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 きょう3月31日は私の誕生日。79歳になりました。昭和6年(1931年)のこの日生まれました。戸籍上の細工はなく、正真正銘この日に生まれたことは両親に確認してあります。その両親もいまはありません。
 ところで、この1月1日付のこの欄で樋口了一の歌う『手紙~親愛なる子供たちへ~』を紹介しましたが、その時は歌詞だけしかお伝えできませんでした。いまは曲も聴けるようになっています。→『手紙』をクリックしてください。
 きょう1日だけの(番外)誕生日の贈り物です。

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    高知県副知事を務めた龍馬暗殺犯の兄

               File0028切り抜き
     手代木直右衛門勝任(『高知県人名事典新刊』から拝借)

 明治6年(1873年)7月20日、手代木勝任(てしろぎ・かつとう、通称直右衛門=すぐえもん)なる人物が香川県権参事から高知県に7等出仕として赴任して来ました。当時の権令(知事)は岩崎長武。翌7年1月21日には権参事(副知事役)となり、9年10月5日まで3年余り務めます。この間、9年8月17日の第3代岩崎知事免官から同月28日の第4代小池国武知事発令までの10日間、知事代理を務めました。
 慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋2階で坂本龍馬と中岡慎太郎を斬った実行犯や黒幕については諸説入り乱れて現在もさまざまな推理が飛び交っていますが、有力な説に佐々木只三郎をリーダーとする見廻組実行犯説があります。
 この只三郎は勝任の実弟です。姓が違いますが、父の実兄手代木又吉勝富に子がなかったため養子に入ったためです。
 勝任は高知を離れた後、岡山県に移って川上郡、賀陽郡など6つの郡長と岡山区長を歴任、明治37年(1865年)6月3日、岡山で病歿(79歳)するのですが、死の間際に只三郎が龍馬暗殺の実行者であると言い残したということです(手代木家私家版『手代木直右衛門伝』=大正12年)。
 つまり勝任は高知赴任前から弟が龍馬暗殺犯であることを知っていた訳で、それを秘しての出仕、かなり豪のものといわねばなりません。高知側としても、そんな事情を知らなかったのでしょうか。暗殺現場に駆けつけた田中光顕や犯人探索に動いた谷干城が生きていた時代です。それとも龍馬など無名の一郷士に過ぎなかったのでしょうか。土佐人がみんながみんなおおらかとは思えませんし、今ならとても務まらないように思うのですが…。
 ここで勝任の経歴を『高知県人名事典新版』(高知新聞社刊、平成11年)に基づいて書いておきます。波乱万丈の人生です。
 文政9年(1826年)3月9日、会津藩士・佐々木源八泰通の長男として若松城下(福島県)に生まれました。
 嘉永6年(1853年)28歳のときから藩主松平容保の側近として仕え、文久3年(1863年)からは京都守護職となった藩主のもと京都会津藩公用人として所司代や町奉行を配下に収め、見廻組や新撰組を指揮して京都の治安維持に当たっています。
 元治元年(1864年)6月には池田屋で北添佶摩、望月亀弥太ら土佐藩、長州藩の尊王攘夷派の志士たちを斬っています。野老山吾吉郎が巻き込まれて19歳の若い命を散らしたのはこの事件のときです。
 続く3年後の龍馬暗殺も配下の仕業です。暗殺指令は守護職容保から出たものだと言い残したそうです(高橋一雄著『佐々木只三郎伝』昭和13年刊によるとして土佐史談170号66ページに木村幸比古が「霊山歴史館の龍馬関係遺品遺墨」と題して書いています)。職掌柄、全然かかわりがないとは言えないでしょう。
 大政奉還後は容保に従って二条城を退き、戊辰戦争では旧幕軍として戦います。
 慶応4年(1868年)1月、会津藩監察として臨んだ鳥羽伏見の戦いに敗れ、藩主逃走後の藩兵をまとめて苦難の帰藩を果たします。奥羽列藩同盟のため活躍、会津戦争では若年寄として籠城を指揮し、最後には降伏の使者として板垣退助に会い戦争終結に導きました。
 開城(明治元年9月22日)後、その戦争責任を問われ、高須藩(岐阜県)の座敷牢に幽閉されます。43歳でした。
 名古屋、青森と移監されるうち明治6年2月に特赦を受け、4月から左院少議生として新政府に出仕、香川県を振り出しに地方官僚としての生活を送りました。
 妻・喜与(1834~1919・5・10)は戊辰戦争の戦乱を避けて生きる道を選び、老母、娘3人とともに山中に逃れ、『松の落葉』という手記を残しています。

