、多大の犠牲を払ってまで求めた馬で天馬と讃えられました。
フリー百科事典ウィキペディアには「血のような汗を流して走る馬という意味で汗血馬(かんけつば)=アハルテケと呼ばれる」とあります。
さらに「汗血馬は1日に千里(約500km)を走るといわれている。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアカール・テケという品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、この馬は汗血馬の子孫ではないかといわれている」と続いています。
汗血馬という名前ですが、実際に血を流していたのか、そういう風に見えたのかよく分かりませんが、『史記』巻24「楽書」には次のような「天馬の歌」があるそうです(小島瓔禮編著『人・他界・馬』163ページ、一部略)
「赤い汗がその体を濡らし、口から吐く沫(よだれ)は赭(あか)い色を流している。浮雲を踏みつけて、遥か万里の彼方まで飛び去ってしまう。天馬に匹敵できるものはなく、龍しか友とはなれない」
高知県競馬組合競走馬診療所で獣医師をしている畏友によりますと、今の競走馬でも走って帰ってくると特に四肢、また上部の体表でも、こすって小さな静脈が切れ、血がにじんでいることがよくあるそうです。馬の汗には界面活性剤のような成分が入っていて、わずかな出血でもよく溶かして体表に広がりやすく、目立つといいます。
坂本龍馬直柔がどんな思いをこめて龍馬を通称としたか私には分かりません。
中国では龍が馬に化し馬が龍に姿を変えるという「龍馬伝説」がしばしば伝えられており、或はそんな影響があったのでしょうか。『西遊記』で三蔵法師を乗せて天竺まで旅する白馬は途中で龍となって妖怪と戦います。
「龍馬伝」のタイトルバック、七色変化の龍の巨体がうねっていました。このドラマは日本では終わりましたが、台湾では既に始まり、韓国、タイでも放送が予定されています。
高知でも「土佐・龍馬であい博」に引き続くイベントとして「志国高知・龍馬ふるさと博」が準備されています。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に8講座を終わり、新年は29日からです。
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5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
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あけましておめでとうございます。
「よさこい高知歴史木漏れ日」も4年目に入りました。いまはわずか月2回ペースの更新ですが、アンコール編も含めながら続けて行きたいと思っています。
※ ※
昨年暮、結婚情報サービス「オーネット」がアンケートで調べた「結婚のお世話をしたい(そろそろ結婚してほしい?)芸能人」1位に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬を演じた福山雅治さん(41)があげられていました。
また大晦日のNHK紅白歌合戦では本職の歌のほか長髪龍馬の断髪式のパフォーマンスも見せてもらいました。
その龍馬を最初に世間に紹介した小説『天下無雙人傑海南第一傳奇 汗血千里の駒』の著者は坂崎紫瀾(さかざき・しらん)であることは広く知られています。
「龍馬伝」にもちらちら顔を出していましたが、浜田学の扮する紫瀾が千葉佐那の灸治療を受けながら横になっている岩崎弥太郎を取材するシーンが記憶に残っています。弥太郎が痛がってました。おそらく『汗血千里の駒』の資料集めだったでしょう。
「本名、謙次のち斌(さかん)。嘉永6年(1853年)、土佐藩医・坂崎耕芸の二男として江戸鍛冶橋土佐藩邸に生まれた」と『高知県人名事典新版』(高知新聞社刊)にあります。
「安政3年(1856年)4歳のとき家族とともに高知に帰り、藩校致道館に学ぶ。明治元年(1868年)16歳で致道館の助教句読席掛となる」
この若さです、英才ぶりがうかがわれます。
明治3年、藩費で廣島に遊学。頼山陽の遺風を慕ってのことでしょうか。翌4年には迎えられて彦根藩の藩校の教授となって彦根に赴任、6年には東京に出てニコライ師の塾に学びます。ニコライ師は本名イオアン・テミトロウィチ・カサーツキンというロシア人。後年、東京駿河台に有名な大聖堂、通称ニコライ堂を建てたのはこの人です。
