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2009.09.28
(56)万延元年、馬次郎のアメリカ旅行(第2回)
万延元年遣米使節団を送ってくれる船はアメリカ合衆国差し回しの軍艦ポウハタン号。アメリカ側とすれば不平等条約を押し付けることができたし、送迎費用など“思いやり予算”のつもりであろうか、復路も自国の軍艦を使わせる厚遇ぶりであった。そればかりか滞在中の費用もすべてアメリカ持ち。幕府側としては、それでは面子がたたぬと2万ドルだけ受け取ってもらったそうである。
馬次郎からの手紙
安政7年1月18日、ポウハタン号は江戸湾で一行を乗せ、22日横浜を出港した。この船とは別に勝海舟を船将とする幕府の咸臨丸がお供のような形でこれより3日早く浦賀を出ている。中浜万次郎が通訳として乗り組んでいた。
ポウハタン号は2415トン、乗組員や生きた牛、豚などのほかに77人という大使節団を乗せたのだからその混雑振りは相当なものであったらしい。
旅の途中で馬次郎が書いた手記(写し)が残っている。出発からサンフランシスコまでであるが、抄記してみよう。「 」内。
全文は土佐史談28号の平尾道雄氏「山田馬次郎遣米紀行」および『山内家資料 幕末維新第三編 上 第十六代豊範公記 第二巻』101~104㌻に載っている。
冬の北太平洋、大荒れの毎日である。
「北風強ク雨零(霙?)交リ来テ大浪ヲ起ス 如此コト三日 寒暖計四十四度 同廿七日東南強ク黒雲四方ニ起タニ至リ暴風益々甚ク高浪山ノ如ク船ヲ潜テ走ル 動揺二十五度ヲ過ル 同廿八日ニ至リ風浪漸ク静也 昨夜大浪ノ為ニ小船及ヒ器物ヲ流失ス」
艦は当初、サンフランシスコへ直行する予定であったが、ハワイに寄ることにした。逆風のため帆走を妨げられ、石炭を使い過ぎたためである。
「二月七日船将ビールソン曰 数度逆風ノ為ニ防禦セラレ速ニ前岸ニ達スルコト能ハス 石炭将盡」
かくして使節団にとって初めての外国は図らずもカメハメハ4世を君主とするハワイ王国となった。12日間の滞在中、馬車に乗り、女性を大事にする社会に触れてさまざまな体験をするのである。
馬次郎はサンドウィッチ群島を三度維、オワフ島を和保、ホノルルを穂野留と書いている。
「和保島日記大概 萬延元 二月十四日晝第十時三度維群島ノ中着和保島ノ穂野留(都名)港口ニ船ヲ止ム 米人島人ト共ニ出来ッテ船ヲ港内ニ導ク(中略)即日奉行以下陸ニ上ル」
波止場には、頭にちょんまげを載せ大小をたばさんだ異様な風体の日本人を見ようと黒山の人だかりであったそうだ。
一行は「車ニ乗シ」フランス人経営のフレンチ・ホテルに運ばれる。
「館内数家アリ 皆此ニ宿ス 衆人船中ノ屈気ヲ散センカ為四方ニ遊歩ス 或人商家ニ入テ銀を以テ金ト為シ洋銀数枚と易ル者アリ 商生其實金ニ不省を以テ怒来テ此を館ニ訴フ 茲ニ於テ僕ノ自ラ門ヲ出ルコトヲ禁ス」
結局、ホテルには5日間いて「十九日旅館を引テ本船ニ帰ル」
ハワイの行政や自然についても淡々と書いている。
「王宮港ノ東ニ在リ方数千歩ヲ不過 墻壁壊破シ犬羊越スヘシ 唯旗章ノアルヲ見テ王宮ナルコトヲ知ル(中略)港内米ノ鯨船尤多シ 英米ヨリ此地ニ奉行ヲ置テ事ヲ司ラシム 国王ハ唯西商ヨリ納ル所ノ運上金ヲ以テ生命ヲ存スル而巳 府内ノ商家ハ西人及ヒ支那人ノ造ル所ニシテ美ナリ 土人ハ多ク此ノ僕ト為ル 豪商ハ車ニ乗シテ行 一馬一車ヲヒク 一車四人を乗ス」
「府外五穀ヲ産スヘキ地モ荒廃シテ唯青草ヲ見ル而巳 府内モ亦人煙稠密ト云ヘカラス 然トモ西國ノ豪商還来テ地ヲ開キ高楼ヲ造リ各國ノ旗章港岸ニ飜リ日日ニ新ニ月月ニ盛ナリ 必数年ヲ不過シテ荒廃青草ノ地モ白壁楼臺ト成ルヘシ」
カメハメハ4世はこの時26歳、使節団に会いたいといってきた。馬次郎の手記はその会見の模様にも触れている。
「十八日、奉行以下米人ノ導ヲ以テ王宮ニ至ル 王迎ルニ親臣車馬ヲ以テス 宮門ヲ入ニ及デ樂卒音ヲ発シ紅衣ノ銃兵庭前ニ列ス 別ニ米ノ銃兵此地ニ在ル者宮殿ヲ守ル奉行 殿ニ昇レバ王妻子ト共ニ出見ユ 衣冠禮式西國ノ風ノ如シ 米英ノ奉行此地ニ在ル者其妻ト共ニ來リ會ス 数刻ニシテ旅館ニ帰ル」
27日、ポウハタン号は正午ホノルル港を出帆した。
その後の馬次郎の洋中日記は船の向、風向、航走距離を表にしただけ。変化のない船中生活で格別書くこともなかったか。ただ3月7日に「今夜初テ北光ヲ見ル」との書き込みがある。オーロラか。
12日目、3月にはいってやっとアメリカ本土に着いた。一足先に太平洋横断に成功した咸臨丸は近くの海軍造船所で傷んだ船体を修理中であった。
