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2009.08.31
(番外)政権交代・わが家は増税
民主党のマニフェストに扶養控除・配偶者控除を廃止するとある。こども手当の財源だそうである。その民主党が勝った。
後期高齢者夫婦2人のわが家には痛い。38万円の配偶者控除を引いて、この2月に提出した確定申告書を計算し直してみると19,000円の増税である。
わが夫婦は幸なことに、まだ介護保険の厄介になるほど痛んではいない。しかし見回してみると、お互い傷口を舐め合いながら老老介護で毎日を過ごしている家庭がある。こんな家庭からも税を増徴するのであろうか。
こんなむごい財源捜しをするより、320億円という政党助成金を差し出すのが先ではないか。私たち庶民が何かグループを作って活動するとき、会費を出し合って資金とする。びっくりするほどの報酬を得ながら、自分らの活動に税金を使って恥じない無神経さ。
ほとんど見ていただけない、ささやかなブログながら、場違いを承知であえて抗議する。
後期高齢者夫婦2人のわが家には痛い。38万円の配偶者控除を引いて、この2月に提出した確定申告書を計算し直してみると19,000円の増税である。
わが夫婦は幸なことに、まだ介護保険の厄介になるほど痛んではいない。しかし見回してみると、お互い傷口を舐め合いながら老老介護で毎日を過ごしている家庭がある。こんな家庭からも税を増徴するのであろうか。
こんなむごい財源捜しをするより、320億円という政党助成金を差し出すのが先ではないか。私たち庶民が何かグループを作って活動するとき、会費を出し合って資金とする。びっくりするほどの報酬を得ながら、自分らの活動に税金を使って恥じない無神経さ。
ほとんど見ていただけない、ささやかなブログながら、場違いを承知であえて抗議する。
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2009.08.28
(52)推理・兆民先生の辞令

中江兆民先生(高知県人名事典新版=高知新聞社刊=から拝借)
昭和63年7月に刊行された『山内家史料 幕末維新第13編』424ぺージ下段に次のような簡単な辞令が載っている。
中江篤助
右ハ佛学修行被仰付之
十二月三日
この辞令には発令者の名がないが、「高知藩誌」を記録したものであることから高知藩当局であろう。
また日付が「明治3年12月3日」であることは、この史料が明治3年3月4日から同4年5月末日までの記録集であることからわかる。
とすると、この辞令にどんな意味があるのだろうか。
中江兆民が「英学爲修行方」長崎行きを命ぜられたのは慶応元年9月で、この辞令はそれから5年余りたっている。江戸、横浜、兵庫と移って再び東京へ戻ってきて、この年の5月には大学南校の先生としてフランス語を教える立場に立っている。
いまさら仏学修行を仰せ付けられることもあるまい。
兆民が長崎行きの藩命を受けた目的は「英学」を勉強するためであった。しかし、どんな事情があったのか、修行したのは「フランス学」であった。
幕末の土佐藩で藩の意図に添わないこうした行動がどうして黙認されたのか。
勉学の内容は他人には見えないので黙っていれば分からないかもしれないが、東京や横浜へ移ることについては、個人の勝手が許されるはずがない。
東上については参政・後藤象二郎に船賃25両を出してもらっているから、これが藩の了解とみなされるかもしれないが、正式な変更手続きがされた形跡はなさそうである。
そして兆民は明治3年、徴士として大学南校に採用される。同じ『山内家史料 幕末維新第13編』418ぺージ下段にはこうある。
[高知藩誌]徴士
中江篤助
大石監次郎
右篤助儀ハ大得業生監次郎ハ中得業生
申付候爲御心得此段申達候也
庚午五月廿四日 大学南校
これにより、中江兆民が大学南校の大得業生に発令されたのは明治3年5月24日であることが分かる。兆民24歳であった。
また同書424ぺージには、この人事を高知藩知事へ通知した次のような記事も載っている。
[高知藩誌]徴士類
中江篤助
大石監次郎
右篤肋儀ハ大得業生監二郎ハ中得業生
申付候爲御心得此段申達候也
庚午五月廿四日 辨官
高知藩知事殿
徴士とは明治新政府が諸藩から引き抜いた有識者。太政官日誌によるとこうなる。
「無定員、諸藩士及都鄙有才ノ者、公議ニ執リ抜擢セラル、則徴士ト命ズ」。
