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           空襲がせめて翌日の夜だったら…
  非戦闘員を巻き込む無差別の爆撃、その狂気が高知市を襲ったのは65年前の昭和20年(1945年)7月4日夜のことでした。
 私は当時、時計台のある高知県立高知城東中学校の3年生で、高知市宝町の佐藤さん方に下宿していました。宝町へは焼夷弾の直撃はなく、幸い下宿も無事でした。近くの田んぼへは集束焼夷弾から分解された6角柱の子焼夷弾が点々と落ちましたが、周辺の稲が焼けただけでした。したがって、家内のように火の海をくぐり鏡川に飛び込んだりした体験はありません。
 宝町は郊外久万へ通ずる道路が通っており、避難する人々の列を眺めておりました。
 空襲体験を綴った書物はたくさん出版されていますが、埋もれて人目に触れることの少ないものもあると思います。
 追手前高等学校校友会が編集した創立80周年記念誌(昭和34年)に載った畑久治氏(写真)の「土佐の龍門」という文章など、戦争体験集でなく題名も空襲の臭いのないタイトルだけに、読んだことのある人はいまほとんど居ないのではないでしょうか。県立図書館にもこの記念誌はないようです。
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 畑氏は昭和18年(1943年)4月、善波功校長の後任として着任、同21年11月に公職追放で去るまで、敗戦を挟む3年8カ月間校長を務めた方です。(その後、同27年に追放解除となり石川県立小松高等学校長に復帰)。
 『高知追手前高校百年史』の空襲記述はごく簡単で、満足のいくものでありませんので、ここに当夜の時計台下の模様を畑校長の手記ほぼ原文のまま紹介させていただきます。
     ※          ※
 7月4日の夜、空襲警報発令でいつものように御真影を運動場東北隅の防空壕に藤原教頭先生(註1)と宿直の大塚先生(註2)とで奉遷したが、やがて警報解除になったので今夜も無事かとまた校長室へ奉遷しようとして本館へ戻りかかると、「爆音が聞こえます、退避退避」と叫ぶ声を聞いて急いで壕に駆け込むと同時にバリバリドカンドカンと響いて壕が揺らぐ。
 来たぞと壕の扉をあけて外を眺めると、記念館の時計台(註3)の文字盤がはや焔の間に見えかくれしているし、運動場は一面の火の海、本館東側の3階の教室の中が地獄の火煙のように渦巻いている。
 その時は唯なにくそという気持ちがむらむらと起こって飛び出した。先生方は「危ない危ない」と止められたが、火に酔うたわけか運動場を横切って本館に走り込んだ。
 スキー靴をはいているし鉄兜をかぶっており、一面火の海に見えたのは油脂焼夷弾が破裂散乱してそれが燃えているだけの話で大したことはない。
 翌朝朝礼台を見ると一間四方の板に5つくらい焼け跡がついていた。運動場6000坪にこの割合で散乱して燃えるから火の海に見えたのも当然である。本館に火が入ったかと錯覚したのは向こうの第三小学校(註4)が一度に炎上して、それがガラス窓越しに見えたためだ。
 中に入ると深閑としており、向こうのパチパチ燃える音だけだ。
 玄関に人が唸っておるので「どうしましたか」と聞くと「先生火傷した薬をくれ」と婆さんだ。小さい子を2人つれている。「いま持ってくるから気を確かに」と励まして校長室へ走り薬箱を捜すが見当たらぬ。
 かれこれして戻って見るともういなかったので、火が校舎に入らぬようにと気づいて運動場側の窓を閉め始めた。
 幸い風は北から吹いているので前の第三小学校の火の粉が入らないので助かった。
 1、2階を閉めて3階と、さらに屋上に出たら目口が開けられない吹き倒されそうな火の粉の烈風だ。
 時計台の陰に身を寄せて見渡すと全市は火の海、県庁舎の炎上する大きな火柱、その壮観はいくら金を積んでも見られない光景だ。
 そのときフト私の胸に浮かんだのは「これは日本を浄める業火だ」という思い(註5)で思わずただ「頑張れ頑張れ」と怒鳴った。
 そんな私の頭上をB29がフカのように白い腹を間近に見せて轟々と泳いで行く。
 急いで爆弾の落ちた3階の教室へ駆けつけるとシャーシャーと水の音がして火は消えかかっている。これは屋上一面に毛細管の網のように水が通うていて火災のときに自動的に消火するように設計されていて爆弾が天井を突き破ったので水が全部放出されて火を食い止めたことが後で分かった。さすが龍門(註6)の構造は違うと感心した。
 前日虫の知らせか手押しポンプをプールの東側にイザというときに間に合うように出しておいたので駆けつけると、体育館銃器室(註7)が燃えて火の流れが小使室から生徒昇降口へ吹き込んでいる。これを食い止めぬと本館が火になると思うがどうにもならぬ。
 先生方を呼んだが御真影の奉護で出てこない。
 うろうろしていると防空班の5年生吉井君(註8)が真っ先に駆けつけてくれた。吉井君は相撲部の選手、エイエイと押してくれるので筒先をチョロチョロ燃え出した入口の鴨居に放水するが、水は細く火勢は強いので焦っているうちに自動車ポンプが北の裏門から入って来てやっと食い止めてくれた。
 講堂へ廻ると中が盛んに燃えている。焼夷大爆弾が2発落ちて破烈したため如何ともしがたい。ポンプの水が燃えているピアノ線に当たるとジャンジャンと鳴る悲しい響きを思い出す。体育館には5日に疎開するため問題の大壁画(註9)をはじめ歯科の医療機械など山積してあったが皆灰になってしまった。
 やがてB29が去ったので公舎(註10)に戻ってみると焼けていない。家内と次女だけがおるので他の4人の子はどうしたかと聞くと、一緒に久万へ逃げようとしたが人の波にもまれて別れ、2人は先生方に呼ばれて学校の防空壕にいたという。夜が明けてから4人は久万から幸い怪我もせずに帰って来た。