紫瀾は旧来の儒教に見切りをつけてキリスト教に入ろうとしたのでしょう。忽ち認められて少講義という役を与えられますが、教義のことでニコライ師と激論、牧師となることをあきらめて7年には高知へ帰ってきました。(滝石登鯉「紫瀾雑録」=土佐史談115号・昭和41年)
ニコライといいますと思い浮かぶのが龍馬の従兄弟・沢辺琢磨。しかし紫瀾、琢磨の出会いはなかったようです。この時期、琢磨は仙台で布教活動をしており、捕えられて獄にあったからです。(福永久寿衛著『沢辺琢磨伝』。同書刊行会から単行本にもなっていますが、それに先立って土佐史談121号=昭和43年=から136号まで13回にわたって連載されています。)
『汗血千里の駒』は井口刃傷事件の描写から始まります。
井口刃傷事件というのは身分差別のひどかった土佐藩で、文久元年(1861年)3月4日の夜起こった上士と下士の血で血を洗う争いです。
ここに紫瀾は坂本龍馬を登場させます。
「寅之進(下士池田寅之進)が割腹の血汐へ己が刀の下緒(さげお)(白糸なりしと)を浸し韓血(からくれない)となりしを手に把りて「各々(おのおの)見られよ、之(こ)れぞ世(よ)にも猛男(ますらお)が魂魄(たましひ)残りし最後の紀念(かたみ)、池田は我国軽格の元気を振興させんが為め身を犠牲(いけにえ)に供したり、努々(ゆめゆめ)姑息(こそく)に流るゝなかれ、盡(つく)せよ盡せ国の為」と押戴(おしいただ)きて元の如く刀に結(ゆい)つけ、家内の者に会釈をなして悠然と立去りし其挙動(ふるまい)には一同感じて竭(や)まざりし、是(これ)ぞ汗血千里の駒が驥足(きそく)を舒(のぶ)る(すぐれた人がその才能を十分に振るう)開結(いとぐち)なり」(土佐史談会復刻版『汗血千里駒』7~8ページ)
歌舞伎で大見得を切るような振る舞いをさせていますが、人権無視の封建体制に抗して死んだ池田の血潮を己が血潮とした龍馬に寄せる紫瀾の熱い思いが伝わってきます。
ところで波乱万丈の龍馬の生涯に例えられた汗血千里駒とはどんな馬でしょうか。
今から約2200年前、中国・漢の武帝が大宛(中央アジア・フェルガナ地方)へ大遠征軍を派遣し、多大の犠牲を払ってまで求めた馬で天馬と讃えられました。
フリー百科事典ウィキペディアには「血のような汗を流して走る馬という意味で汗血馬(かんけつば)=アハルテケと呼ばれる」とあります。
さらに「汗血馬は1日に千里(約500km)を走るといわれている。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアカール・テケという品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、この馬は汗血馬の子孫ではないかといわれている」と続いています。
汗血馬という名前ですが、実際に血を流していたのか、そういう風に見えたのかよく分かりませんが、『史記』巻24「楽書」には次のような「天馬の歌」があるそうです(小島瓔禮編著『人・他界・馬』163ページ、一部略)
「赤い汗がその体を濡らし、口から吐く沫(よだれ)は赭(あか)い色を流している。浮雲を踏みつけて、遥か万里の彼方まで飛び去ってしまう。天馬に匹敵できるものはなく、龍しか友とはなれない」
高知県競馬組合競走馬診療所で獣医師をしている畏友によりますと、今の競走馬でも走って帰ってくると特に四肢、また上部の体表でも、こすって小さな静脈が切れ、血がにじんでいることがよくあるそうです。馬の汗には界面活性剤のような成分が入っていて、わずかな出血でもよく溶かして体表に広がりやすく、目立つといいます。
坂本龍馬直柔がどんな思いをこめて龍馬を通称としたか私には分かりません。
中国では龍が馬に化し馬が龍に姿を変えるという「龍馬伝説」がしばしば伝えられており、或はそんな影響があったのでしょうか。『西遊記』で三蔵法師を乗せて天竺まで旅する白馬は途中で龍となって妖怪と戦います。
「龍馬伝」のタイトルバック、七色変化の龍の巨体がうねっていました。このドラマは日本では終わりましたが、台湾では既に始まり、韓国、タイでも放送が予定されています。
高知でも「土佐・龍馬であい博」に引き続くイベントとして「志国高知・龍馬ふるさと博」が準備されています。
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土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。既に8講座を終わり、新年は29日からです。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
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