「九日第九時、サンフランセスコノ港内ニ碇泊ス 此地近年米人ノ開港スル所ナリ 人煙稠密 船檣林立 砲臺風車 蒸氣車 高楼 海岸人工ノ廣大ナル紙上ニ書シ難シ 其形勢ヲ知ント欲スル者ハ速ニ來リ見ルベシ
申三月九日從桑方西斯哥
山田馬次郎
山田畦三郎様 」
いよいよ目的のアメリカに到着して、高ぶる気持ちを抑えかねているような息づかいが感ぜられる。17日までこの地に滞在した。(つづく)
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-854-5566
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
参加希望の方は実施予定日の1週間前までに必ず「ハガキ」でお申し込みください。定員いっぱいになり次第締め切らせていただきます(土佐史談会会員を優先いたします)。
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馬次郎からの手紙
安政7年1月18日、ポウハタン号は江戸湾で一行を乗せ、22日横浜を出港した。この船とは別に勝海舟を船将とする幕府の咸臨丸がお供のような形でこれより3日早く浦賀を出ている。中浜万次郎が通訳として乗り組んでいた。
ポウハタン号は2415トン、乗組員や生きた牛、豚などのほかに77人という大使節団を乗せたのだからその混雑振りは相当なものであったらしい。
旅の途中で馬次郎が書いた手記(写し)が残っている。出発からサンフランシスコまでであるが、抄記してみよう。「 」内。
全文は土佐史談28号の平尾道雄氏「山田馬次郎遣米紀行」および『山内家資料 幕末維新第三編 上 第十六代豊範公記 第二巻』101~104㌻に載っている。
冬の北太平洋、大荒れの毎日である。
「北風強ク雨零(霙?)交リ来テ大浪ヲ起ス 如此コト三日 寒暖計四十四度 同廿七日東南強ク黒雲四方ニ起タニ至リ暴風益々甚ク高浪山ノ如ク船ヲ潜テ走ル 動揺二十五度ヲ過ル 同廿八日ニ至リ風浪漸ク静也 昨夜大浪ノ為ニ小船及ヒ器物ヲ流失ス」
艦は当初、サンフランシスコへ直行する予定であったが、ハワイに寄ることにした。逆風のため帆走を妨げられ、石炭を使い過ぎたためである。
「二月七日船将ビールソン曰 数度逆風ノ為ニ防禦セラレ速ニ前岸ニ達スルコト能ハス 石炭将盡」
かくして使節団にとって初めての外国は図らずもカメハメハ4世を君主とするハワイ王国となった。12日間の滞在中、馬車に乗り、女性を大事にする社会に触れてさまざまな体験をするのである。
馬次郎はサンドウィッチ群島を三度維、オワフ島を和保、ホノルルを穂野留と書いている。
「和保島日記大概 萬延元 二月十四日晝第十時三度維群島ノ中着和保島ノ穂野留(都名)港口ニ船ヲ止ム 米人島人ト共ニ出来ッテ船ヲ港内ニ導ク(中略)即日奉行以下陸ニ上ル」
波止場には、頭にちょんまげを載せ大小をたばさんだ異様な風体の日本人を見ようと黒山の人だかりであったそうだ。
一行は「車ニ乗シ」フランス人経営のフレンチ・ホテルに運ばれる。
「館内数家アリ 皆此ニ宿ス 衆人船中ノ屈気ヲ散センカ為四方ニ遊歩ス 或人商家ニ入テ銀を以テ金ト為シ洋銀数枚と易ル者アリ 商生其實金ニ不省を以テ怒来テ此を館ニ訴フ 茲ニ於テ僕ノ自ラ門ヲ出ルコトヲ禁ス」
結局、ホテルには5日間いて「十九日旅館を引テ本船ニ帰ル」
ハワイの行政や自然についても淡々と書いている。
「王宮港ノ東ニ在リ方数千歩ヲ不過 墻壁壊破シ犬羊越スヘシ 唯旗章ノアルヲ見テ王宮ナルコトヲ知ル(中略)港内米ノ鯨船尤多シ 英米ヨリ此地ニ奉行ヲ置テ事ヲ司ラシム 国王ハ唯西商ヨリ納ル所ノ運上金ヲ以テ生命ヲ存スル而巳 府内ノ商家ハ西人及ヒ支那人ノ造ル所ニシテ美ナリ 土人ハ多ク此ノ僕ト為ル 豪商ハ車ニ乗シテ行 一馬一車ヲヒク 一車四人を乗ス」
「府外五穀ヲ産スヘキ地モ荒廃シテ唯青草ヲ見ル而巳 府内モ亦人煙稠密ト云ヘカラス 然トモ西國ノ豪商還来テ地ヲ開キ高楼ヲ造リ各國ノ旗章港岸ニ飜リ日日ニ新ニ月月ニ盛ナリ 必数年ヲ不過シテ荒廃青草ノ地モ白壁楼臺ト成ルヘシ」
カメハメハ4世はこの時26歳、使節団に会いたいといってきた。馬次郎の手記はその会見の模様にも触れている。
「十八日、奉行以下米人ノ導ヲ以テ王宮ニ至ル 王迎ルニ親臣車馬ヲ以テス 宮門ヲ入ニ及デ樂卒音ヲ発シ紅衣ノ銃兵庭前ニ列ス 別ニ米ノ銃兵此地ニ在ル者宮殿ヲ守ル奉行 殿ニ昇レバ王妻子ト共ニ出見ユ 衣冠禮式西國ノ風ノ如シ 米英ノ奉行此地ニ在ル者其妻ト共ニ來リ會ス 数刻ニシテ旅館ニ帰ル」
27日、ポウハタン号は正午ホノルル港を出帆した。