 註1=藤原栄久

  2=大塚三綱

  3=時計台を備えた木造の旧校舎の一部を高知一中校友会館としてキャンパス東北隅に保存してあった。

  4=今の追手前小学校。

  5=この記事が昭和34年に書かれたものであるということに注意する必要があるかと思う。

  6=道元禅師の正法眼蔵随聞記に「海中に龍門という処ありて大波しきりに立つ。もろもろの魚どもかの処を過ぎぬれば必ず龍となる云々」という一節がある。城東中学校こそ過去に雄偉の人材を輩出した「土佐の龍門」であると畑校長の誇りであった。

  7=東門を入って北側に剣道場と柔道場があり、その間に挟まって38式歩兵銃や村田銃を格納した部屋があった。配属将校の教練の時間には1クラス全員に行き渡るよう配備されていたので50挺以上はあったと思う。軽機関銃もあった。
 銃を肩にした分列行進、着剣して銃を構える生徒、匍匐前進したり射撃姿勢をとる生徒たちの写真が『高知追手前高校百年史』に数枚記録されているが、 こんな訓練が幼い中学生に正課として課されていた。
 この教練に備えて銃器部の部員が部活動として油で銃を磨くなどの保守管理に当たっていた。作家宮尾登美子さんの夫になる宮尾雅夫さん(平成19年12月11日死去)とそのお兄さんがいて指導を受けた。雅夫さんはその後、高知新聞の記者となり、独特の鉛筆の持ち方で珠玉の文章を量産していた。普通は腕を机に接して鉛筆を握るのだが、彼は腕全体をデスクから浮かして毛筆を持つような手つきで文字を書いていた。鉛活字を1本ずつ拾って組版していた当時は、B5判の半分くらいの枠のない用紙に5字3列、つまり15字という大きな字を書く決まりでしたので、踊るような鉛筆づかいができたのです。

