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2010.12.13
(96)高知藩士になった寺坂吉右衛門
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ことしもあとわずか。今から308年前の元禄15年(西暦1702年)、師走も押し詰まった14日、大石内蔵助を総大将とする赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入り、主君の恨みを晴らしました。おなじみ47士の「忠臣蔵」です。
上野介の首級をあげて泉岳寺へ引き揚げる一行の中にただひとりの足軽寺坂吉右衛門の姿はありませんでした。46人でした。
逃げたという説、大石から密命を受けて一行から離れたという説、いろいろあって本当のところは分かりません。
ただ「忠臣蔵」の物語では浅野内匠頭の遺族らへ報告するよう大石から命ぜられ西に向かったと描かれています。
今回はその吉右衛門が土佐藩士として無事83歳の生涯を終えたという話。(これは本ブロク第11回で読んでいただいた内容に加筆修正したものです)
『土佐史壇』2号(大正7年)に青木義正という人の講演要旨が載っています。浜口雄幸・第27代内閣総理大臣の実兄で土佐高等女学校の校長などを勤めた人です。(水口家から養子に行って青木家を継ぎました)
「赤穂義士と土佐との関係」と題した講演で3つの側面から薀蓄を傾けていますが、そのなかから今回は吉右衛門と土佐との関係を紹介します。
吉右衛門が姿を消したのは内蔵助から「お前は今後の行動を他と共にする必要はない。お前には別に使命を与える。安芸(広島)に行って今回の義挙の顛末を告げよ」と命じられたからであります。
吉右衛門は早速早馬に乗って、まず赤穂に駆けつけました。3昼夜で着いたといわれます。当時、江戸と播州との間を3日で到着するということは異例の速さ。
浅野家と縁故のあった華岳寺の蟠渓和尚に事の次第を報じたあと広島へ馬を走らせます。広島の浅野本家には蟄居中の浅野大学(浅野内匠頭の弟)がいました。
使命を果たしたあと江戸に帰って幕府に自首しますが、すでに46人の処刑も済んでいたので格別の詮議もなく無罪放免となりました。
その後、義士の一人吉田忠左衛門の女婿、姫路藩士の伊藤某(別の史料により伊藤十郎太夫、或いは伊藤八郎右衛門)に仕え、再び江戸に出て麻布の曹渓寺に身を寄せました。 寺の僧(梁州禅師)が檀家である麻布山内家(麻布様)の主膳公と懇意だったことから、その紹介で麻布家に奇遇することになりました。討ち入りから16年のちのことであります。
この頃山内家は7代豊常公が家督を継いだ翌年でしたが、室鳩巣という人物が斡旋して吉右衛門の籍を土佐の本家に移そうという動きがあったそうです。
ところが、山内家は米澤の上杉家と縁談が進行中であり、上杉家は吉良家と父子の間柄、この辺の遠慮があって召し抱えのことは成立せず、麻布山内家(のち高知新田藩)お抱えのまま、83歳で死亡したといわれます。
これらのことは『土佐史談』33号(昭和5年)に福島成行氏(山内家家史編輯者)も書いており、それによりますと、吉右衛門は麻布様のもと「刀矢のこと」を担当し、夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。
子孫も代々、高知新田藩に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、孫の吉右衛門信成は主君攝津守の側頭(側近)にまで出世しています。明治維新に至って土佐藩士の禄を離れ、今は信正さんの時代で茨城県に健在だと昭和9年12月20日の高知新聞を転載した『土佐史談』50号は伝えています。
寺坂吉右衛門の正統であることを物語るものとして同家には、討ち入りの際吉右衛門が使用した衣服の片袖、槍1筋、提燈の柄、家系図があるそうです。
最後に昭和9年6月12日の大阪朝日新聞の記事を紹介します。『土佐史談』48号が転載したもので、見出しは「寺坂吉右衛門の逃亡説は覆さる 貴重な文献現はる」。
姫路藩士・伊藤十郎太夫の子孫の家から義士の手紙など古文書133点が出て来たことを報ずる内容です。
また平成20年12月11日の高知新聞夕刊は兵庫県赤穂市の大石神社所蔵史料から寺坂家のその後を伝えています。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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ことしもあとわずか。今から308年前の元禄15年(西暦1702年)、師走も押し詰まった14日、大石内蔵助を総大将とする赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入り、主君の恨みを晴らしました。おなじみ47士の「忠臣蔵」です。
上野介の首級をあげて泉岳寺へ引き揚げる一行の中にただひとりの足軽寺坂吉右衛門の姿はありませんでした。46人でした。
逃げたという説、大石から密命を受けて一行から離れたという説、いろいろあって本当のところは分かりません。
ただ「忠臣蔵」の物語では浅野内匠頭の遺族らへ報告するよう大石から命ぜられ西に向かったと描かれています。