その後の馬次郎の洋中日記は船の向、風向、航走距離を表にしただけ。変化のない船中生活で格別書くこともなかったか。ただ3月7日に「今夜初テ北光ヲ見ル」との書き込みがある。オーロラか。
12日目、3月にはいってやっとアメリカ本土に着いた。一足先に太平洋横断に成功した咸臨丸は近くの海軍造船所で傷んだ船体を修理中であった。
「九日第九時、サンフランセスコノ港内ニ碇泊ス 此地近年米人ノ開港スル所ナリ 人煙稠密 船檣林立 砲臺風車 蒸氣車 高楼 海岸人工ノ廣大ナル紙上ニ書シ難シ 其形勢ヲ知ント欲スル者ハ速ニ來リ見ルベシ
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山田馬次郎
山田畦三郎様 」
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〒 780-0850
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時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
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2009.09.21
(55)万延元年、馬次郎のアメリカ旅行(第1回)
秋の彼岸を前に高知市筆山南斜面の山田家墓地にお参りして来た。昨年、一族の馬次郎のことについて書かしていただいたお礼を述べたかったためである。
お墓は野中兼山墓所の上方にある。115段の石段を登ったうえ、さらに急な坂道を迂回しなければならないため、後期高齢者にはきつい。
山田去暦の先代を祖として15代続く名門だが、去暦と次の助丞の墓はなく、その次の喜助清次以下、嘉永元年(1848年)歿の孫右衛門清道まで24基の墓が並んでいる。 一番端を馬次郎の墓が占めており、これでこの墓域が一杯になり、明治になって歿した八蔵や平左衛門の墓は60㍍ほど離れた別の場所にある。
写真は山田家墓地。黒い墓碑左端が馬次郎の碑。

これから数回に分けて土佐史談239号「欧米文化と土佐人の交流」特集号に載せてもらった「土佐藩海外派遣第1号・山田馬次郎の研究」を連載する。
………………………
山田平左衛門清廉といえば、知る人ぞ知る立志社の2代目社長。戊辰の役を戦い、自由民権運動の指導者として活躍、明治31年の第5回と第6回の総選挙では連続して代議士に当選(この時は土居姓)、土陽新聞の社長に挙げられた人物である。
その父は八蔵(八右衛門)清粛といい、馬次郎という弟があった。平左衛門にとっては叔父に当たるこの人が、ここにとりあげる土佐藩の海外派遣第1号とされる青年である。
万延元年の遣米使節団に随行
安政7年=万延元年(1860)、幕府は2年前にアメリカとの間に調印した修好通商条約の批准書交換のため使節団をワシントンに派遣する(条約第14条により批准書は米国の首都で交換することになっていた)。
正使として外国奉行兼神奈川奉行の新見房次郎正興(豊前守)を起用、諸藩からも参加を募った。土佐藩もこれに加わることになり、山田馬次郎が随行する。
当時土佐藩では藩主山内豊信(容堂)のもと参政吉田東洋が西洋の学問技術の吸収に全力を注いでいた。使節団参加もこのような政策の表われであったろう。
どういう経緯で馬次郎に白羽の矢がたったかはつまびらかにしないが、気鋭の若手であったことは間違いなかろう。30歳の青年である。
ただこれは推理だが、身内の引きがものをいうのは昔も今も変わらないといえばこの人に失礼か。
馬次郎はかなり長期にわたって江戸に出て英語の勉強をしていたようだ。
中浜万次郎の日記によると、安政6年7月29日に細川潤次郎と連れだって万次郎宅を訪問したのをはじめ10月までに5回訪ねている。(川澄哲夫編『増補改訂版中浜万次郎集成』715~725㌻=平成13年、小学館)。
藩内での彼の評判は「西洋好き」であったらしい。「洋臭者」という言い方もある。そのため彼一人だけでは信用できない、国体派からも一人派遣すべしという意見があった。しかし費用負担の問題でもあったであろうか、2人派遣論は通らなかった。元文武小目付役の佐佐木高行は日記の中で「遺憾ナルコトナリ」と残念がっている。(東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐々木高行日記 一』285㌻)
使節団は総勢77人。正使・新見豊前守のもとに副使として外国奉行兼神奈川奉行・箱館奉行の村垣与三郎範正(淡路守)、監察に小栗又一忠順(豊後守)。以上が3使。