  8=卒業生名簿に吉井という姓の生徒は見つけることができない。

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  9=大正2年卒業生の画家橋田庫次が昭和14年講堂の改築記念にアトリエまで新築して描き上げた壁画(写真)。裸の男女群像を配した1500号の大作で、縦3.5㍍、横8㍍。舞台の真正面に飾られる予定だったが、御真影=天皇陛下の写真の安置場所に近かったのと裸体に対する異論が強く、ぐるぐる巻きにされたまま講堂2階の後ろに立て掛けられていたという。私(昭和18年入学)の記憶では図画の牧ケ野教信先生が「裸体画はお前らには刺激が強すぎるので幕で隠してある」と言っていたので、ある時期までは見えないようにして壁に貼ってあったかもしれない。
 この安置場所というのは、戦争中12月8日を開戦記念日、毎月8日は大詔奉戴日といって全校生徒を講堂に集め開戦の詔書を奉読し校長訓話が行われていたが、この時御真影を屋上の奉安殿からうやうやしく講堂に移し(奉遷)、正面壇上に据えていた。その場所のことで、壁画は御真影を見下ろす形になっていた。
 この壁画の最後について美術関係の著作の多い山本駿次朗さんは平成13年11月15日の高知新聞紙上に「講堂2階裏で焼尽した」と伝聞により書いているが、学校責任者の言う体育館が正確であろう。しかし焼けた場所が問題なのではなく、学校当局が貴重な財産として守ろうとしていた姿勢は評価できると思う。
 いずれにしても疎開される直前に壁画は焼けた訳で、空襲がもう1日遅かったら…と残念でならない。平成21年暮、作品の下絵が庫次の親族から寄贈され、追手前高校芸術ホール地下1階に飾られている。

 なおこの疎開については前掲『百年史』にも記述が見つからないので、長くなるが私の体験を書いておく。
 疎開先は長岡郡天坪村中ノ川(現南国市)の営林署山の家。いつから始まったか記録にないが、昭和20年6月30日の学校日誌に「校長、天坪方面視察に赴く」とあるのでその頃か。7月24日には校長から戦災者を中心とした第3次隊(進駐隊という言葉が使われている)を送り出すよう指示が出ている。至急輸送すべきものとして釜、ヤカン、茶碗、マッチ、ロウソク、天幕、大工道具、種子類などが挙げられている。種子類とあるのは現地で野菜作りをするためであろう。この頃までに生徒も2回にわたって移住していたわけで、家族ともども引率に当たっていた吉松清先生は愛児2人を疫痢で亡くされている。
 私は疎開移住には加わっていない。3年生は労働力として勤労動員の対象でした。当時小高坂小学校3年生だった家内は敗戦の8月15日、佐川町へ集団疎開するため高知駅に集まっていたとき、県庁に勤めていた父が「もう行くによばんぞ」と叫びながら走ってきた体験を話している。
 私は疎開には行かなかったが、敗戦後、疎開先からの資材引き揚げ作業に加わった。学校日誌に「9月16日(日)中ノ川行部隊 本日10時出発す」とある。2泊3日の往復、食事は飯盒炊爨でした。10人ほどでチームを作り、私の班は1年先輩の溝淵喜好さん(「紀元節校長」として名をはせた溝淵忠広さんの弟。「キンツ」というニックネームで呼ばれていた)に引率されて車力を引きながら国道を徒歩行進。前田祐吉くんや野瀬泰一(故人)、河野了(同)、川村英雄(養子に行って田井。平成22年12月6日死去)くんが一緒だったことを覚えている。根曳峠を過ぎて土佐山田町(現香美市)の繁藤小学校で1泊、翌朝穴内川に沿って遡った。穴内川ダムはまだ出来ていなかった。
 途中から営林署のトロッコを引っ張ったり押したりしながら森林軌道で中ノ川へ。トロッコにはブレーキがなく、杉の丸太を車輪に当てながら制動をかけた。
1泊して荷物を積んでの帰りに下り坂で制動に失敗し、1台を川の中へ落とす事故が起きた。学校蔵書のドウーフ・ハルマ蘭日辞書(全14冊)のうち3冊が欠けているそうだが、私はこの事故で失われたのではないかと思っている。しかしこの貴重な書物が疎開荷物として中ノ川に移されていたかどうかも含めて証拠はない。
 当時、軍が放棄した手榴弾は割合たやすく手に入った。(同級生の町田茂くんが指をとばす事故も起きている)。溝淵先輩が数発持ってきており、安全ピンを抜き、たたきつけ、イチニッサンで川に向かって投げ、爆発するのを見て快哉を叫んだことだった。アユが浮いてきました。

