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 サッカーのワールドカップ南アフリカ大会に出場する日本選手団の出陣式に巨大な坂本龍馬像が登場したというニュース(23日高知新聞)を読んで、龍馬ブームの横への広がりに実のところびっくりしているところです。今回はその龍馬銅像の話です。
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          82歳迎えた龍馬像のナゾ
 この5月27日は高知市桂浜の坂本龍馬銅像誕生日。82年前の昭和3(1928)年のこの日、除幕されました。身長5.3㍍、台座を含めて13.4㍍の巨体です。高知県青年の募金活動によって彫刻家本山白雲が製作に当たりました。
 いまでこそ「りょうま」「りょうま」「りょうまさま」ですが、当時はみんながみんなまで知っている人物ではなかったようです。
 そんな人物の銅像を建てようという途方も無い計画の言いだしっぺは早稲田大学法学部2年生だった入交好保。
                     入交File0040
  入交好保氏(高知新聞社『高知県人名事典 新版』から拝借)
 京都大学にいた海南中学同窓生の土居潔光、朝田盛、信清浩男の3人を引っ張り込んで「銅像建設期成会」として募金行脚に乗り出します。学生は勉強だけしてりゃいいという父母を説得するのに一番困ったそうです。ご本人は追試験を受ける必要もなく卒業できたそうですから、勉学もおろそかにしなかったのでしょう。
 当時、資金集めには県の保安課(警察部)の許可が必要でした。そこで銅像建設許可願いを出したところ突き返された。その理由は「資産なく信用なし。依って許可せず」。学生の分際で…というところでしょう。
 後日(昭和2年1月3日)正式に「坂本龍馬先生銅像建設会」として会長に土佐の交通王といわれた野村組の野村茂久馬社長を据え建設許可をもらいました。
 会長の交通王は募金行脚の県内バス賃をタダにしてくれたということです。
 この銅像、見たとおりの巨体です。東京田端の鋳造工場から高知へ運ぶのも大変です。大きな木箱に入れた銅像を貨車に積んで計ったところ東海道本線のトンネルに少しつかえる、さあ困った、箱の角を切断してようやく神戸まで運ぶことができました。あとは浦戸丸で高知港潮江桟橋へ、2双横つなぎの大型はしけに移され、奉仕申し出のあった松井組の手によって除幕式3日前の5月24日、台座の上に据え付けが完了しました。
 以上、土佐史談170号に入交好保さんが書いた「桂浜の竜馬先生の銅像について」から要約しました。
 入交さんはこの一文の中で銅像建設を思い立った動機としていささか自虐的に「大学という所は夏休みが長いので退屈する。暇つぶしに何かやりたい。暇つぶしなら学生らしい有意義なことをやろう。龍馬は維新史上もっと評価されるべきだが歴史の読本には出てこない。けしからん」と書いています。
 募金の使い込みを防いだ方法、秩父宮御下賜金をめぐるエピソードなど秘話がいっぱいです。ぜひ読んでください。170号の70ページから75ページまで、土佐史談会に電話すればプリントしてくれるはずです。有料です。
 ところでこの龍馬像、過去3度、亀裂などの修理を受けていますが、創立当時のまま戦争を生き抜き、現在に至っています。
 戦争中大半の銅像が武器生産に必要な金属資源として徴用され熔かされました。全国に944基あった銅像のうち残ったのは61基だけだということです。高知県でも昭和18(1943)年7月に高知市桟橋通りにあった高知商業学校初代校長横山又吉銅像、9月2日に高知公園の板垣退助像、同14日には県公会堂前にあった片岡健吉像、11月3日に宿毛市片島の林有造像、翌19年1月29日に藤並神社境内の山内一豊像、窪川町(現四万十町)の谷干城銅像、高知公園二之丸跡にあった山内容堂の衣冠束帯像、高岡郡津野町の片岡直輝・直温兄弟座像などと相次いで持っていかれました。
 こんななかで桂浜の龍馬像と室戸の中岡慎太郎像は撤去されませんでした。なぜ回収を免れたのでしょう。
