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   山田馬次郎の実名は?

 ところで、このブログではこれまでこの人物について通称「山田馬次郎」とのみ表記して本名を含むフルネームの使用を避けてきた。異なる2つの史料が存在するからである。即ち、
 1、山田馬次郎「清揃」と書いてあるのは次の3つ。
 ▽平尾道雄氏「山田馬次郎遺米紀行」(土佐史談28号=昭和4年9月発行)
 ▽山内家資料 幕末維新第三編上 第16代豊範公記100、104、485ページ=平成15年発行)
 ▽前掲『御侍中先祖書系図牒』。毛筆の崩し字であるが、 確かに「揃」である。
 2、幕府史料に據るとみられる次の出版物はすべて山田馬次郎「清樹」。
 (1)日米修好通商条約締結100周年(昭和35年)記念事業として編まれた『万延元年遣米使節史料集成』(全7巻、昭和36年7月、風間書房発行)。ローマ字でKiyokiと振り仮名がある。
 (2)尾佐竹猛著『夷秋の国ヘ-幕末遣外使節物語』(昭和4年7月、万里閣書房発行。平成元年12月、表題の前後を入れ替えて講談社学術文庫に収録)(前掲清揃説をとった平尾氏は土佐史談28号の記事の中で、この著作を引用して馬次郎の身分について「外国奉行頭支配組頭成瀬善四郎(正典)の随員」と書いているのに、名前の異同については触れていない)
 (3)宮永孝著『万延元年のアメリカ報告』(平成2年10月、新潮社発行=平成17年3月、講談社学術文庫に『万延元年の遣米使節団』の表題で収録)。「きよたつ」と振り仮名。
 どちらが本当だろうか。

 山田家の墓所が高知市の筆山南斜面にあるのは土佐史談で知った。(177号、高橋二男氏「続・潮江山周辺墓碑あれこれ」)
 山田という姓は珍しくないので山田家墓地というのはあちこちにあろうが、孫右衛門や助之丞の墓があるところから、この山田一族の墓地であることに間違いはない。八右衛門親子の墓は別の所にある。
 急斜面を開いて設けられている割りには結構広く、大小24基の墓が並んでいる。墓碑は1基を除いてすべて砂岩、多くが石室を背負っている。
 筆者が訪れたときはこの秋の彼岸を過ぎたばかりの頃だったが、供花は見られなかったものの管理は行き届いていた。花筒の設備はない。
 その墓域の一番端に馬次郎の碑があった。
 高さ60センチ、幅27センチ、厚さ19センチ、正面(南面)に写真で見る通り「山田馬次郎清樹」と刻まれ、右側面に「文久二年壬戌十一月三十日没」、左側面に「享年三十二」とあり、裏へ廻ると「清關透機信士」の文字が読み取れた。石室はない。

馬次郎CIMG0738

 墓碑は後年建てられることが多いとはいえ名前まで間違うことはなかろう。読み方はともかく「清樹」に軍配が上がるのではなかろうか。
 神奈川県に居られるご子孫宅に伝わる系図も当然ながら「清樹」となっている。
 なおこの系図で馬次郎3兄弟には妹が1人いることが分かった。

 2009年は日米修好通商条約の批准書交換(万延元年=1860)から150年であった。

 【追記】私事ながら、この11月22日に祖父の50年忌の法要をして遺骨を土に帰した。その際、位牌の戒名と納骨堂の墓誌に刻まれた戒名が違うのに気がついた。それも1字の間違いや脱字ではなく、戒名全体が違うのである。墓誌は3年前に納骨堂に改葬したとき新調したのだが、今となってはその経緯は調べようがない。石材店でメモがすり替わったのだろうか。位牌と照合すればよかったのだが、うかつであった。馬次郎の墓に関連して思うことである。
                                 (おわり)

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         場所 高知県立文学館ホール
         時間 午後1時半~3時半の2時間
   日程      講師        講座内容
 5月27日(水)岩崎義郎  坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
 6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
 7月29日(水)三浦夏樹  土佐勤王党と脱藩事情(了)
 8月 1日(土)佐藤寿良  龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了) 
 9月 5日(土)渋谷雅之  龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広  薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸(了)
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道(了)
12月 5日(土)松岡司    龍馬・中岡の死とその背景(了)
 1月17日(日)谷是     龍馬死後の海援隊とその思想の継承
 2月 6日(土)高橋正    文学に描かれた龍馬像