  10=校長一家はキャンパスの東北隅(現在のプールの所)にあった官舎に住んでいた。

 この空襲で消えたもう1つの文化財。史家の武市佐市郎氏がまとめられていた「土佐人名辞書」。出版の機会を得ないまま十数冊の原稿として県立図書館に保管されていた。収められていた人物は上古より明治時代に至る4千余名。偉人傑士はもとより一芸に秀でた市井の人物まで、ことごとく網羅せられていたという。高知新聞社が1999年(平成11年)に出版した『高知県人名事典』の3421名と比べて、その労作ぶりがしのばれる。武市氏は1939年(昭和14年)亡くなられているので戦火のことは知らない。


     維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開いています。
          講師   テーマ
  5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍(了)
  6月27日 渡部淳  山内容堂(了)
  7月31日 松岡 司 武市半平太
  8月27日 宅間一之 吉田東洋
  9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士
 10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土
 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
 12月10日 今井章博 後藤象二郎
  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
  2月25日 公文 豪 板垣退助
 場所 高知県立文学館ホール
 時間 午後1時30分~3時30分
 参加費 無料(参加人数は100名)
  葉書かFAXで申し込みください。

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  土佐史談会
  高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館3階
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          「鵬程万里」は龍馬の志
 孫娘がこの春から高知市立高知商業高等学校にお世話になっています。私の母校ではありませんが、私はこの学校の校歌の壮大さが非常に気に入っています。
 高校野球の甲子園大会にはここしばらく出ていませんので「鵬程万里」と題したこの校歌をテレビで聞くことも途絶えています。
 まず聞いてください。(「鵬程万里」←をクリック)。
 私は坂本龍馬の志を思い浮かべます。
   1、鵬程万里 果てもなき
     太平洋の 岸の辺に
     健依別の ますらおは
     海の愛児と 生まれたり
   2、天にそびゆる 喬木を
     レバノン山の 杜に伐り
     舟を造りて 乗り出でし
     フェニキア人の それのごと
   3、椰子の木 茂れる所より
     極光閃く あたり迄
     荒き波路を わけて行く
     イギリス人の それのごと
   4、海の愛児よ 我が友よ
     奮い起つべき 秋は来ぬ
     いざ ヘルメスの神まつれ
     いざ 健やかに出でゆかむ
 鵬程万里(ほうていばんり)=鵬の飛び渡ろうとする道のりは万里の彼方にあるという意味から、目標が雄大で前途がはるかに遠いことの比喩に使う。鵬(おおとり、ほう)は中国の想像上の大きな鳥、「荘子」逍遥編に見える。
 健依別(たけよりわけ)=土佐の古名。「古事記」の国産み神話に「土佐国は健依別と謂う」とあって、雄々しい国とされてきた。旧制高知高等学校の校歌にも「健依別の熱き血潮は流れて尽きず」と使われている。また戦争中、今の追手前高校の校舎を使って夜間中学校があった。その名は「健依中学校」、校歌にも健依別が歌われている。「黒潮吼ゆる南海の 健依別の若人が 研学の念火と燃えて…」
 その高知県、全国学力テストでは最下位クラス、ならば体力は…といえば、これも駄目、雄々しい国健依別が泣いている。
 フェニキア人=紀元前1200年ごろ現在のレバノン海岸部に住んだ民族で、レバノン杉で船を作り、優れた航海術を身に着けて地中海や大西洋を舞台に盛んに海上貿易を行い、各地に貿易都市国家を建設した。その中で一番有名なのがカルタゴ。彼らの使用した文字は今日のアルファベットの祖といわれる。
 ヘルメスの神=ギリシャ神話に出てくる商業の神。翼の生えた靴を履いて風よりも速く走り、手には使者の役を示す杖を持つ。古代の商業は行商である。旅から旅へ、彼らは商品とともに情報も運んだ。英語ではマーキュリーと呼ばれる。