 海援隊をつくった龍馬、陸援隊の慎太郎、それぞれ海軍と陸軍の創始者として軍部が撤去に反対したため生き残ったといわれている、と「龍馬の生まれたまち記念館」のパネルにありますが、どうでしょう。京都市の龍馬・慎太郎像は回収されていますから説得力として十分でしょうか。
 そもそもこの銅像回収、国家総動員法(昭和13年制定)に基づく「金属類回収令」によって実施されました。勅令第835号、昭和16(1941)年8月30日公布、同9月1日施行の政令です。
 回収令は18条と付則からなり、鉄、銅を材料とする物資を持つ者は商工大臣の指定する回収機関に当該物件の譲渡の申し込みを為すべしと規定してあります。
 お寺の鐘に始まって一般家庭のキセルやネクタイピンなどまで対象となりました。「家庭鉱脈」という新語が生まれています。
 私の家でも床の間に飾ってあった日露戦争時代の大砲の弾で作った置物を愛国婦人会か国防婦人会を通じて供出した記憶があります。
 鉄道のレールも徴発されています。四国では民営鉄道4区間が不要不急線としてレールをはがれました。
 松山市の伊予鉄道では高浜線松山市~高浜間9.4キロが複線から単線となり、さらに市内城南線一番町~道後間2.1キロも対象になりましたが、工事に取り掛からないうちに敗戦となり撤去を免れています。(『伊予鉄道百年史』)
 龍馬像、慎太郎像を考える参考になるかも知れません。 
 蛇足ながら銅像お披露目の式典の呼び名は除幕式や落成式のほか開披式というのもあるようです。
 龍馬銅像除幕式における田中光顕の祝辞を資料として掲げておきます。土佐史談23号から(107ページ)。
    祝辞
 左すれぱ室戸、右すれぱ蹉だ、澎湃たる九十九洋の狂瀾怒濤を脚下に踏み破らんとする浦戸湾頭形勝の地をトして、坂本先生の銅像新に建設され、郷國の関門永へに其の奕々たる英姿によりて飾られんとす、顧みれば六十有年の春秋夢の如く、幕末の風雲動揺して天下將に事あらんとするや、先生實に嶄然として土佐勤王党の間に重きをなし、乃ち内にありては同志を指導し激励し相率ひて王事に竭(つく)さしめ、外にありては書剣東西に馳駆し、中岡慎太郎と共に、多年反目せる薩長両雄藩の間に遊説して、遂に之れを連衡せしめ、茲に討幕維新の一大原動力成り、将に目睫の間に王政復古の曙光を仰がんとする時に際し、恨むらくは秋風蕭殺の夕、河原町の凶変演ぜられ、一輪の梅花伏見に散らずして、却つて京洛の地に無残なる狼籍の跡を留めんとは、惆悵追憶の情今なほ切なるものあり、然れども英雄身は死して名は死せず、曩きには我が曠古の國難に際し、先生の魂魄は國母陛下南柯の枕に現はさせられて、布衣の名長く天闍の間に傳へられ、今また郷党幾十萬の子弟は、先生の名を慕ひ挙國その資を集めて、先生の英姿を萬古に傳へんとす、先生死して余榮ありと謂ふべきなり、不肖光顯夙に先生の知遇に浴し、幕末の際、京摂に鎭西に其の驥尾に付して聊か國事に奔走し、幸に余生を完ふして今日ある所以のものは、先生の指導に負ふ所洵に少しとせず、今に於て當年従遊の跡を回顧し、殊に親しく鮮血淋漓たる先生の枕頭に侍して、死生の別を叙したる往事を懐へぱ、感慨極りなきものありと雖も、今目のあたり曾て海國の覇王を以つて任じたる先生の銅像が、萬里の煙波浩蕩たる太平洋を睥睨する桂濱の一角に建てられ、如かも海軍記念日に相當する此月此日、縣民歓呼の裡に、其の盛大なる除幕式の挙げらるゝを目撃して、門下の一人たりし光顕欣喜の情は、果して何を以てか之れを譬へん、感涙の滂沱たるを覚ゆるのみ。
 聊か一言を叙して祝辞とす。
    昭和三年五月二十七日
            正二位勲一等伯爵 田中光顯
 奕々(えきえき)=美しく盛んなさま。光り輝くさま。大きいさま。
 嶄然(ざんぜん)=一段高くぬきん出ているさま。
 蕭殺(しょうさつ)=秋風が草木を枯れしぼませる、ものさびしいさま。
 惆悵(ちゅうちょう)=なげきうらむこと。なげき悲しむこと。
 南柯(なんか)=南に差し出た枝。
 布衣(ふい)=官位のない人。
 天闍(てんじゃ)=宮中という意か。天は天子の天だろう。闍は「国城の外ぐるわの門上に築いた物見台」「国城の外ぐるわ内の町」と諸橋轍次「大漢和辞典」にある。
 
