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 城東中学校1年の時の写真。服は国防色、戦闘帽、胸に名札を縫い付けてあります。中央が私(右)と長江正くん。右端は学友の弟の足達秀夫くん(小学生)。2年後の高知大空襲で焼夷弾の炎を浴びて焼き殺されました。高知市中島町にあった家が全焼しましたので私が持っていたこれが唯一の生前写真となりました。長江くんはその当時、予科練に入隊、松山に居ました。乗る飛行機はなかったそうです。妹さんをこの空襲で亡くしています。左端は森沢泰雄くん。その後の消息を得ていません。この写真はたしか高知市大橋通りの電車通りにあった写真館で撮ったものです。秀夫くんは4人にするため引っ張り込まれたものでしょう。3人で写真を写せば真ん中の人に不幸が訪れるという迷信がありましたから。

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この写真は昭和18年3月卒業生の服装です。(『高知追手前高校百年史』から)
同じ年の1年生と5年生でご覧のように違います。



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 新一年生の服装だが、服は国防色の折り襟。胸に名札。編み上げの革靴にゲートル、巻き脚絆(きゃはん)といったが、うまく巻けず、ずり落ちてきて苦労した。靴にしても自由に買える時代ではない。はき詰めでは傷みも激しい。修理屋さんが週に何回か校舎の出入り口に来ていた。底皮を替えたり磨耗防止の金具を打ってもらったり、大事にしたものである。背嚢を背負わされた。物資不足の折から革製は新調しようにもできず、卒業生から調達したものを抽籤で分けてもらった。私は当たらなかったので、これも国防色の布製を買わされた。帽子は丸い学生帽ではなく、同じく国防色の戦闘帽。六稜の校章に一中伝統の白線が一本入ったのを指定店の曽我帽子店で買った。同級生にこのお店の二男がいた。
 ピカピカの新一年生を待ち構えていたのが恒例の「行軍」。新旧生徒親睦と新入生祝賀と銘打って長浜町までの往復。四月十五日午前九時出発、午後五時帰校。落伍者があったとは聞いていない。
 当時の学校は「行軍」と称する徒歩鍛錬が好きで、よくやられた。いつだったか、高知市の北山沿いに後免町まで歩いたことがあった。背嚢に何貫かのものを入れて来いと言われたので『大言海』という分厚い辞書を背負って行った。復路、荷物はもういいと言われたが、本を捨てる訳にもいかず、石を入れて行った同僚に差をつけられた覚えがある。ちなみにこの『大言海』、高知新聞・藤戸謙吾社長のお祖父さん・謙治医師が入学祝いとして贈ってくれたものでした。
 いやな事もあった。
 その一。町ですれ違う時、先生はもちろん上級生に対しても敬礼しなければならなかった。右手を耳の横まで上げるあれである。でなければ殴られる。とにかく一年生にとっては相手が多すぎる。抜かる事だってあるのだ。ビンタをくらっても、ただ、その時そこを通りかかったという自分の運の悪さを嘆くほかなかった。藩政時代は昭和になっても生きていたのである。
 そして恐怖の土曜日。放課後、最上級生から屋上集合の号令がかかる。いまでいう「いじめ」が始まるのである。「鍛える」といった。訓育部があった。配属将校もいた。学校公認であったようだ。ズボンを捲り上げ長時間の正座。ざらざらした屋上の床が肌に食い込む、拷問である。よく我慢したものだ。どんな理由があってこんな仕打ちを受けねばならなかったのか、いまもって分からない。
 戦時色濃厚であった。敗色ようやく濃く、日本軍はガダルカナルを撤退し、連合艦隊の山本五十六司令長官が撃墜された年である。六月二十五日には軍事教練と勤労動員を課す学徒動員要綱が閣議決定された。十四、五歳の少年も勤労奉仕に駆り出されることになった。本格化するのは二年生になった十九年からだが、勉強そちのけで県下各地へ行かされた。当時の学校日誌には作業状況視察のため飛び回る校長の記事が毎日のように記録されている。越知町へ行っていた同級生の前田幸造君が、頭へ怪我したが経過は順調であるとの記事も見える。
 そんな中の一つ。神田川の改修工事。いま周辺は住宅街になってどこらあたりであったか見当もつかないが、五丁目の新月橋を南へ渡って工事現場へ通った。西の方に片倉製糸の工場があった。堤防に使う石を山から運ぶ作業だった。採石場の対岸に火葬場の高い煙突が見えていた。六月九日、校長による視察を受けて二十日間にわたる奉仕に一応の区切りをつけ、体を休めたことだった。
 もう一つは弥右衛門の土地改良事業。湿田を乾田にする工事で、私たちの作業は「人間ばん馬」として独特の器具を引っ張る力仕事だった。その器具というのは鋭い金属板の先に砲弾様の金属塊が付いたもので、地下数十センチのところに横穴を通して水分を抜いた。
 ここも今は川添や御座といった市街地になっているが、高知市の町づくりの底辺には幼い中学生の汗がにじんでいるのである。
 高知龍馬空港、三島山を崩したのは私たちである。
 いやなことばかりではなかったはずだが、楽しい思い出の書けなかったのは残念。しかし当時ともに助け合って歩んだ友は私の宝。今も月に一度の会合を持って盃を酌み交わしている。酒は全くいけないが必ず顔を見せる神主さんあり、禁煙数十回でまだ終点にたどり着けないがんばり屋さん、遊びこうじて遂に雀荘を開業した豪の者もいる。傘寿近辺、十数名の集まりだが、会費もだいぶ溜った、最後に独り占めできるのは誰か、こんな話のできるのも、戦時下の時計台下に育った友情の賜物である。
  (高知追手前高等学校校友会誌『時計台』第30号から)