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   山田一族の人々

 馬次郎がサンフランシスコから出した手紙、宛先は「山田畦三郎」となっていた。3つ違いの弟である。
 ここでちょっと山田一族のことに触れてみる。
 山田家は戦国時代の武将去暦の父孫右衛門宗純を初代として十五代続いている家柄である。
 石田三成に仕えていた去暦は関ケ原の役で落城の迫った大垣城を娘の阿安(おあん)らとともに脱出、土佐へ逃れてきた。大垣城の堀はたらい舟で渡ったと「おあん物語」は伝えている。
 県立図書館にあるコピー版の『御侍中先祖書系図牒』ク、ヤ(1612)(2)を開くと冒頭から一族の名前が続く。212ページからはこの記事の関係者。(系図牒原本は〔財〕土佐山内家宝物資料館所蔵)
○孫右衛門清道○助之丞清賢○八蔵清粛○平左衛門清廉
            免弥太清辰  馬次郎
            猪内直春   畦三郎清枝
 ■孫右衛門清道=享和4年(1804、文化元年)2月免奉行▽文化6年(1809)7月御郡奉行▽同8年2月幡多御郡奉行▽同11年4月大御目付▽文政7年(1824)正月御仕置役▽同8年7月御馬廻組頭▽同10年6月御仕置役(再)と、大目付仕置役まで昇った。嘉永元年(1848)戊申12月2日享年70有1と墓石に刻まれている。逆算すると安永7年(1778)生まれである。(武市佐市郎編『御役人帖』=土佐史談49、48、44号)
 ■山田助之丞清賢=清堅と書いた本もある。前名寿之助。天保15年(1844)9月2日歿、50歳だから寛政7年(1795)生まれ。森口幸司編『土佐藩御役人帳』(高知市民図書館発行)には内膳様付に名が載っている。松山白洋「宮地仲枝を中心とせる歌壇の人々」(『土佐歌人群像』⑨=土佐史談40号所載)には山田助亟、山田助之亟、山田清賢といった名前が頻繁に登場する。和歌の世界では著名な文化人であったようだ。
 ■由比猪内直春=幕末維新の激動期、開成館軍艦局担当や参政を勤めて藩主を支えたこの人、養子となって姓が変わっているが山田孫右衛門清道の三男である。文政2年(1819)生まれ。先に述べた馬次郎の手紙を容堂に見せたのがこの人。新おこぜ組の一人で、文久2年(1862)4月、東洋・吉田元吉の横死に伴う藩庁改革で後藤象二郎らとともに役職(御側御用役)をはずされた経歴を持つ。佐佐木高行日記には「孰レモ吉田元吉ノ徒ナリ」とある。(前掲『保古飛呂比 一』396㌻)。
 ■八蔵(八右衛門)清粛=文政9年(1826)生まれ。嘉永6年、ペリー来航に伴って警備を固めた土佐藩品川屋敷の惣頭取、また文久年代に入って堺警備の住吉陣営配属者の中にも御馬廻組頭として山田八右衛門の名が見える。息子より長く生きて明治43年(1910)5月20日歿、享年85。(小美濃清明氏『土佐藩品川下屋敷と浜川砲台』=土佐史談226号▽山内家資料 幕末維新第3編上201㌻)
 ■山田畦三郎直枝=天保5年(1834)生まれ。助之丞の三男。土佐藩の藩船「夕顔」船上で坂本龍馬が船中八策を口述し長岡謙吉に書き取らせた時の船長がこの人。猪内の養子となっていたので由比畦三郎と称していた。またイギリス東洋艦隊イカルス号の水兵2人が長崎で殺され、下手人の疑いが海援隊にかかったとき、須崎まで来た龍馬を夕顔船内にかくまっている(前掲『保古飛呂比 二』431㌻)。『竜馬がゆく』の中で司馬遼太郎氏は「畦」に「けい」と振り仮名を振っている。この人はその後、開成館軍艦局の教授や局長を務めたあと明治に入って第7国立銀行の初代頭取、北光社第2代社長などを努めるが、この時(万延元年)は27歳であった。(つづく)


