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   「植木」を橋の名で残そう

 高知市桜馬場にある植木枝盛旧邸の書斎部分だけが切り取られて桟橋通り4丁目の自由民権記念館の一室に移築復元されることになりました。その予算1600万円が9月定例市議会で認められましたので、市では近く記録保存のための調査に取り掛かり、建物を解体して8畳の書斎のみを記念館2階の常設展示室に移す計画です。完成は平成23年7月ごろの予定だということです。
 この家は枝盛が明治11年に移り住み、同14年8月には「東洋大日本国国憲案」という憲法草案を起草するなど、近代日本政治史に残る数々の著書や論文を執筆した書斎です。枝盛草案に書かれた主権在民、基本的人権、地方分権など民主主義の諸原則は、いまの憲法の中にしっかりと根をおろしています。(「書斎保存募金へのご協力のお願い」から)
    家CIMG0987
 この30年来、旧邸保存運動にかかわってきた土佐史談会理事の公文豪さんは「現地保存ができないのは残念だが、現状ではやむを得ない」と言っており(9月3日、高知新聞)、高知市議会でも高知新聞の議会報道を見る限り格別の質疑や意見表明はなかったようで、上の写真の家は来年中ごろまでにはなくなりましょう。
 何回かの増改築を加えて文化財としての価値がなくなったと理屈をつけても、戦災を免れ焼け残った由緒ある建物です。惜しいですねえ。
 取り壊したあと家主さんの計画はどうあれ、記念碑だけはしっかりとしたものを願いたいところです。
 ここで私にはひとつ提案があります。
 近くの緑地から城西公園に架かっている「桜馬場橋」と銘打たれた立派な歩道橋(下の写真)を改名して「植木橋」としてはどうかということです。植木の名を地名として残す試みの第1歩です。
   橋CIMG1000
 橋のたもとにある案内板「桜馬場の由来」には次のようにあります。(この橋の竣工は昭和59年9月)
 「高知城西大門から西に江ノ口川をへだてた対岸に河原があり、寛文元年(1661年)その一部を埋め立て2町33間の馬場とし桜を植えたので桜馬場と名付けられた。今回この地にちなみ橋名を桜馬場橋とした。なお藩政初期には桜馬場の西に浄土真宗の圓満寺があり、この地に橋がかけられた。橋名は後世、寺の名にちなんで圓満寺橋と称していた。その後、この橋は桜馬場南端に移され、現在の円満橋となっている。」
 橋の桜馬場側には屋根付きの休憩所もあり、ここに近くの枝盛解説板など移して一体化すれば、ゆっくりと民権家の業績を学ぶことができると思います。
 橋の名前については史家の松山秀美さんが書いたものがあります。土佐史壇4号(大正8年)「植木枝盛遭難手記」の前書きです。白洋と号したこの方は桜馬場に住み、旧小高坂村の村会議員を勤めたこともあります。文中の一部の人とは自分のことでしょうか、残念という思いの文章です。
 「小高坂村円満橋を架する当時、同村一部の人は同橋を植木橋と命名してはいかがかと有志の間に勧説した。けだし榎径植木枝盛氏が旧居桜馬場に接近して居るためである。不幸にして右提案は村会の容るる所とならなかったが…(以下略、常用漢字に直してあります)」
 「榎径」は筆名。東京にいた枝盛は明治9年、湖海新報11号にこのペンネームで「自由は鮮血を以て買はざる可からざる論」を投稿します。どこのだれか分からないまま編集者は禁獄1年半に処せられましたが、枝盛は刑を免れています。

 ちなみに現在「武道館」「城西公園」になっている対岸地域の歴史をたどりますと…。
文久2年(1862年)参政吉田東洋が16代藩主山内豊範の命でここに藩校として文武館を創設しました。3年後の慶応元年、致道館と改称します。植木枝盛も学んでいます。明治4年(1871年)矯正施設(初め徒場、のち高知刑務所と改称)が設置され、昭和51年(1976年)の布師田移転まで105年間、高い塀に囲まれた施設が続きました。江ノ口川は施設の中を流れていました。跡地が公園として整備され「城西公園」がオープンしたのは昭和61年です。

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     維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
          講師   テーマ
  5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
  6月27日 渡部淳  山内容堂(了)
  7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
  8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
  9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
 10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土
 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
 12月10日 今井章博 後藤象二郎
  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
  2月25日 公文 豪 板垣退助
 場所 高知県立文学館ホール
 時間 午後1時30分~3時30分
 参加費 無料(参加人数は100名)
  葉書かFAXで申し込みください。