 世界への雄飛を歌い上げたこの校歌の作詞は竹村正虎、作曲は平井惣太郎。
 竹村は同校の先生であったこと以外詳しいことは分からない。人名事典に載るべき人なので知っている人はぜひ教えてほしい。
 明治14年(1881年)3月、高知市中新町(現桜井町)生まれ。同38年9月助教諭、2年足らずで40年4月に休職。この校歌は休職中の41年2月、27歳のときに発表になっています。「お体が弱かったようで、この作詞のため相当無理がいかれたらしく、本当に命をかけての作であったと申さねばならぬ」と久保田朋一教諭が『高知商業高等学校60年誌』に書いています。
 竹村の書いた歌詞は上記4節のほかに5節、つまり合わせて9節の長いもので、その5節は世相に合わないところもあってお蔵入りしています。「砲火忽ちひらめけば敵艦砕けて影もなし」(日露戦争のことであろう)など。歌われている部分にも一部変更があります。(原文と楽譜は平成11年、高知商業高等学校創立100周年記念事業実行委員会発行の『鵬程万里 高知商業高校百周年記念誌』にあります)
 作曲者の平井は、歌曲「平城山(ならやま)」などで知られる作曲家平井康三郎(本名=保喜、2002年11月30日歿)の父親。校歌作曲のころは同校で国語を教えていたそうです。国語のほか検定で英語、数学、歴史、漢文と何科目もの資格を取っていたようで、この父親のことについては高知新聞社客員・故山田一郎氏の『南風対談』で康三郎氏が詳しく語っています。
 『高知県人名事典 新版』(高知新聞社、平成11年)によりますと、惣太郎氏は明治13年(1880年)8月10日、高岡郡高岡町(現土佐市)に丑太郎、楠子の長男として生まれ、東京府教育会教員伝習所を卒業、島根県と高知県で教員生活を送った、とあります。高知商業学校にブラスバンドをつくり、自分もオルガンやバイオリンを弾けたそうです。
 教員を退いてからは製紙原料商を営むかたわら司牡丹酒造の取締役や伊野町会議員などを務めています。
 昭和23年水産業協同組合法が発布されると、仁淀川漁業の乱獲を心配して発起人となり仁淀川漁業協同組合設立に尽力しました。同25年(1950年)10月21日歿。70歳でした。 
 「市商」の愛称で親しまれる高知市立高知商業高等学校の野球部、こんど甲子園に行くことがあったら、ぜひこの特異な校歌を4節まで全曲、全国に紹介してもらいたい、とテレビ局にお願いしておきます。