馬次郎は随員・成瀬善四郎正典(外国奉行支配組頭)の従者という位置付け。
土佐藩のほかには佐賀3人、熊本2人、蓮池、杵築、萩、加賀、吉田、館林、仙台、盛岡の諸藩から各1人、合わせて14人が参加している。
参加の費用についてだが、前掲『保古飛呂比 一』287㌻に「公儀御宛一人ニ米五俵・澤庵二樽・梅干壱壷ト申事ニ候」という記述がある。全額なのか、現物のみのことなのかは分からないが面白い。個人負担が200両ほどいったという話である。(つづく)
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お墓は野中兼山墓所の上方にある。115段の石段を登ったうえ、さらに急な坂道を迂回しなければならないため、後期高齢者にはきつい。
山田去暦の先代を祖として15代続く名門だが、去暦と次の助丞の墓はなく、その次の喜助清次以下、嘉永元年(1848年)歿の孫右衛門清道まで24基の墓が並んでいる。 一番端を馬次郎の墓が占めており、これでこの墓域が一杯になり、明治になって歿した八蔵や平左衛門の墓は60㍍ほど離れた別の場所にある。
写真は山田家墓地。黒い墓碑左端が馬次郎の碑。

これから数回に分けて土佐史談239号「欧米文化と土佐人の交流」特集号に載せてもらった「土佐藩海外派遣第1号・山田馬次郎の研究」を連載する。
………………………
山田平左衛門清廉といえば、知る人ぞ知る立志社の2代目社長。戊辰の役を戦い、自由民権運動の指導者として活躍、明治31年の第5回と第6回の総選挙では連続して代議士に当選(この時は土居姓)、土陽新聞の社長に挙げられた人物である。
その父は八蔵(八右衛門)清粛といい、馬次郎という弟があった。平左衛門にとっては叔父に当たるこの人が、ここにとりあげる土佐藩の海外派遣第1号とされる青年である。
万延元年の遣米使節団に随行
安政7年=万延元年(1860)、幕府は2年前にアメリカとの間に調印した修好通商条約の批准書交換のため使節団をワシントンに派遣する(条約第14条により批准書は米国の首都で交換することになっていた)。
正使として外国奉行兼神奈川奉行の新見房次郎正興(豊前守)を起用、諸藩からも参加を募った。土佐藩もこれに加わることになり、山田馬次郎が随行する。
当時土佐藩では藩主山内豊信(容堂)のもと参政吉田東洋が西洋の学問技術の吸収に全力を注いでいた。使節団参加もこのような政策の表われであったろう。
どういう経緯で馬次郎に白羽の矢がたったかはつまびらかにしないが、気鋭の若手であったことは間違いなかろう。30歳の青年である。
ただこれは推理だが、身内の引きがものをいうのは昔も今も変わらないといえばこの人に失礼か。
馬次郎はかなり長期にわたって江戸に出て英語の勉強をしていたようだ。
中浜万次郎の日記によると、安政6年7月29日に細川潤次郎と連れだって万次郎宅を訪問したのをはじめ10月までに5回訪ねている。(川澄哲夫編『増補改訂版中浜万次郎集成』715~725㌻=平成13年、小学館)。
藩内での彼の評判は「西洋好き」であったらしい。「洋臭者」という言い方もある。そのため彼一人だけでは信用できない、国体派からも一人派遣すべしという意見があった。しかし費用負担の問題でもあったであろうか、2人派遣論は通らなかった。元文武小目付役の佐佐木高行は日記の中で「遺憾ナルコトナリ」と残念がっている。(東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐々木高行日記 一』285㌻)
使節団は総勢77人。正使・新見豊前守のもとに副使として外国奉行兼神奈川奉行・箱館奉行の村垣与三郎範正(淡路守)、監察に小栗又一忠順(豊後守)。以上が3使。
馬次郎は随員・成瀬善四郎正典(外国奉行支配組頭)の従者という位置付け。
土佐藩のほかには佐賀3人、熊本2人、蓮池、杵築、萩、加賀、吉田、館林、仙台、盛岡の諸藩から各1人、合わせて14人が参加している。
参加の費用についてだが、前掲『保古飛呂比 一』287㌻に「公儀御宛一人ニ米五俵・澤庵二樽・梅干壱壷ト申事ニ候」という記述がある。全額なのか、現物のみのことなのかは分からないが面白い。個人負担が200両ほどいったという話である。(つづく)
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2009.09.14
(54)再録 世界遺産姫路城の恩人