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 5月27日(水)岩崎義郎  坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
 6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
 7月29日(水)三浦夏樹  土佐勤王党と脱藩事情(了)
 8月 1日(土)佐藤寿良  龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了) 
 9月 5日(土)渋谷雅之  龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広  薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸(了)
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道(了)
12月 5日(土)松岡司    龍馬・中岡の死とその背景(了)
 1月17日(日)谷是     龍馬死後の海援隊とその思想の継承
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     ナイアガラ号で帰國の途へ

 万延元年(1860年)5月13日、ニューヨークを出発。これから日本まではナイアガラ号での旅。その後多くの日本人が目指したイギリス方向には向かわず、東南に針路をとる。(スエズ運河は開発中で開通するのは9年先)。
 大西洋に浮かぶボルト・グランデ(ポルトガル領)に立ち寄り、アフリカ大陸のロアンダに着いたのは21日の夕方であった。
 現在のアンゴラの首都ルアンダ。
 この港は奴隷密輸の基地として知られていた。植民地時代の治安はどうだったんだろう、10日間の停泊中、使節団は交代で上陸した。
 そこで何を見たか。
 3人の黒人が首を鎖でつながれて荷物運びをさせられているスケッチがある。鎖の端を鞭を持ったポルトガル人が握っている。
 熊本藩から参加した木村鉄太が描いたものだ(『万延元年遣米使節航米記』=高野和人編、平成17年、熊本日々新聞社)。当時の武士に人権感覚など望むべくもないが、「逃げるのを防ぐため」との説明である。150年近く前、アフリカの彼方でこんな光景に接した土佐人がいたのである。

   9カ月余りの世界一周

 帰りを急ごう。6月晦日にロアンダを出発、10日ほどで喜望峰沖を廻る。陸地は見えなかった。
 山のような波に翻弄される。インド洋を東に進んで、スマトラ島とジャワ島の間の海峡を通り、8月18日にバタビア(現ジャカルタ)着。ロアンダから46日かかっている。
 11日間の停泊を終え27日に出発、次は香港である。
 9月10日に香港市街から1キロ沖のビクトリア港に錨を下ろした。
 ここで10年ほど前紀州沖で漂流しアメリカ商船に救助されていた芸州人亀五郎を引き取る。18日出帆。
 9月25日、土佐沖を通過。
 前掲木村鉄太の『航米記』には「九月二十四日 曇 北風烈しく(中略)北緯三十度三十三分 東経百三十三度三十五分」
 とある。
 日付について書いておかねばならない。
 横浜からアメリカへの途次、ポウハタン号は2月23日東経180度線を通過した。その際米国測量官から「きょうは23日であるが、日付変更線を通過したので、きょうを22日としておけばアメリカ到着の際現地の日付と一致する」と説明を受けた。
 しかし使節団は「日本人は従前の日付を追い、改めない」としたそうである。そのため帰朝下船の際初めて1日の差を確認することになる。
 ただ『航米記』の著者だけは帰途、日記に5月20日を2日連続して記入、日付調整をしている。
 27日正午ごろ下田沖、富士山は雲に隠れて見えなかった。
 その夜は地理不案内なため江戸湾に入らず夜明けを待った。翌日は午前11時ごろ横浜に到着、従者らは上陸して早駕籠で一足早く江戸へ。ナイアガラ号は午後3時ごろ品川沖に投錨、使節団は全員下船した。万延元年9月28日(江戸時間27日)着、ニューヨーク港を出帆して4ヵ月余り、日本を離れてからだと9カ月余りをかけた世界一周の旅であった。

   攘夷一色だった故国

 この間、世の中変わっていた。一行を送り出した最高責任者の井伊大老が殺され、攘夷の焔が燃え盛っていた。ナイアガラ号は冷たくあしらわれて帰國して行った。土佐でもやがて吉田東洋が命を奪われる時代である。外国通を振りかざして自慢話のできる雰囲気ではなかったと想像される。
 馬次郎は帰國の翌文久元年4月9日、洋学修業生として江戸に出、御雇中3人扶持30石を支給されたが、同2年11月30日病死した(御侍中先祖書系図牒)。32歳の若さである。
 謹慎処分の全く解けた容堂公に謁見を許され訪米の復命ができたのは帰国後2年、死の約3カ月前であった。
 3カ月余りのアメリカ視察であったが、その見聞が生かされることはなかった。(つづく)


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 前回『竜馬がゆく』プレゼントのお知らせをしましたが1件も申し出がありませんでした。希望者が多かったらどうしようと悩んだ自分が馬鹿みたい。この試みは中止します。

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