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          土佐史談会
          高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
          〒 780-0850
          ℡ 088-854-5566(FAXと共通)
          Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
          振替口座 00910-3-75719
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   まんじゅう屋が武士になれた立志伝
 私の家の近くに「10円饅頭」と銘打った「ひとくちまんじゅう」を売るお店があります。茶色で味も結構いけますが、何より安いのがいい。もっとも1個売りはしていませんので10円では買えませんが…。こんな饅頭でしょうか、幕末、長次郎がもろぶたに入れて売り歩いていたのは…。もろぶたは深さが5㌢ほどあったそうですから、あるいはもっと大きかったかもしれません。
 近藤長次郎、別名上杉宗(宋)次郎、亀山社中に入り坂本龍馬の片腕として活躍した青年です。大河ドラマ「龍馬伝」では先々月自刃して果ててしまいました。
 一介の商人から身を起こして武士にとり立てられるまでには、どんな幸運と努力があったのでしょうか。
 龍馬が河田小龍抜きでは語られないように、近藤長次郎も小龍がいなければ生まれなかったかもしれません。
 長次郎は天保9年(1838年)3月7日、高知城下水通町2丁目の餅菓子作り大里屋(おおさとや)に生まれました。姓がありませんから饅頭屋長次郎で知られています。家貧しく昼は行商を手伝い、夜は近くの貸本屋から本を借りて読み、剣道にも励んだということです。
 18歳のとき安政大地震が起こりました。この時、叔父の門田兼五郎が、火事で蓮池町の自宅を焼かれた小龍に、近くの築屋敷の空き家を世話します。これが縁で小龍に学ぶ機会を得ました。日本外史や史記などを教えてもらったということです。絵には興味を示さなかったようです。神田村に居た岩崎弥太郎の塾に入ったのもこの頃です。詩を月暁という僧に習っています。文だけでなく槍術も修めました。驚くべき努力家です。
 ところがお父さんの伝次は、読書は商売には必要ないと喜びません。長次郎の嘆きを聞いた小龍が伝次を説得し、藩重役の由比猪内直春に頼んで下僕として雇ってもらいました。これが結果として士への第一歩だったと言えると思います。
 由比は山内容堂や吉田東洋の側近(新おこぜ組)で、養子として由比家に入る前は山田といって、山田去暦を祖とする名門一族です。
 万延元年(1860年)長次郎は由比に従って初めて江戸に上ります。(この年、由比の甥山田馬次郎が幕府遣米使節団の一員としてアメリカに渡っています。土佐藩として初めて海外に送り出した人物です)。
 江戸での長次郎は安積艮斎の門に入って経史を研鑽し、手塚玄海に洋書を学び、高島秋帆に砲術を修めます。学費は刀工・左行秀(豊永東虎)から出たといわれます。
 この間、勝海舟の塾に入門。学問が進むとともに長次郎の才能は評判を呼び、ぜひわが藩へとの誘いが海舟の許に寄せられるようになりました。このことが本藩にも聞こえ、土佐藩は文久3年(1863年)名字帯刀を許し2人扶持・金10両の藩士に取り立てました。武士になれたのです。
 その後、海舟の神戸海軍操練所を経て、龍馬ら同志とともに長崎・亀山社中を拠点に国事に奔走します。
 長次郎の商才が遺憾なく発揮されたのが、長州藩による汽船ユニオン号購入への貢献です。売る側の英人貿易商トーマス・グラバーとの交渉には長次郎が当たりました。
 船も兵器です。長州藩の兵器購入をめぐっては長次郎のほか高松太郎、長州の伊藤俊輔(博文)井上聞多(馨)、薩摩の小松帯刀の名前が登場します。取引は成立し、船価は長州が出し、船籍は薩摩藩とし船名も桜島丸とするが、平時はこの船を亀山社中が通商航海に使い、非常の際は武装して薩長のため戦闘に参加させるという秘密協定が長次郎と井上の間で結ばれたということです。
 この協定がのちに長州側で問題となり、龍馬が調整に乗り出した結果、船名は長州の主張通り、慶応元年の干支に因んで「乙丑丸」(いっちゅうまる)となります。長次郎には割り切れぬものがあったろうと思います。
 この過程で長次郎は長州藩主毛利敬親から直接感謝の言葉を賜り、謝礼金も出たようです。
 この秘密協定の独断専行と礼金が悲劇の入り口になったかどうか。
 長次郎は初めは攘夷で動いていましたが、次第にその非を悟り、洋行を志すようになったのでしょう。資金のメドもついたところでグラバーの船に乗ってイギリスへの渡航を図ります。そこで不運が襲います。悪天候のため出航が延びたのです。船を降りたところで独断での密航計画が同志にばれ、盟約違反として責任を取らされたのです。
 その盟約とは。「事、大小となく、常に衆と共に相議して之を行うべし。私利のために違う者あれば、自ら割腹に服すべし」。