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   岡田以蔵、敬吉、虎輔と江藤新平
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」に岡田以蔵が登場しています。龍馬より3歳年下の天保6年(1838年)生まれ。いまはまだ武市半平太の若い門人ですが「人斬り以蔵」と呼ばれることになるテロリストです。TBS系ドラマ「ブラッディ・マンデイ」で天才ハッカーの主人公の親友で現職総理大臣の孫、音弥(おとや)を演じている佐藤健(たける)が扮しています。以蔵の恋人役(臼田あさ美)も創作されるといいますから、どんな物語が展開されるのてしょう。
 しかし今回は以蔵の話ではありません。弟の敬吉(啓吉とも)と江藤新平にまつわる秘話であります。
 江藤新平はご承知の通り明治新政府で司法卿を務め、司法制度の整備に功績を残した政治家ですが、最後は士族の反乱の首謀者として処刑されます。
 明治6年(1873年)征韓論に敗れ、西郷隆盛や板垣退助らとともに下野、翌7年佐賀の乱を起こします。強力な政府軍の火力の前に鎮圧され、鹿児島を経て四国宇和島から高知に逃れ、徳島県との境の東洋町で捕らわれの身となります。
 この逃走経路について土佐史談には多くの記事がありますが、新しいものとして185号(平成3年)の岡林清水氏「土佐の海浜文学-江藤新平の航跡を追って-」(1~7ページ)を挙げておきます。
 その中で高知市での一夜について「酒楼此君亭(しくんてい)に投宿したのち亭主内川源十郎の好意で北新町の岡田敬吉の家に移り、その翌朝、江の口川を舟で下り高知を脱出した」とあります。
 もうすこし詳しく書きましょう。
 土佐史談29号(昭和4年)に中村の郷土史家・上岡保次郎氏が「江藤新平入国余話」という記事を書いています。江藤を中村の下田から高知の桂浜へ舟で送った人たちのことを記憶していた72歳の老婦人との問答ですが、この記事を読んだ土佐史談会の会員で東京吉祥寺に住む岡田虎輔氏から、私の家にもこんな話が伝わっていると土佐史談会へ手紙がきました。その手紙の全文。
 「余が父敬吉は、実兄以藏(維新勤王岡田以藏のこと)の勤王の遺志を継ぎ、矢張り同志と共に國事に奔走して居たが、明治の初、土佐の志士が、薩肥の諸士と仝時に蹶起し、海外に事あらんとする時(征韓論)、之に賛同し、弾薬の如きものを床下に隠し埋めて置いた事があつたそうで、祖母より聞かされたことがあつた。
 江藤新平が佐賀より土佐へ落ちて來りしとき、同志と共に極めて秘密に、江藤を一夜我が宅に泊らし、それより之を東郡に落した、當時自分の宅は、今の高知市北新町四丁目十九番屋敷にあつて、父は明治十五年に死し、祖母里江といふが、其の後明治三十九年八十九歳で死去したが、此の祖母が一人之を知れるのみで、父の死後、自分は祖母より當時の摸様を時々聞かされて、子供心にも深く感じ肝に銘じ記憶して居る。
 江藤の我が家に宿泊したときは、我家の家族は父敬吉、母はま、祖母里江並に余(此の時二歳)の四人暮しであつた、父は突然母に向ひ、小供をつれ即刻里子に行けと命じた、さうすると母は其の意外に驚き、泣いて何故かを質したれぱ、父は其の理由を語らず、大喝一聲して妻子を逐出たれぱ、母は己むなく自分を連れ悄然として里方に行いた。
 然して此の里方は誰あらふ、偶然にも同土佐史談二十九號に載せてある、寺石先生の戊辰役、今市合戦の記事中、板垣総督の軍使に立つた小松愛藏の家であつた、余が母の里は小松家で、母は愛藏の長女であつた。
 其日の夜半に、江藤の一行は忍ぴ足で我家に入り來りけれぱ、祖母一人の手にて甲斐々々しく酒肴を調へ供したれば、主客は徹宵飲み且つ談したが、翌朝未明に、鐵砲町より網船を仕立て江藤を舟底に匿し、其上に同勢が膝を並べ、酒打酌み舟遊の風を装ひつゝ、吸江に出で夫より下田川を遡り下田にて窃かに江藤を舟より上げ、東郡に送つたといふ、以上皆祖母が生前中の物語りであつた。」
 以上、土佐史談30号、寺石正路(杜山居士)「郷土志断片 其九十一 江藤新平高知潜伏の一夜」より。30号が高知県立図書館にないので、あえて原文どおり掲載しました。
 このあと江藤は久枝(南国市)で物部川を渡り東に向けて逃走の旅を続けるのですが、川の渡し賃に庶民には縁のない10円札を使ったことが捕吏への手掛かりになったと伝えられます。(宗光清著『江藤新平らの土佐潜行』)。
 また私は江藤を逮捕した高知県官吏・細川是非之助(ぜひのすけ)をその人格と独特の名前のゆえに忘れることができません。
 最近この江藤逮捕をめぐる新しい史料が発見されたと昨年8月17日の高知新聞夕刊が報じています。「佐賀県脱走人江藤新平及同徒捜索御用入費明細纏」と題された江藤ら9人を捕縛するのに要した人件費など諸経費の明細書です。
 是非之助の出張旅費が22円35銭、江藤らを寝ずの番で監視した役人の弁当代が毎夜2人・11日間で2円31銭など。総額では213円74銭1厘に上っています。
 なお岡田虎輔氏は高知県立第4中学校(中村)校長から煙草専売局技師に転じ、鈴木商店に入ったのち民間煙草会社の社長を務めた実業家です。
 高知新聞社発行の『高知県人名事典』でこの人の横顔を書くに当たって、私は土佐史談会会員名簿からこの人のご子孫が東京吉祥寺に今も住んでいるんではないかと、電話帳の岡田姓33人のうち第1陣として10人に手紙を出して問い合わせたところ、いました。お孫さんの岡田昭五郎さん、詳しい経歴をいただき書くことができました。これも忘れることができません。