9月9日のNHKテレビ総合午後10時「歴史秘話ヒストリア」で世界遺産・姫路城が取り上げられていました。現在まで残ってきた歴史が語られていましたが、明治初年、取り壊される運命にあった城を救った軍人のことには一言の言及もありませんでした。
私は今年1月30日の第22回に「姫路城の恩人中村重遠大佐」のタイトルでこのことに触れています。
このブログではすでに月別アーカイブの中に埋もれていますので、一部手を加えた上で表に出すことにしました。ダブルわけですが、ご了承ください。
…………………………

中村重遠大佐(『高知県人名事典新版』=高知新聞社刊=から拝借)
姫路城と土佐とのかかわり、土佐漆喰が使われていることもありますが、その保存に高知宿毛出身の中村重遠大佐の存在が大きいといわれます。
『土佐史談』でもしばしば取り上げられています。昭和30年85号の橋詰延寿「姫路城と土佐」、平成元年182号の橋田庫欣「明治と宿毛」、同9年203号の山脇哲臣「城と樹木」など。
中村大佐の功績といっても、全く個人だけの力で出来たものではないでしょうし、身びいきがあるといけませんので、地元姫路市での評価を取り上げます。
インターネットの姫路市役所ホームページは「姫路城を救った中村大佐」という見出しで「恩人」という表現を使っています。
また城内菱の門の近くには旧藩主酒井忠正の書になる立派な顕彰碑が建てられています。
この姫路城、徳川家康の二女督姫を妻とする池田輝政によって建てられました。高知城と同じ慶長6年(1601年)から工事が始まっています。
それまでは羽柴秀吉が建てた3層の城が建っていましたが、それを取り壊して現在の外観5層、内部は地下1階、地上6階の大天守となりました。
明治2年(1869年)の廃藩置県で陸軍省(当時は兵部省)に管轄が引き継がれましたが、保存に巨額の費用がかかるため廃棄される運命となりました。競売にかけられ、市内の神戸清一郎という人に23円50銭で落札されました。当時(明治7年)の米価は10kg49銭と統計にあります。しかし引き合わないことが分かり権利は放棄されたということです。
ここで中村大佐が登場します。大佐は当時陸軍省の第四局長代理でした。貴重な名城は後世に残すべきだと考えた大佐は 明治11年12月26日、陸軍卿山県有朋にこの旨の建白書を提出、これを受けて陸軍省は翌12年(1879年)1月29日、軍の費用で城の修理を決定、危うく廃棄を免れることができたわけです。
中村重遠(なかむら・しげとう)は通称新一郎、進一郎とも。天保11年(1840年)12月2日、宿毛村大庄屋・小野弥源次義為の二男として生まれ、中村儀平の養子に。戊辰戦争には機勢隊を率いて北陸路を進みました。
明治4年(1871年)兵部省に出仕、同6年の征韓論では反対の立場に立ち、板垣退助らとは袂を別ちました。佐賀の乱や西南の役には熊本鎮台の参謀として谷干城を助けて活躍しました。
明治17年(1884年)2月22日、病気のため東京の家で死亡、青山墓地に葬られました。45歳の若さでした。人となりは『高知県人名事典新版』(高知新聞社刊)574ページにあります。
姫路城の異称は白鷺城、フリー百科辞典ウィキペディアによりますと「はくろじょう」と読むのが正解ということです。典拠は財団法人日本城郭協会監修の『日本100名城公式ガイドブック』。
「しらさぎじょう」とばかり思っていましたが、城の異称は音読みが普通ということです。
『土佐史談』85号から「中村大佐顕彰碑」の全文を掲げておきます。文は切れ目なく追い込みで書かれていますが、読みにくいので段落をつけました。
國宝姫路城ハ豊公創業以来悠久三百年ノ歴史ヲ有シ天下ノ名城トシテ知ラル
明治初年國費ノ急激ナル伸暢ニ伴ヒ國費多端ニシテ城郭ノ保存修繕ノ余裕ナキヲ以テ名古屋城ト共ニ廃毀ノ議廟堂ニ起ル
時ノ第四局長代理中村重遠大佐痛ク之ヲ惜ミ百方要路ヲ説得シ且山縣陸軍卿ニ是等二城ノ存置方建白書ヲ提出シ屡々其ノ芸術的城砦的価値ヲ開陳スル所アリタリ
其ノ結果明治十二年一月二十九日廃毀取止ノ指令ニ接ス
姫路城ノ今日アル実ニ大佐ノ高邁ナル識見ニ基キ建白セラレタル賜ナリ
大佐ハ高知縣飯尾ニ生レ質実剛介ニシテ信義ヲ重ジ經史ニ通ジ文武兼備ノ典型的武人ナリ
壮クシテ戊辰佐賀西南ノ役ニ従ヒ屡々帷幄ニ参ジ歴戦ノ勲績赫々タルモノアリ将来ヲ嘱目セラレシ所不幸病ヲ得テ明治十七年二月二十二日溘焉長逝セラレ享年四十五遺骸ヲ東京青山ノ墓地ニ葬ル
後年其ノ墓碑ヲ建ツルニ方リ特ニ山縣元帥ノ篆額ト谷干城ノ碑文ヲ刻ム以テ大佐ノ偉大ナル器質ヲ窺フニ足ラン
現司法大臣岩村通世閣下ハ大佐ト郷を同シウシ其ノ父君大佐ト親交アリ為ニ是等ノ文献ヲ余ニ提供セラル洵ニ景仰措ク能ハズ乃テ関係有志相謀リ顕彰碑を有縁ノ城内ニ建テ以テ其ノ偉績ヲ後毘ニ傳フ