 長次郎は慶応2年1月14日、長崎・小曽根家の離れで自ら命を断ちました。29歳でした。
 これが通説として世に伝えられている長次郎自殺の真相ですが、自殺理由、死亡の日、ともに異説があります。
 ◇自殺理由=土佐史談会の創始者・中城桃圃(直正)氏が長崎の某氏からの書信として土佐史壇4号に掲載した一文(部分)を参考のため転載します。
 「当時長崎に在りし志士(薩長土肥等)の間に英国より軍艦一艘購入の議あり。其の代価十五万円は長州藩より支出することとなり、外人との交渉には長次郎専ら其の衝に当れり。既にして交渉成り、英人約の如く右の軍艦を長崎に回航し来り授受を迫りしに、当時長藩内の事情約束当時の如くならず、百方努力するも金子を得るの途なし。然るに一方に於ては、英人の授受を迫ること益(ますます)急にして、志士ら如何ともする能はず、爰に於て長次郎一身に其の責を負い、本博多町小曾根氏の離座敷に於て割腹して、違約の罪を謝し以て英人の怒を解き、漸く解約するを得たりと云う」
 ◇死亡の日=土佐史談会関東支部の皆川真理子さんが土佐史談240号(平成21年)に慶応2年(1866年)1月23日説を発表しています。
 坂崎紫瀾の『汗血千里駒』や瑞山会編の『維新土佐勤王史』などでは14日、長次郎の遺骸を埋葬した長崎・晧臺寺の過去帳などは24日となっていますが、そのいずれでもありません。
 長次郎の葬儀を世話した薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記をもとに23日死亡を主張するのです。
 この日記によりますと長次郎は14日夜には野村、伊東春輔、菅野覚兵衛と共にグラバーを訪ねています。そして野村が沢村惣之丞、高松、菅野から長次郎切腹を聞いたのが23日午後8時前となっているということです。
 葬儀が24日に営まれたため、お寺の過去帳が24日になったのであろうと推理しています。
 それにしても介錯してくれる人のいない孤独な切腹、絶命までの長い苦しみ。侍とはこんなにまでして責任をとらねばならなかったのでしょうか。愛妻徳とまだ見ぬ愛児を残して…(一粒種百太郎が生まれたのは長次郎の死後だということです)。
 いろいろと謎の多い近藤長次郎の最期ですが、極めつけはこれです。
 高知新聞社が平成11年(1999年)に発行した『高知県人名事典新版』の「こんどう ちょうじろう」の項(326ページ)に「この切腹に謎が多く、密航を成功さすための社中の工作説もある」とあります。意味深長ですが、死んだことにしてどこか外国へ送り出したとでもいうのでしょうか。
File0056系図
 使わしていただいた主な記事=中城桃圃「贈正五位近藤長次郎氏に関する遺聞」(土佐史壇4号)
 松村巌「河田小龍」(土佐史談56号)
 下瀬隆治「長崎と近藤長次郎」(土佐史談155号)
 皆川真理子「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」(土佐史談240号)
 渋谷雅之「龍馬・長崎・船」(龍馬学十講座抄録=平成22年、土佐史談会発行)
 吉村淑甫著「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」復刊あとがき(平成22年、宮帯出版社)
 ◆近藤長次郎家系図は11月15日、千頭輝雄氏(長次郎の妹・亀の曾孫)と岩崎義郎氏を講師に「龍馬の生まれたまち記念館」で開かれた龍馬生誕祭イベント「水通町対談~長次郎と龍馬~」のレジュメから

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     維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
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  5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
  6月27日 渡部淳  山内容堂(了)
  7月31日 松岡 司 武市半平太(了)
  8月27日 宅間一之 吉田東洋(了)
  9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士(了)
 10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土
 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
 12月10日 今井章博 後藤象二郎
  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
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 場所 高知県立文学館ホール
 時間 午後1時30分~3時30分
 参加費 無料(参加人数は100名)
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