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          龍馬の姉・千鶴の夫・高松小埜

 高知県の東部・安田というところに幕末、高松小埜(しょうや)という人物がいて家塾を開いていました。
 塾の名は徴する資料を得ませんが、その門下からは中岡慎太郎、石田英吉(のち男爵)、高松太郎(海援隊)、安岡斧太郎(天誅組)らの人材が出ています。安芸郡勤王志士育ての親と言われる所以です。
 この小埜、地元高知でもあまり知られていません。『高知県人名事典 新版』(平成11年・高知新聞社刊)ではエピソードも含めて詳しく紹介されていますが、見出し語は高松小埜ではなく通称の「高松順蔵」。
 インターネットを検索しても名前は見えるものの、人物像に踏み込んだ文章はほとんど見当たりません。フリー百科事典ウィキペディアにさえありません。唯一(?)龍馬堂のホームページに略歴が紹介されているのみです。
 この人物、本人はどう思うか知りませんが坂本龍馬の姉・千鶴の夫と紹介されるのが一番多いようです。当然、自由民権運動で植木枝盛らとともに活躍した坂本直寛(南海男)の父です。
 文化4年(1807年)郷士高松益之丞の長男に生まれました。母は千代。
 通称は順蔵(淳蔵とも)のほか鶴吉、諱は清素、小埜は近くの小野山にちなんだ号です。 ここら当たりまではインターネットで調べることができますが、以下『土佐史談』をもとに、この人にまつわるエピソードを全国発信いたします。
 105号(昭和38年)と112号(同40年)に地元の中学校長を務めた郷土史家・安岡大六氏(筆名は大麓)が小埜のことを書いています。
 小埜は8歳で郷士職を継ぎ、やがて江戸へ出て学問を研究するとともに長谷川流の居合術を修行しました。居合は彼の得意とするところで、
 「小豆を口に含み、これを吹き出すと同時に抜刀して切り、2つになった小豆が下に落ちぬ間に刀はすでに鞘に納めていたと云う」 「 」内は原文そのまま引用さしてもらいました。次も同じ。
 「或夏、高知から帰る途中、赤岡を通っていると、涼台へ腰を下していた若者が、小埜が過ぎた後から犬をけしかけた。犬はしきりに小埜に吠えかかったが、彼は平然として歩いていた。しかし急に犬の声が止まったので、若者たちが行って見ると、あわれ犬は真二つになって倒れていたが、刀を抜く手は見せなかったと伝えられる」
 坂本龍馬との関係は冒頭に述べましたが、千鶴は龍馬より18歳上の長姉で、父八平が亡くなったばかりの頃、龍馬へ出した手紙が残っています。龍馬の健康を気遣って、栄養をとり灸をすえなさいとすすめたあと「自分に気を付けんと、今は気をつける人ないぞよ」と姉らしく言い聞かせています。お守りを送ったとも書いています。(宮地佐一郎『坂本龍馬全集』558ページ)
 高松家の住まいは、西に小野山、北は竹やぶ、東北は八幡宮の森があり、南には祖父が3人の子供が生まれた時に植えたという3本の老松が聳え、その間から街の人家の屋根越しに太平洋が眺められたといいます。
 龍馬もたびたび姉夫婦の家にやってきて、わが家のようになにも挨拶せずに座敷へ上がり込み、そのまま寝転んだり、起き上がったりして、椽に立っては海を眺めていたという話が伝えられています。
 小埜は「武」ばかりでなく「文」の面でもたしなみがあり、絵は篆刻で有名な壬生水石に学び、和歌の道にもいそしんで歌集『採推歌』4卷(2000余首)を残しています。 千鶴は文久元年(1861年)12月25日、45歳で夫に先立ちましたが、翌春、庭の桜の花を霊前に手向けた小埜の歌があります。
 『もろともにながめし花も此の春は仏の前にささげつるかな』
 彼の名はやがて藩主山内容堂の知るところとなり、再三使者を立てて召し出そうとしましたが、固辞して出ませんでした。
 その後、郷士職を弟の勇蔵に譲り、小野山の麓で悠々自適の生活を送りましたが、彼の高風と学問を慕って集まってくる若者を集めては和漢の学や敷島の道を説き、幾多の人材を養成して明治9年(1876年)8月2日亡くなりました。70年の生涯でした。


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 わが家と坂本家とはなんの関係もありませんが、わが田に水を引くように根ほり葉ほりたずねますと上の相関図のようになります。このうち弘松宣枝は「高知県人名事典 新版」には載っていませんが、『岩崎弥太郎』や『阪本龍馬』などの伝記を残しています。高知新聞連載の「決心の人 岩崎弥太郎余話」にしばしば引用されています。
 宣枝の人となりについては資料不足ですが、自由民権運動のリーダーだったらしく、明治16年、安芸郡田野村に80人余りの同志を集めて「廉立社」を設立、毎日曜日には討論会や演説会を開いていたそうです(土佐自由民権運動日録)


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