 田中光顕(たなか・みつあき)は天保14年(1843年)閏9月25日、佐川村(高知県佐川町)生まれ。弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、さらに昭和も14年(1939年)まで生きて3月18日歿、97歳の長寿でした。龍馬・慎太郎が殺された近江屋の現場に駆けつけた一人です。

                         山内容堂銅像
 (写真)高知城二ノ丸跡に昭和19年(1944年)1月まであった山内容堂公の銅像です(土佐史談18号=昭和2年=から)。本来この記事には高知市桂浜の坂本龍馬銅像を併用すべきでしょうが、皆さんすでにご承知でしょうから、本文に少し触れてある容堂像にしました。龍馬像と同じ本山白雲の作です。像は供出されたままで台座ともいまは跡形もありませんし、二ノ丸の説明板にも書かれていません。県立文学館で開かれている展示「山内容堂」(土佐山内家宝物資料館開館15周年記念)をのぞいてみても銅像のことなどどこにもありません。この記事を読んでくれている方の中でこの写真に懐かしさを覚える方がどれくらいいるでしょうか。ほとんどの方が二ノ丸にこんな像のあったことすら知らないのではないでしょうか。
 容堂公の像は戦後、場所も姿も変えて再建されました。山内神社境内にある「脇息にもたれギヤマンの杯で祝杯をあげている座像」かそれで、平成14年4月10日除幕されました。


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     維新の群像10講座
土佐史談会は平成22年度郷土史講座として「維新の群像10講座」を開きます。
          講師   テーマ
  5月29日 永国淳哉 ジョン万と小龍
  6月27日 山内資料館 山内容堂
  7月31日 松岡 司 武市半平太
  8月27日 宅間一之 吉田東洋
  9月19日 西山 均 清岡道之助と二十三士
 10月30日 熊田光男 吉村虎太郎の自然と風土
 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
 12月10日 今井章博 後藤象二郎
  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
  2月25日 公文 豪 板垣退助
 場所 高知県立文学館ホール
 時間 午後1時30分~3時30分
 参加費 無料(参加人数は100名)
  葉書かFAXで申し込みください。

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          土佐史談会
          高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内 3階
          〒 780-0850
          ℡ 088-854-5566(FAXと共通)
          Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
          振替口座 00910-3-75719
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          志士のスポンサー淡海槐堂(下)

 慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋の2階で暗殺されました。その部屋の床の間に掛けてあった掛軸、梅に椿を配した一幅は淡海槐堂(板倉筑前介)の描いたものでした。
 この掛軸は近江屋井口家のものと思われていましたが、意外にもこの暗殺事件の直前、作者の槐堂が直接この部屋を訪れて龍馬に贈ったものだったと、立命館史学会員の西尾秋風氏が『土佐史談』170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)に書いています。
 西尾氏は、槐堂の弟・江馬天江の孫で日本風俗史の大家であった江馬務が発掘して書き残した文章、
 「槐堂と龍馬は常に親交していた様子で、龍馬の横死した夜も槐堂は、龍馬をその河原町の寓居(近江屋)に尋ね、深夜まで時事を談じたが、この夜槐堂は龍馬へ一幅の自画の梅軸を贈り、龍馬は喜んでこれを床の間に掛けて鑑賞した。」
 を引用しています。江馬務が何をもとに断定したかには触れていません。
 槐堂が辞して間もなく刺客が乱入したことになります。通説ではたまたま尋ねて来ていた同志の岡本健三郎が帰ったあと数名の刺客が踏み込んできたことになっていますが、槐堂のことは伝承されていませんし、本人もなぜか沈黙を守っています。
 西尾氏はそこから「槐堂は真犯人を知っていたのではないか」と推理を発展させるのですが……。
          ※
 槐堂が7卿落ちに巨額の資金援助をしたことは前回書きましたが、中岡慎太郎も慶応3年10月11日に300両を借りた覚えが残っています。(好古斎ホームページ)
 天誅組の吉村虎太郎とも親しく、文久3年(1863年)8月の大和義挙に際して500両と小銃30挺を贈っています。
 町奉行にこの援助について訊問を受けた際「盗賊がホクチを買うに決して放火に入用なりとは言うまい。小銃も遊猟のために貸したもので、戦争用に供したのではない」と言い張ったといいます。
 義挙に失敗した虎太郎や那須信吾らの首は大和から京都に送られて埋められましたが、槐堂は牢番に賄賂をつかまして埋めた場所に案内させ、掘り出して霊山に改葬しました。改葬までの間は自宅に預かっていたということです。
 『土佐史談』52号(昭和10年)松村巖「吉村寅太郎」▽67号(昭和14年)同「淡海槐堂」より。
          ※
 槐堂は池田屋事件にもからんでいます。元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町のこの旅館に潜んでいた長州藩士らを新選組が襲った事件です。土佐藩の野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)と藤崎八郎はこの事件の犠牲者とされていますが、池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。重傷を受けて長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました。『土佐史談』188号(平成4年)に門脇鎌久氏が「芸西村の志士の碑」と題して書いています。
 野老山家は女優・栗原小巻の先祖で、20年余り前になりますが墓参のため自分で車を運転して高知(芸西村)に来たことがあります。
          ※
 江戸時代最後の仇討ちといわれた土佐藩士広井磐之助(いわのすけ)の復讐行にも板倉筑前介の名前が登場します。
 父大六の仇・棚橋三郎の消息を求めて国を出た磐之助はまず板倉を頼ります。
 板倉は私費で設けた「並修館」に入れて銃の射撃を習わせるとともに、仇を探るには虚無僧になるのがいいと、近くの明暗寺に世話するなどの援助をします。
 坂本龍馬や軍艦奉行・勝海舟の協力もあって磐之助は文久3年6月2日、紀州領を出たところの泉州山中渓(だに、現阪南市)で、父の死から8年ぶりに念願を遂げることができました。
 前掲松村巖「淡海槐堂」は、磐之助が本懐を遂げたことを報告する、板倉先生様宛6月朔夕付け632字の手紙を収載しています。 此の手紙によりますと、相手は土州生まれ、江戸松と申す者、実は楠太郎倅棚橋三郎と名乗ったので、彼へも刀を渡して勝負したところ、首尾よく報復を果たせたと述べています。 なお、この件について『土佐史談』には31号(昭和5年)寺石正路「廣井磐之助復讐談」▽210号(平成11年)依光貫之「広井磐之助の仇討ちの場所はどこか」などがあり、ことに依光氏は事件名について、それまで言われてきた「中山峠」でなく「中山渓の仇討ち」とするのが一番ふさわしいと提案しています。