昭和十九年三月 姫路市長 原惣兵衛
碑文の下には次の53人の名が刻まれています。
会長 姫路市長衆議院議員正五位勲三等原惣兵衛
名誉顧問 貴族院議員従三位勲三等伯爵酒井忠正
名誉顧問 司法大臣正五位勲一等 岩村通世
顧問 衆議院議員正五位勲三等法学博士清瀬一郎
顧問 衆議院議員正五位勲三等 田中武雄
顧問 元姫路市長従四位勲三等 田寺俊信
顧問 元姫路市長 杉山義治
委員 姫路市会議員
藤田三次 沖塩新三郎 津田伊三次 高田甲子郎
原浅次 塚本吉次郎 尾田徳次 植田惣吉
北川治郎松 長沢慶次 下間善郷 北角木作
柳沢丈吉 山本清吉 龍田三郎 飯塚隆重
津田政治 細田作一 佐伯成道 岡本佐太郎
矢野善寛 美根慶次郎 林長四郎 石坂静雄
竹田寛一 前田善雄 菅野善太郎 志水輝男
宝角萬蔵 津田儀作 小松九平
町内会聨合会長
堀怖平 中島吉太郎 小林敬次 飯塚勘太夫
尾上市平 藤本辰次 小林永太郎 瀬渡頼雄
幹事 姫路市助役 横山攝治
有政課長 谷本初治
文部省技手 岩崎久太郎
市立高女嘱託 吉織利貞
庶務課長 中塚亀市
土木課長 倉賀野貢
土木技師 藤井陸二
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-854-5566
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
参加希望の方は実施予定日の1週間前までに必ず「ハガキ」でお申し込みください。定員いっぱいになり次第締め切らせていただきます(土佐史談会会員を優先いたします)。
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私は今年1月30日の第22回に「姫路城の恩人中村重遠大佐」のタイトルでこのことに触れています。
このブログではすでに月別アーカイブの中に埋もれていますので、一部手を加えた上で表に出すことにしました。ダブルわけですが、ご了承ください。
…………………………

中村重遠大佐(『高知県人名事典新版』=高知新聞社刊=から拝借)
姫路城と土佐とのかかわり、土佐漆喰が使われていることもありますが、その保存に高知宿毛出身の中村重遠大佐の存在が大きいといわれます。
『土佐史談』でもしばしば取り上げられています。昭和30年85号の橋詰延寿「姫路城と土佐」、平成元年182号の橋田庫欣「明治と宿毛」、同9年203号の山脇哲臣「城と樹木」など。
中村大佐の功績といっても、全く個人だけの力で出来たものではないでしょうし、身びいきがあるといけませんので、地元姫路市での評価を取り上げます。
インターネットの姫路市役所ホームページは「姫路城を救った中村大佐」という見出しで「恩人」という表現を使っています。
また城内菱の門の近くには旧藩主酒井忠正の書になる立派な顕彰碑が建てられています。
この姫路城、徳川家康の二女督姫を妻とする池田輝政によって建てられました。高知城と同じ慶長6年(1601年)から工事が始まっています。
それまでは羽柴秀吉が建てた3層の城が建っていましたが、それを取り壊して現在の外観5層、内部は地下1階、地上6階の大天守となりました。
明治2年(1869年)の廃藩置県で陸軍省(当時は兵部省)に管轄が引き継がれましたが、保存に巨額の費用がかかるため廃棄される運命となりました。競売にかけられ、市内の神戸清一郎という人に23円50銭で落札されました。当時(明治7年)の米価は10kg49銭と統計にあります。しかし引き合わないことが分かり権利は放棄されたということです。
ここで中村大佐が登場します。大佐は当時陸軍省の第四局長代理でした。貴重な名城は後世に残すべきだと考えた大佐は 明治11年12月26日、陸軍卿山県有朋にこの旨の建白書を提出、これを受けて陸軍省は翌12年(1879年)1月29日、軍の費用で城の修理を決定、危うく廃棄を免れることができたわけです。
中村重遠(なかむら・しげとう)は通称新一郎、進一郎とも。天保11年(1840年)12月2日、宿毛村大庄屋・小野弥源次義為の二男として生まれ、中村儀平の養子に。戊辰戦争には機勢隊を率いて北陸路を進みました。
明治4年(1871年)兵部省に出仕、同6年の征韓論では反対の立場に立ち、板垣退助らとは袂を別ちました。佐賀の乱や西南の役には熊本鎮台の参謀として谷干城を助けて活躍しました。
明治17年(1884年)2月22日、病気のため東京の家で死亡、青山墓地に葬られました。45歳の若さでした。人となりは『高知県人名事典新版』(高知新聞社刊)574ページにあります。