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 この先生方の教えを受けて私たちは昭和23年(1948年)3月、高知県立高知城東中学校最後の卒業生となった。
 久万忠郎、中村伝喜、入江雅幸、橋野勝、西山満州、竹村一水、松木健一、杉村督郎、三宮慎助、福川萬次、山本登、上島一司、吉松清の各先生の顔は分かりますが、そのほかは思い出せません。ごめんなさい。


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 写真は高知県安芸郡芸西村の琴ケ浜にある坂本龍馬の妻お龍と妹君枝の姉妹像。二人の見詰める視線の先は高知市桂浜の龍馬像(『芸西村半世紀の歩み』=平成17年、芸西村発行=から)
 君枝(東京の墓碑起美)は同村和食(わじき)出身の海援隊士・菅野覚兵衛(1842~93年、初名千屋寅之助)の妻。お龍は明治元年(1868年)初夏、妹の嫁ぎ先である和食村(現芸西村)を訪れており、姉妹で仲良く琴ケ浜を散策したこともあったようです。

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 土佐史談243号が発行されましたので、紹介します。目次は次の通りです。

◇尊良親王配流地について-第二仮御所「王野山御殿跡」を中心に-…橋田栄澄(16ページ)
◇最後の国人山田氏とその嫡子について…朝倉慶景(8ページ)
◇近世和文体史と土佐の和文(下)…竹本義明(9ページ)
◇山崎年信伝備考-坂本龍馬伝「汗血千里の駒」(坂崎紫瀾著)の絵師…中村茂生(16ページ)
◇大正デモクラシーから満州事変までの高知(下)-満州事変へ…内川清輔(19ページ)
◇戦前・戦中における一漁村の青年団活動…岡林正十郎(10ページ)
◇史料紹介 千葉佐那と泥棒、お龍の死…公文豪(5ページ)

 このうち公文豪氏の「お龍の死」は、お龍の最後を伝える3つの土陽新聞記事を紹介しています。
 高知を離れて神奈川県横須賀に移り、西村松兵衛と結婚したお龍の末路はまことに哀れなもので、「轗軻落魄殆ど其極に達し、一銭の貯へ、一銭の収入とてなく」とあります。 なじみのない言葉ですので、『広辞苑』を引きますと、
  轗軻(かんか)=好機にめぐまれず志を得ぬこと。世にいれられないこと。困窮すること。不遇。不運。
  落魄(らくはく)=おちぶれること。零落。
 お龍・松兵衛の結婚は馬ノ上村(現芸西村)出身の海援隊士、安岡金馬が媒酌したといわれ、お龍は西村ツルとして入籍したそうです。
 土陽新聞明治39年1月21日の記事を読みますと、お龍の最晩年を世話したのは戸籍上の夫・松兵衛(記事では西村松平)ではなく、工藤外太郎(くどう・とたろう)という人物だったことが分かります。この人の詳しいことは貧乏だったこと以外書いてありません。
 お龍さん死去の報が伝わりますと皇后陛下から香川皇后宮太夫の名で「哀悼ノ臻(いたり)ニ堪ヘス。相応ノ用向アラバ御申越アリタシ」との電報が来たことを伝えています。
 また死亡の日時は明治39年1月16日午前というのと、15日午後11時66歳という2通りが載っています。
 なお、お龍ら『龍馬と八人の女性』という阿井景子さんの新刊が高知新聞4月10日夕刊に紹介されています。(ちくま文庫、756円)

 土佐史談会が昨年から今年にかけて開いた「龍馬学10講座」はどの講座も盛況で、延べ聴講者は1000人を超えました。近く講演抄録が発行されます。
 今年は「維新の群像10講座」をする予定で準備を進めているということです。