今回はその吉右衛門が土佐藩士として無事83歳の生涯を終えたという話。(これは本ブロク第11回で読んでいただいた内容に加筆修正したものです)
『土佐史壇』2号(大正7年)に青木義正という人の講演要旨が載っています。浜口雄幸・第27代内閣総理大臣の実兄で土佐高等女学校の校長などを勤めた人です。(水口家から養子に行って青木家を継ぎました)
「赤穂義士と土佐との関係」と題した講演で3つの側面から薀蓄を傾けていますが、そのなかから今回は吉右衛門と土佐との関係を紹介します。
吉右衛門が姿を消したのは内蔵助から「お前は今後の行動を他と共にする必要はない。お前には別に使命を与える。安芸(広島)に行って今回の義挙の顛末を告げよ」と命じられたからであります。
吉右衛門は早速早馬に乗って、まず赤穂に駆けつけました。3昼夜で着いたといわれます。当時、江戸と播州との間を3日で到着するということは異例の速さ。
浅野家と縁故のあった華岳寺の蟠渓和尚に事の次第を報じたあと広島へ馬を走らせます。広島の浅野本家には蟄居中の浅野大学(浅野内匠頭の弟)がいました。
使命を果たしたあと江戸に帰って幕府に自首しますが、すでに46人の処刑も済んでいたので格別の詮議もなく無罪放免となりました。
その後、義士の一人吉田忠左衛門の女婿、姫路藩士の伊藤某(別の史料により伊藤十郎太夫、或いは伊藤八郎右衛門)に仕え、再び江戸に出て麻布の曹渓寺に身を寄せました。 寺の僧(梁州禅師)が檀家である麻布山内家(麻布様)の主膳公と懇意だったことから、その紹介で麻布家に奇遇することになりました。討ち入りから16年のちのことであります。
この頃山内家は7代豊常公が家督を継いだ翌年でしたが、室鳩巣という人物が斡旋して吉右衛門の籍を土佐の本家に移そうという動きがあったそうです。
ところが、山内家は米澤の上杉家と縁談が進行中であり、上杉家は吉良家と父子の間柄、この辺の遠慮があって召し抱えのことは成立せず、麻布山内家(のち高知新田藩)お抱えのまま、83歳で死亡したといわれます。
これらのことは『土佐史談』33号(昭和5年)に福島成行氏(山内家家史編輯者)も書いており、それによりますと、吉右衛門は麻布様のもと「刀矢のこと」を担当し、夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。
子孫も代々、高知新田藩に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、孫の吉右衛門信成は主君攝津守の側頭(側近)にまで出世しています。明治維新に至って土佐藩士の禄を離れ、今は信正さんの時代で茨城県に健在だと昭和9年12月20日の高知新聞を転載した『土佐史談』50号は伝えています。
寺坂吉右衛門の正統であることを物語るものとして同家には、討ち入りの際吉右衛門が使用した衣服の片袖、槍1筋、提燈の柄、家系図があるそうです。
最後に昭和9年6月12日の大阪朝日新聞の記事を紹介します。『土佐史談』48号が転載したもので、見出しは「寺坂吉右衛門の逃亡説は覆さる 貴重な文献現はる」。
姫路藩士・伊藤十郎太夫の子孫の家から義士の手紙など古文書133点が出て来たことを報ずる内容です。
また平成20年12月11日の高知新聞夕刊は兵庫県赤穂市の大石神社所蔵史料から寺坂家のその後を伝えています。
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維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
講師 テーマ
5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
6月27日 渡部淳 山内容堂(了)
7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎(了)
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
参加費 無料(参加人数は100名)
葉書かFAXで申し込みください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
〒 780-0850
℡ 088-854-5566(FAXと共通)
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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2010.12.01
(95)アンコール 志士のスポンサー(2-2)
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志士のスポンサー(下)
慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋の2階で暗殺されました。その部屋の床の間に掛けてあった掛軸、梅に椿を配した一幅は淡海槐堂(板倉筑前介)の描いたものでした。
この掛軸は近江屋井口家のものと思われていましたが、意外にもこの暗殺事件の直前、作者の槐堂が直接この部屋を訪れて龍馬に贈ったものだったと、立命館史学会員の西尾秋風氏が『土佐史談』170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)に書いています。