姫路城の異称は白鷺城、フリー百科辞典ウィキペディアによりますと「はくろじょう」と読むのが正解ということです。典拠は財団法人日本城郭協会監修の『日本100名城公式ガイドブック』。
「しらさぎじょう」とばかり思っていましたが、城の異称は音読みが普通ということです。
『土佐史談』85号から「中村大佐顕彰碑」の全文を掲げておきます。文は切れ目なく追い込みで書かれていますが、読みにくいので段落をつけました。
國宝姫路城ハ豊公創業以来悠久三百年ノ歴史ヲ有シ天下ノ名城トシテ知ラル
明治初年國費ノ急激ナル伸暢ニ伴ヒ國費多端ニシテ城郭ノ保存修繕ノ余裕ナキヲ以テ名古屋城ト共ニ廃毀ノ議廟堂ニ起ル
時ノ第四局長代理中村重遠大佐痛ク之ヲ惜ミ百方要路ヲ説得シ且山縣陸軍卿ニ是等二城ノ存置方建白書ヲ提出シ屡々其ノ芸術的城砦的価値ヲ開陳スル所アリタリ
其ノ結果明治十二年一月二十九日廃毀取止ノ指令ニ接ス
姫路城ノ今日アル実ニ大佐ノ高邁ナル識見ニ基キ建白セラレタル賜ナリ
大佐ハ高知縣飯尾ニ生レ質実剛介ニシテ信義ヲ重ジ經史ニ通ジ文武兼備ノ典型的武人ナリ
壮クシテ戊辰佐賀西南ノ役ニ従ヒ屡々帷幄ニ参ジ歴戦ノ勲績赫々タルモノアリ将来ヲ嘱目セラレシ所不幸病ヲ得テ明治十七年二月二十二日溘焉長逝セラレ享年四十五遺骸ヲ東京青山ノ墓地ニ葬ル
後年其ノ墓碑ヲ建ツルニ方リ特ニ山縣元帥ノ篆額ト谷干城ノ碑文ヲ刻ム以テ大佐ノ偉大ナル器質ヲ窺フニ足ラン
現司法大臣岩村通世閣下ハ大佐ト郷を同シウシ其ノ父君大佐ト親交アリ為ニ是等ノ文献ヲ余ニ提供セラル洵ニ景仰措ク能ハズ乃テ関係有志相謀リ顕彰碑を有縁ノ城内ニ建テ以テ其ノ偉績ヲ後毘ニ傳フ
昭和十九年三月 姫路市長 原惣兵衛
碑文の下には次の53人の名が刻まれています。
会長 姫路市長衆議院議員正五位勲三等原惣兵衛
名誉顧問 貴族院議員従三位勲三等伯爵酒井忠正
名誉顧問 司法大臣正五位勲一等 岩村通世
顧問 衆議院議員正五位勲三等法学博士清瀬一郎
顧問 衆議院議員正五位勲三等 田中武雄
顧問 元姫路市長従四位勲三等 田寺俊信
顧問 元姫路市長 杉山義治
委員 姫路市会議員
藤田三次 沖塩新三郎 津田伊三次 高田甲子郎
原浅次 塚本吉次郎 尾田徳次 植田惣吉
北川治郎松 長沢慶次 下間善郷 北角木作
柳沢丈吉 山本清吉 龍田三郎 飯塚隆重
津田政治 細田作一 佐伯成道 岡本佐太郎
矢野善寛 美根慶次郎 林長四郎 石坂静雄
竹田寛一 前田善雄 菅野善太郎 志水輝男
宝角萬蔵 津田儀作 小松九平
町内会聨合会長
堀怖平 中島吉太郎 小林敬次 飯塚勘太夫
尾上市平 藤本辰次 小林永太郎 瀬渡頼雄
幹事 姫路市助役 横山攝治
有政課長 谷本初治
文部省技手 岩崎久太郎
市立高女嘱託 吉織利貞
庶務課長 中塚亀市
土木課長 倉賀野貢
土木技師 藤井陸二
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
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龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
参加希望の方は実施予定日の1週間前までに必ず「ハガキ」でお申し込みください。定員いっぱいになり次第締め切らせていただきます(土佐史談会会員を優先いたします)。
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2009.09.07
(53)土佐史談会へのお誘い
今回は土佐史談会へのお誘いをさしていただきます。
土佐史談会(高橋正会長)はただいま年間長期シリーズとして「龍馬学10講座」を開催、好評を得ております。
このような郷土史講座や『土佐史談』の発行、史跡めぐりなどの活動を通じ県民文化の向上目指して(会則第2条)お手伝いをさして貰ってきました。
会の歴史を振り返りますと、土佐史談会が中城直正・武市佐市郎両氏の呼び掛けで正式に発足したのは大正6年(1917年)。事務所は高知県庁内の県史編纂室に置かれ、機関誌の名前も当初は『土佐史壇』でした。創刊号の発行日は大正6年9月23日となっています。今の『土佐史談』になったのは昭和2年の第18号からであります。
今年は92年目、戦争で一時中断はありましたが、この間、寺石正路・松山秀美・関田駒吉・平尾道雄・横川末吉氏ら優れた歴史家がこの会と機関誌を舞台に活動されました。
あまり知られていませんが、この会には前史があります。