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 11月26日 岩崎義郎 中岡慎太郎
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  1月29日 谷  是 岩崎弥太郎の生涯
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志士のスポンサー淡海槐堂(上)
 
 幕末、国事に奔走する志士たち。国を憂いて東奔西走するには資金がいる。先立つものは「カネ」である。
 脱藩…藩の庇護を離れるわけであるから自己資金は不可欠である。衣類は着たきり、夜は野宿するとしても、食だけはどうにもならない。
 こんな貧乏志士たちから公卿までの活動を支えたスポンサーの一人に淡海槐堂という人があった。
 「おうみ・かいどう」と読みます。いろんな名前を持つ人で、本名は緝(つぐむ)。号が槐堂です。別称として敬天、敬夫、頑山、醒蘇、公朔、重徐、重□(さんずいに余と書いて、じゅうとでしょうか、しげみちでしょうか)。雅号に紅蕉書屋、千秋草堂というのもあります。誤植らしきものも含めて目についたものを記しました。中岡慎太郎(変名・石川清之助)の手紙に「快堂先生」と見えますが、これは昔の人流の当て字でしょう。龍馬を良馬と書いた人がいたように…。
 文政5年(1822年)12月朔日、近江の国、今の滋賀県長浜市の医師とも儒者ともいわれる下坂篁斎(下阪甲内と書いた本もあり、検索泣かせです)の第5子として生まれ、3歳で京都の豪商、薬種商を営む武田家の養子に入ります。
 安政2年(1855年)公家の一つ醍醐家に仕えて板倉姓をもらい筑前介に任ぜられ、板倉筑前介を名乗ります。
 慶応4年(1868年)3月、醍醐家を退いたのを機に姓を生国近江にちなんで淡海と改めて淡海筑前介になり、明治3年からは位記を返上して号を槐堂とし、このときから淡海槐堂を名乗っています。
 武田家は武田信玄の子孫で、武田家滅亡後、京都に逃れて奇応丸などの薬を売って巨万の富を築き上げた商人です。「おひや薬」の名で有名だったそうですが、『防長回天史』には「伏見街道桶屋薬トイヘル薬種屋」、子母沢寛の『新撰組始末記』には「五條橋東小児薬おけや薬といふを売れり」とあるそうで、どの名前が正しいのか、また屋号なのか薬品名なのか私には分かりません。
 その富、例えば、文久3年のクーデターで敗れた尊王攘夷派の三条実美ら公卿7人が長州へ逃れた、いわゆる7卿落ちに当たり、5回にわたって計2150両を融通していることで富豪ぶりがうかがわれます。
 この人、文久3年に京都大仏日吉山に「並修館」という文武館を自費で建てて志士と交わります。
 自らは「文」を担当し、「武」は井汲唯一という剣客が当たりました。
 坂本龍馬をはじめ武市半平太、中岡慎太郎、吉村虎太郎ら多くの志士が出入りしました。 「文」を担当しただけあって絵も善くし、龍馬と慎太郎が殺された部屋にあった梅に椿の花を配した血染めの掛軸はこの人の描いたものです。
 今回はこれまでとし、次回は土佐の人士とのかかわりを中心に続けます。
 参考記事=『土佐史談』6号(大正10年)宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」▽67号(昭和14年)松村巖「淡海槐堂」▽170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)西尾秋風「淡海槐堂と土佐稲荷の謎-坂本竜馬暗殺秘帖」
 このほかインターネット「好古斎」ホームページ▽大阪龍馬会メールマガジン▽龍馬堂ホームページなどを参考にしました。

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