西尾氏は、槐堂の弟・江馬天江の孫で日本風俗史の大家であった江馬務が発掘して書き残した文章、
「槐堂と龍馬は常に親交していた様子で、龍馬の横死した夜も槐堂は、龍馬をその河原町の寓居(近江屋)に尋ね、深夜まで時事を談じたが、この夜槐堂は龍馬へ一幅の自画の梅軸を贈り、龍馬は喜んでこれを床の間に掛けて鑑賞した。」
を引用しています。江馬務が何をもとに断定したかには触れていません。
槐堂が辞して間もなく刺客が乱入したことになります。通説ではたまたま尋ねて来ていた同志の岡本健三郎が帰ったあと数名の刺客が踏み込んできたことになっていますが、槐堂のことは伝承されていませんし、本人もなぜか沈黙を守っています。
西尾氏はそこから「槐堂は真犯人を知っていたのではないか」と推理を発展させるのですが……。
※
槐堂が7卿落ちに巨額の資金援助をしたことは前回書きましたが、中岡慎太郎も慶応3年10月11日に300両を借りた次のような覚えが残っています。龍馬とともに近江屋で遭難したのが慶応3年11月15日ですから約1カ月前であります。返済したかどうか、石川清之助は変名です。
「一金三百両也 右之通借用仕候 當月中無相違返上可仕候 以上 卯十月十一日 土州 石川清之助(花押) 板倉筑前介殿」
北川村の中岡慎太郎館にはこの借用書の複製品が展示されていますが、300両は今の1000万円以上かとの解説が書かれています。
天誅組の吉村虎太郎とも親しく、文久3年(1863年)8月の大和義挙に際して500両と小銃30挺を贈っています。いずれも巨額で、その裕福ぶりがうかがわれます。
町奉行にこの援助について訊問を受けた際「盗賊がホクチを買うに決して放火に入用なりとは言うまい。小銃も遊猟のために貸したもので、戦争用に供したのではない」と言い張ったといいます。
義挙に失敗した虎太郎や那須信吾らの首は大和から京都に送られて埋められましたが、槐堂は牢番に賄賂をつかまして埋めた場所に案内させ、掘り出して霊山に改葬しました。改葬までの間は自宅に預かっていたということです。
『土佐史談』52号(昭和10年)松村巖「吉村寅太郎」▽67号(昭和14年)同「淡海槐堂」より。
※
槐堂は池田屋事件にもからんでいます。元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町のこの旅館に潜んでいた長州藩士や土佐藩士らを新選組が襲った事件です。土佐藩の北添佶摩(佶磨)や望月亀弥太、野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)、藤崎八郎が犠牲となりましたが、野老山と藤崎は池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。野老山は重傷を負って長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました。『土佐史談』188号(平成4年)に門脇鎌久氏が「芸西村の志士の碑」と題して書いています。
野老山家は女優・栗原小巻の先祖で、20年余り前になりますが墓参のため自分で車を運転して高知(芸西村)に来たことがあります。
※
江戸時代最後の仇討ちといわれた土佐藩士広井磐之助(いわのすけ)の復讐行にも板倉筑前介の名前が登場します。
父大六の仇・棚橋三郎の消息を求めて国を出た磐之助はまず板倉を頼ります。
板倉は私費で設けた「並修館」に入れて銃の射撃を習わせるとともに、仇を探るには虚無僧になるのがいいと、近くの明暗寺に世話するなどの援助をします。
坂本龍馬や軍艦奉行・勝海舟の協力もあって磐之助は文久3年6月2日、紀州領を出たところの泉州山中渓(だに、現阪南市)で、父の死から8年ぶりに念願を遂げることができました。
前掲松村巖「淡海槐堂」は、磐之助が本懐を遂げたことを報告する、板倉先生様宛6月朔夕付け632字の手紙を収載しています。 此の手紙によりますと、相手は土州生まれ、江戸松と申す者、実は楠太郎倅棚橋三郎と名乗ったので、彼へも刀を渡して勝負したところ、首尾よく報復を果たせたと述べています。 なお、この件について『土佐史談』には31号(昭和5年)寺石正路「廣井磐之助復讐談」▽210号(平成11年)依光貫之「広井磐之助の仇討ちの場所はどこか」などがあり、ことに依光氏は事件名について、それまで言われてきた「中山峠」でなく「中山渓の仇討ち」とするのが一番ふさわしいと提案しています。
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慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋の2階で暗殺されました。その部屋の床の間に掛けてあった掛軸、梅に椿を配した一幅は淡海槐堂(板倉筑前介)の描いたものでした。
この掛軸は近江屋井口家のものと思われていましたが、意外にもこの暗殺事件の直前、作者の槐堂が直接この部屋を訪れて龍馬に贈ったものだったと、立命館史学会員の西尾秋風氏が『土佐史談』170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)に書いています。
西尾氏は、槐堂の弟・江馬天江の孫で日本風俗史の大家であった江馬務が発掘して書き残した文章、