そして「参与職各局ノ判事ニ任ズ、又其一官ヲ命ジテ参与職ニ任ゼザル者アリ、在職四年ニシテ退ク、広ク賢才ニ譲ルヲ要トス、若其人当器尚退クベカラザル者ハ、又四年ヲ延テ八年トス、衆議ニ執ルベシ」(『新聞集成明治編年史』第一巻15ぺージ)
ここに出てくる大学教官としての得業生とは博士、教授、助教に次ぐ身分で、大博士、中博士、少博士というふうに各々大、中、少の三階級に分かれていた。なじみ薄い言葉だが、天平時代(730年代)に使われた呼び名の復活である。ただし古代の読み方は『とくごうしょう』(広辞苑)。
兆民と並んで名前のあがっている大石監次郎(監二郎)は、香美郡吉川村の生まれ、英学を修め、高知師範学校長などを務めた人物で、兆民より四歳年上である。『高知県人名事典(新版)」には大石監二の名前で紹介されている。
これに先立つ明治2年高知藩は、国を出て学ぶ人士のために留学手当を支給する制度を定めた。昭和44年10月に高知市民図書館から発行された『土佐藩政録』(高知地方史研究会編、土佐群書集成第二十巻)の明治2年8月の条には次のようにある。
是月藩士文武修行ノ爲メ他藩並横浜等ニ学フ者ニ米金ヲ給与スルノ制ヲ改ム
但修業ヲ命スル輩ハ階級ヲ論セス月金五円ヲ給ス(同書下巻59ぺージ)
兆民が明治34年8月30日付石黒忠悳男爵宛の手紙(中江兆民全集16』226ぺージ)で回想した月5円の手当はこの制度に基づく給与であろう。
兆民はこの学資を受けていた時期について「裡神保町なる箕作麟祥先生之私塾ニ居候」と書いている(前掲石黒忠悳宛書簡)。
その麟祥が神田南神保町に塾を開いていたのは明治2年5月から同4年2月までといわれる。
冒頭の仏学修行を仰せ付けるという辞令はこの手当を支給するため、あるいは支給を受けるため、兆民の身辺を整理したものと考えることはできないか。
英学修行のため長崎にいることになっている兆民は、この辞令によって現状を追認され、藩費を受ける条件が整ったのではないだろうか。
(土佐史談219号から)

中江兆民先生誕生地の碑(高知市はりまや町3丁目)。近くの山田橋の南詰めに付近の案内板があるが少々探しづらい。北から2番目の路地。
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2009.08.21
(51)河田小龍という人(下)
『夢の浮世老の道行』から
河田小龍が他の画人に比べて詩文を能くしたのは岡本寧浦に師事し、奥宮慥斎に兄事したからでしょう。
明治21年春、小龍は県東部廻りで京都に上ります。翌年から京都府知事・北垣国道(元高知県令)に請われて琵琶湖疏水事業の記録図役を勤めるのですが、その道中を得意の軽妙な筆と本職のスケッチで『夢の浮世老の道行』という紀行文にまとめます。こんな調子です。
「高知を出でゝのろのろと。野市の里や赤岡の。あかぬながめは岸本の。岸うつ波も浦安の。夜須。手結越して矢ながれや。盡きぬ流も深かれと。しんじやう過ぎてあきたらぬ。遊も多き大山を。打越し行けばなぶらなだ。誰になぶられ笑はれうが。なにかまはずるたうたうと。沙ふみ立てゝ唐の濱。心安くも安田川。なほだまされん田野の里。なんと奈半里の濱傳ひ。なに中山も打越せば。羽根も生なんおもひにて。きらきら見ゆるならしがた。濱の眞沙も拾ひとり。うかうか來る浮津浦。室津の里の室の梅。馨を添へて咲の濱。野根のあさねも白濱や。白けた朝に下戸ながら。甲ノ浦邊のさて一ツ。猪喰までも追詰めて。とくりとものを徳島に著くや夜舟も難波津の。かた葉のあしにすれ違ふ。汽車の烟の絶間なき。都の室にいざやいそがん。」
次々と地名を織り込みながらリズム感あふれる文章が続きます。
ところで、7月3日の第44回に「さいとう・べっとう・さーねもり」の題で各地の虫送り習俗について書きました。そのなかでは紹介できませんでしたが、『夢の浮世老の道行』のなかに小龍が見かけた室戸の虫送り行事の描写があります。
「此里(佐喜濱)に珍らしき祭あり。舊暦五月二十日てふ日に當れば。村々の民共白絹の幟を作り。其尖へ赤き絹を附け。これを縦横に振り廻し。二流踊り行けば。其迹邊には鐘を打ち太皷を撃ち。さまざまの装して。鐘を打つ者は低く踊りて歩み。大皷を撃つ者は高く歩みて踊り。其足取のあやしき。喩へん方もなし。去るに其童子共は皆々能く其業を習ひ覚えし者と見え。調べのよきは是亦不思議なる事にこそなん。各々村々より斯く踊り出し。河原へ出づれば。一群圓く立ちならび。太皷うつ者の中にて。其頭して謡を歌へり。