明治末期、維新志士の生き残りで新聞記者だった三宅建海翁(本名謙四郎)を中心とした郷土史を語る会合が五藤正形邸や竹林寺で開かれています。
機関誌も発行していました。『土佐図書倶楽部』と題した雑誌です。 明治40年(102年前の1907年)1月に誕生し、大正4年1月の97号まで続きました。
「坂本龍馬号」「武市瑞山号」「鹿持雅澄号」といった特集号もあり、
寺石正路「土佐に於ける工商芸技の濫觴」
「維新前高知の物価」「高知城」
武市佐市郎「土佐勤王党」「土佐足軽」
「高知県の小作制度」
伊藤乗興「土佐に於ける書道」
野島虎猪「野中兼山先生の兵制」
山崎新市「中村に於ける山内氏の支藩に就いて」
など、内容の濃いものがあり、また貴重な史料も数多く収録されています。(『土佐史談』184号から)
県内には全部を所蔵している人はなく幻の書とされていましたが、平成2年に至って復刻、高知県立図書館に6巻に合冊されて収蔵されています。欠号や欠頁のあるのはやむを得ません。
このような伝統ある土佐史談会に入って、皆さん、一緒に勉強しましょう。年会費は5000円です。4月1日に始まり翌年3月31日までを1年とする会費で月割り制度はありませんが、途中入会の方には直前3冊の『土佐史談』を贈呈してフル期間在籍の扱いとさしていただいています。
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
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龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
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土佐史談会(高橋正会長)はただいま年間長期シリーズとして「龍馬学10講座」を開催、好評を得ております。
このような郷土史講座や『土佐史談』の発行、史跡めぐりなどの活動を通じ県民文化の向上目指して(会則第2条)お手伝いをさして貰ってきました。
会の歴史を振り返りますと、土佐史談会が中城直正・武市佐市郎両氏の呼び掛けで正式に発足したのは大正6年(1917年)。事務所は高知県庁内の県史編纂室に置かれ、機関誌の名前も当初は『土佐史壇』でした。創刊号の発行日は大正6年9月23日となっています。今の『土佐史談』になったのは昭和2年の第18号からであります。
今年は92年目、戦争で一時中断はありましたが、この間、寺石正路・松山秀美・関田駒吉・平尾道雄・横川末吉氏ら優れた歴史家がこの会と機関誌を舞台に活動されました。
あまり知られていませんが、この会には前史があります。
明治末期、維新志士の生き残りで新聞記者だった三宅建海翁(本名謙四郎)を中心とした郷土史を語る会合が五藤正形邸や竹林寺で開かれています。
機関誌も発行していました。『土佐図書倶楽部』と題した雑誌です。 明治40年(102年前の1907年)1月に誕生し、大正4年1月の97号まで続きました。
「坂本龍馬号」「武市瑞山号」「鹿持雅澄号」といった特集号もあり、
寺石正路「土佐に於ける工商芸技の濫觴」
「維新前高知の物価」「高知城」
武市佐市郎「土佐勤王党」「土佐足軽」
「高知県の小作制度」
伊藤乗興「土佐に於ける書道」
野島虎猪「野中兼山先生の兵制」
山崎新市「中村に於ける山内氏の支藩に就いて」
など、内容の濃いものがあり、また貴重な史料も数多く収録されています。(『土佐史談』184号から)
県内には全部を所蔵している人はなく幻の書とされていましたが、平成2年に至って復刻、高知県立図書館に6巻に合冊されて収蔵されています。欠号や欠頁のあるのはやむを得ません。
このような伝統ある土佐史談会に入って、皆さん、一緒に勉強しましょう。年会費は5000円です。4月1日に始まり翌年3月31日までを1年とする会費で月割り制度はありませんが、途中入会の方には直前3冊の『土佐史談』を贈呈してフル期間在籍の扱いとさしていただいています。
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場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船(了)
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
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