「槐堂と龍馬は常に親交していた様子で、龍馬の横死した夜も槐堂は、龍馬をその河原町の寓居(近江屋)に尋ね、深夜まで時事を談じたが、この夜槐堂は龍馬へ一幅の自画の梅軸を贈り、龍馬は喜んでこれを床の間に掛けて鑑賞した。」
を引用しています。江馬務が何をもとに断定したかには触れていません。
槐堂が辞して間もなく刺客が乱入したことになります。通説ではたまたま尋ねて来ていた同志の岡本健三郎が帰ったあと数名の刺客が踏み込んできたことになっていますが、槐堂のことは伝承されていませんし、本人もなぜか沈黙を守っています。
西尾氏はそこから「槐堂は真犯人を知っていたのではないか」と推理を発展させるのですが……。
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槐堂が7卿落ちに巨額の資金援助をしたことは前回書きましたが、中岡慎太郎も慶応3年10月11日に300両を借りた次のような覚えが残っています。龍馬とともに近江屋で遭難したのが慶応3年11月15日ですから約1カ月前であります。返済したかどうか、石川清之助は変名です。
「一金三百両也 右之通借用仕候 當月中無相違返上可仕候 以上 卯十月十一日 土州 石川清之助(花押) 板倉筑前介殿」
北川村の中岡慎太郎館にはこの借用書の複製品が展示されていますが、300両は今の1000万円以上かとの解説が書かれています。
天誅組の吉村虎太郎とも親しく、文久3年(1863年)8月の大和義挙に際して500両と小銃30挺を贈っています。いずれも巨額で、その裕福ぶりがうかがわれます。
町奉行にこの援助について訊問を受けた際「盗賊がホクチを買うに決して放火に入用なりとは言うまい。小銃も遊猟のために貸したもので、戦争用に供したのではない」と言い張ったといいます。
義挙に失敗した虎太郎や那須信吾らの首は大和から京都に送られて埋められましたが、槐堂は牢番に賄賂をつかまして埋めた場所に案内させ、掘り出して霊山に改葬しました。改葬までの間は自宅に預かっていたということです。
『土佐史談』52号(昭和10年)松村巖「吉村寅太郎」▽67号(昭和14年)同「淡海槐堂」より。
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槐堂は池田屋事件にもからんでいます。元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町のこの旅館に潜んでいた長州藩士や土佐藩士らを新選組が襲った事件です。土佐藩の北添佶摩(佶磨)や望月亀弥太、野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)、藤崎八郎が犠牲となりましたが、野老山と藤崎は池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。野老山は重傷を負って長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました。『土佐史談』188号(平成4年)に門脇鎌久氏が「芸西村の志士の碑」と題して書いています。
野老山家は女優・栗原小巻の先祖で、20年余り前になりますが墓参のため自分で車を運転して高知(芸西村)に来たことがあります。
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父大六の仇・棚橋三郎の消息を求めて国を出た磐之助はまず板倉を頼ります。
板倉は私費で設けた「並修館」に入れて銃の射撃を習わせるとともに、仇を探るには虚無僧になるのがいいと、近くの明暗寺に世話するなどの援助をします。
坂本龍馬や軍艦奉行・勝海舟の協力もあって磐之助は文久3年6月2日、紀州領を出たところの泉州山中渓(だに、現阪南市)で、父の死から8年ぶりに念願を遂げることができました。
前掲松村巖「淡海槐堂」は、磐之助が本懐を遂げたことを報告する、板倉先生様宛6月朔夕付け632字の手紙を収載しています。 此の手紙によりますと、相手は土州生まれ、江戸松と申す者、実は楠太郎倅棚橋三郎と名乗ったので、彼へも刀を渡して勝負したところ、首尾よく報復を果たせたと述べています。 なお、この件について『土佐史談』には31号(昭和5年)寺石正路「廣井磐之助復讐談」▽210号(平成11年)依光貫之「広井磐之助の仇討ちの場所はどこか」などがあり、ことに依光氏は事件名について、それまで言われてきた「中山峠」でなく「中山渓の仇討ち」とするのが一番ふさわしいと提案しています。
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7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土(了)
11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎(了)
12月10日 今井章博 後藤象二郎
1月29日 谷 是 岩崎弥太郎の生涯
2月25日 公文 豪 板垣退助
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時30分~3時30分
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