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 昭和7、8年頃の高知県立高知城東中学校校舎(『高知追手前高校百年史』から)
  この校舎は昭和5年7月15日起工、翌6年(1931年)11月19日落成式。
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 新学年が始まりました。67年前の旧制中学校入学の頃を思い出します。以下は高知追手前高等学校校友会の会誌『時計台』30号(平成21年7月15日発行)に載せてもらったものです。
     …………………………………
 父の遺品をつついていたら出てきたのが写真(文末尾)の受験票。
 私の受験番号は238番、「本票ハ考査當日必ズ携帯ノコト」と注意書があり、考査料領収印として「久万」という丸判が押してある。先日亡くなられた久万忠郎先生の判だろうか(当時同姓の職員は名簿にない)。
 奇妙なのは『高知縣立高知城東中學校』と『高知縣立海南中學校』の校名が並んで印刷してある点だ。少々説明を要する。
 私は昭和18年(1943)春、安芸郡西分村国民学校(現芸西村)から城東中学校へ入れてもらったが、入学試験は口頭試問と身体検査、体力考査だけであった。
 学区制などといったものはなく、遠く宿毛や室戸の人とも知り合いになれた。
 入学定員はこの時から50人増えて250人(海南は200人)、両校合同の試験が両校に分かれて行われた。
 試験に臨んだのは718人。私の受験場所は海南中学校。受験票を待機教室の机の上に置いて、呼ばれるのを待っていた記憶がある。第一志望を「城東」としてあったので希望通り入学できたわけである。(受験票の学校印が城東だけになっている)。
 1区域内の志願者を一括募集して共通の考査を行い、所定数の合格者を決定したのち各校に配分するという「綜合制入学考査」はこの年に始められた。(『高知追手前高校百年史』316ページ)
 この口頭試問に備えて各小学校では練習に余念がなかった。合格してもらおうと先生方も懸命。
 のち机を並べることになる北村雅男君の回想。
 先生「雅男君はけさ校門を入る時、礼をしましたね。どう思ってしましたか」
 雅男「先生方、きょうもよろしくとお願いしました」
 先生「……」
 先生は、その席では何も言いませんでした。しかし、あとでおばあちゃんが校長先生に呼ばれ、「雅男君はこう言いよったが、校長室におまつりしてあるご真影に頭を下げたがじゃと答えるのが正解ぞね」と注意されたそうです。そんな時代でした。
 当時のスケジュールを「学校日誌」から拾うと、試験は3月25日から3日間行われて30日に合格発表、4月8日(大詔奉戴日)午後1時から講堂で入学式となっている。
 「海南」は軍人を目指す人たちの行く学校として評価が高かったが、「城東」も軍人志望は結構多く、2年生になると成績のいい生徒は続々と陸軍幼年学校へ行った。前田祐吉君もその一人。
 実は私も受けたが落ちた。試験官から「お前は偏平足だ」と告げられた時はショックだった。初めて知った自分の肉体的欠陥、学科試験の至らぬのを棚に上げて、天を恨んだ。
 話が前後して申し訳ない。入学の時に戻る。
 250人の合格者は50人ずつ5組に編成された。どういう具合に配分されたか。これは後年、ある先生から聞いた話である。
 組の名前はA組、B組、C組、D組、E組と呼ばれた。各組に級長として入学試験成績1番から5番の者をA組から順番に配置、次に副級長として6番から10番の者をE組から逆順に配分、あとは順、逆に折り返して最後の250番はA組で終わり。
 私はE組に組分けされた。ビリの250番ではなかった訳だ。1年の時どの組だったかは、何十年経っても折に触れて話題になる。前年まではD組どまりだったからE組は初めての登場。翌年からは消えた。
 敵性語まかりならぬとお上から通達でもあったのであろうか、軍隊と同じ「第二中隊第○小隊」と変わった。
 「E」…そんなアルファベットは私の字引にはなかった。田舎の小学校ではローマ字は教えてくれなかったし、学問的雰囲気には縁遠いわが家だったから、ABCDの四文字しか知らなかった。
 戦争はすでに始まっていたし、その原因は連合国が「エービーシーディー包囲網」を敷いてわが国を締め上げたからだと教えられていたから、この4文字だけは知っていた。
 Aはアメリカ、Bはイギリス、Cはチャイナ、Dはオランダ。支那をチナと発音する地理の先生がいた。ニックネームのチナは先輩からの申し送りである。
 そのE組、担任は英語の今井美佐雄先生、級長は藤田晋一郎君(高知市・第三国民学校出身)、副級長は京馬達(けば・すすむ)君(高知市・昭和国民学校出身)だった。
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         1年E組の担任だった今井先生
 でっぷり太った今井先生はこの年10月19日(或いは前日か)急逝された。尋常の死ではなかったと噂には聞いたが真相は知らない。全校生徒が弘岡方面へ1日ががりの行軍をしている最中、先生方が自宅へ急行される。この異変は生徒にも伝わる。私はこの訃をもう暮れかかっていた行軍終盤、旭町の路上で知った。
 今井先生亡き後の学級担任には配属将校の兼松平氏(教授嘱託)が発令された。
 (高知追手前高等学校校友会誌『時計台』第30号から)
     (つづく)
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