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   野中兼山の肖像画は想像画         (写真は野中兼山墓)
 高知市を流れる鏡川南岸・筆山は全山お墓の山と言ってもよく、それこそ有名無名無数のお墓が山を覆っています。人物だけでなく「山月」という名馬を葬って建てた2㍍余りの立派な碑まであります。
 その南側斜面、筆山トンネル南口上の筆山小公園(北緯33度32分42秒×東経133度32分23秒)から急な石段を128段(写真)登ったところに野中兼山のお墓があります。
 兼山は藩政初期の土佐藩家老で、各種土木工事、産業振興を図り、藩の経済的基盤を形成した政治家であります。しかし過酷な年貢の取りたてなど施政に不満を抱く人達の弾劾を受け失脚に追い込まれました。
 一族に対する報復は過酷で、兼山歿後40年男系が絶えるまで幽閉は続きました。それを描いた小説に大原富枝の『婉という女』(1960年、講談社)があります。今井正監督で映画(1971年)にもなりました。
 この人物、最期が最期だけに肖像画に描かれることはありませんでした。たとえ描かれていたとしても破棄されたでしょう。とにかく絵はなかったのです。
 しかし現在では2種類の肖像画が使われています。依光貫之氏が土佐史談217号に寄せた「野中兼山肖像画の謎」には
 ①上村昌訓筆(西内青藍著『偉人野中兼山』より)
 ②楠永直枝筆(『図録高知市史』より)
の2つの写真(絵)が載っています。
 ①の絵が出来た謂われについては史家の寺石正路氏(杜山居士)が土佐史談30号(昭和5年)に「野中兼山の肖像」と題する一文(郷土史断片其九十)を残しています。
 高知県立図書館には30号が欠けていますので、その全文を載せておきます。(高知市民図書館にはあります)。

「近頃、野中兼山の伝記本の中に兼山肖像というものが載せられて居る。巨眼豊頬で筋肉豊満に、風采堂々たる偉人の典型である。そして民間の絵葉書にも同形の姿が載て居る。此の肖像は果して真か、其の出所如何、今之を説明してみよう。
 実際、野中兼山には肖像は残って居ない。尤も兼山に限らず、昔の偉人に姿の残って居ない人は沢山にある。
 土佐では山内一豊公、康豊公、一豊公夫人、忠直公皆画姿が残って居る。長宗我部元親、是は皆知る通り木像が残って居る。兼山は有名な偉人であるけれど、其の最期の断末が彼の通りで画姿も何にも無い。
 然るに明治30年の頃、東京内務省より、兼山の画像は無きか、有れば出せという照会が高知県へ来た。其の頃、勧業課というが今の農商課であったが、色々詮議したけれど何の手掛が無い。
 そこで兼山の遺族を探してみると、直系は無論断絶して居るけれど、支系は存続している。是が維新頃、野中太内助継の家で、昔は堀詰(新京橋西詰辺)に住して居た。太内の娘さんが小藤家へ縁付き、其の人が公園の北側に住し、裁縫茶事など教えて居た。
 そこで此家へ行き、色々太内氏の事や其の外参考の事を承はり、当時第一中学校(今城東中学校)の教師上村昌訓氏が筆を執り、一同が皆批評研究し、兼山は49歳で死去したから、凡40余の容貌は、此様であったろという所で画が出来上った。
 然るに羽織の紋は如何するという事に相成り、余は小藤老夫人に参り其の紋所を詮議したれば、丸の中三短冊ということで、遂に其の紋を採用する事になった。
 かくて之を内務省に報告して、愈採用になったものである。
 偉人の生姿が残れば結構であるが、無ければ推定で作るも已むを得ぬ。これが今日に伝わる野中兼山の画姿である。其の後、大正12年の関東大震で、内務省も全焼に及んだから、此の画本が猶今日に存在して居るや否やは覚束ない。
 薩州の西郷隆盛も決して絵姿写真はない。今日世に伝はる丸刈肥大の薩摩絣式の巨漢の肖像は、明らかに後人の推究である。詰り理想の隆盛であるが、今や満天下に持て囃され実際以上の者となって居る。野中兼山の肖像も他日左様になるであろう。
 此の頃、或る人より兼山肖像の出所を問われたから、一言後世参考の為にと之を述べて置く。」

 上の文中にある「批評研究した一同」について依光貫之氏は前掲文の中で上村昌訓(うえむら・しょうくん)33歳、楠永直枝(くすなが・なおえ)38歳、寺石正路(てらいし・まさみち)30歳の3人をあげています。

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  上村昌訓氏      楠永直枝氏     寺石正路氏
   (『高知県人名事典新版』高知新聞社刊から拝借)

 楠永は上村と同じ第一中学校の図画教師でした。この話し合いの過程で楠永も自分なりの兼山像を作り上げていたと依光氏は言います。そして内務省に納められた上村の絵が関東大震災によって灰になったのを知って自分の作品を発表したのであろうと想像しています。Nkという控えめなサインが識別の印ということです。
 現在幾種類かの兼山の画像が伝記などに使われていますが、その源はすべて上村と楠永の2作品といっていいようです。しかしいずれも想像画であることに変わりありません。
 話は横道にそれますが、楠永について作家の森下雨村が残した文があります。追手前高等学校校友会の創立80周年記念誌(昭和34年)の「明治は遠くなりにけり」に載っています。(74~75ページ)
 「(楠永直枝先生は)肖像画家として立派に一家をなすべき天分に恵まれながら一中学の図画科教師として悔みなき生涯を終わった人である。
 潮江に居住した先生が氾濫する鏡川を抜き手をきって登校したという逸話は学生の間でも有名であった。
 笑顔ひとつ見せたこともなかったが、ずんぐりと肥満した体躯とまんまろい赤ら顔の中に、底光りのするつぶらな瞳が、人なつこさと同時にちょっと近づきにくい威厳を帯びて、うっかり先生の機嫌を損じたら、ただではすまない感じがして、“ライオン”とはいみじくも奉ったニックネームと思ったことだった。」
 

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(写真)「野中兼山墓」(高知市史跡)までほぼ一直線に通ずる石段。128段あります。お墓の前に大町桂月撰文の「野中兼山先生墓域改修碑」が建っています。上の写真真正面の高い石碑です。それによりますと、大正10年(1921年)7月、荒れ果てていた墓域を柏島出身の実業家中島平太郎氏が改修し、登山道や道標も整備したもののようです。   改修碑は高さ1㍍70㌢、幅75㌢の御影石で、80㌢の台石に乗っています。彫りが浅く汚れもひどいので拓本にでも採らなければ読めない状態ですが、土佐史談164号(昭和58年)に岡林清水氏が全文採録しています(37ページ「野中兼山と文学」)
 中島氏と桂月の結び付きの経緯は分かりませんが、ここにこの全文を載せさせていただきます。

 英雄は英雄を知る 偉人の出でたる處には偉人風を望んで起つ されど賢を希ふの風を助長せずんば偉人或は種切とならむ 土佐出身の天下的偉人を史上に求むれば何人も先づ指を野中兼山先生に屈するなるべし 中島平太郎氏少時より兼山先生を敬慕して措かず 電気事業に成功するに及んで其の郷里の柏島に於ける先生の遺功の大石堤の上に先生の祠を建てたるが 先生の墓に謁してその大に荒廃せるを慨き 地を購ひて墓域を擴め参詣の道を造り墓道標を設け 後世永く荒廃に帰せざるべき方法を講ぜり 能く先輩に盡し兼ねて能く後世に盡して世道人心を稗益するものと云はざるべけんや
 古をかゞみに今も後の世も土佐に優れし人の出でなむ
  大正十年七月              大町桂月撰
                         島田實書


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