其謡を聴くに「源の牛若丸母の懐を離れ出てより。鞍馬山に住みて人と為り。國々巡り陸奥の國へと赴きける。頃しも春の末つかた。櫻、山吹咲き乱れたる家の中に娘のあるに縁を求め」なんど。総て牛若丸人と為りて。驕る平家を亡したる抔の事共を細やかに謡ひ。又、袂の如くに一ながれに連りたどり。踊などして町中へまで廻り。湊の邊にて又、前の如く踊などして。幾群と斯くの有様にて。其處や此處やにつどへる事の可笑さ喩へん方なし。
これを実盛祭とも送蝗祭ともいひなせり。
惣して土佐國は土佐、吾川、長岡、香美の四郡を中土佐と称へ。安藝の郡を上土佐といひ。高岡、幡多両郡を下土佐といへり。下土佐ハ知らねども。中土佐も虫送てふものあれども。皆、鐘皷のみ打鳴して虫を逐ふの様を爲しけることは多けれども。斯る珍らしき虫送ハ見聞せしことなし。又、此處へ斯る時に行逢ふことのありけるハ。これぞ旅の土産とこそいはん。」
長々と引用しました小龍の紀行文には軽妙なスケッチ画も添えられていたといわれますが、残念ながら現存しないということです(鍵岡正謹著『河田小龍 人と作品』)。高知県立美術館が平成15年に開いた展覧会の図録(同美術館発行、3500円)にも当然ながら載っていません。戦前の土佐史談56号(昭和11年)に松村巌氏が抄録した文章でその一部を知るのみであります。 (おわり)
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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-854-5566
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
場所 高知県立文学館ホール
時間 午後1時半~3時半の2時間
日程 講師 講座内容
5月27日(水)岩崎義郎 坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流(了)
6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)(了)
7月29日(水)三浦夏樹 土佐勤王党と脱藩事情(了)
8月 1日(土)佐藤寿良 龍馬と海舟、神戸海軍操練所(了)
9月 5日(土)渋谷雅之 龍馬、長崎、船
10月 3日(土)豊田満広 薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司 龍馬・中岡の死とその背景
1月17日(日)谷是 龍馬死後の海援隊とその思想の継承
2月 6日(土)高橋正 文学に描かれた龍馬像
参加希望の方は実施予定日の1週間前までに必ず「ハガキ」でお申し込みください。定員いっぱいになり次第締め切らせていただきます(土佐史談会会員を優先いたします)。
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明治21年春、小龍は県東部廻りで京都に上ります。翌年から京都府知事・北垣国道(元高知県令)に請われて琵琶湖疏水事業の記録図役を勤めるのですが、その道中を得意の軽妙な筆と本職のスケッチで『夢の浮世老の道行』という紀行文にまとめます。こんな調子です。
「高知を出でゝのろのろと。野市の里や赤岡の。あかぬながめは岸本の。岸うつ波も浦安の。夜須。手結越して矢ながれや。盡きぬ流も深かれと。しんじやう過ぎてあきたらぬ。遊も多き大山を。打越し行けばなぶらなだ。誰になぶられ笑はれうが。なにかまはずるたうたうと。沙ふみ立てゝ唐の濱。心安くも安田川。なほだまされん田野の里。なんと奈半里の濱傳ひ。なに中山も打越せば。羽根も生なんおもひにて。きらきら見ゆるならしがた。濱の眞沙も拾ひとり。うかうか來る浮津浦。室津の里の室の梅。馨を添へて咲の濱。野根のあさねも白濱や。白けた朝に下戸ながら。甲ノ浦邊のさて一ツ。猪喰までも追詰めて。とくりとものを徳島に著くや夜舟も難波津の。かた葉のあしにすれ違ふ。汽車の烟の絶間なき。都の室にいざやいそがん。」
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「此里(佐喜濱)に珍らしき祭あり。舊暦五月二十日てふ日に當れば。村々の民共白絹の幟を作り。其尖へ赤き絹を附け。これを縦横に振り廻し。二流踊り行けば。其迹邊には鐘を打ち太皷を撃ち。さまざまの装して。鐘を打つ者は低く踊りて歩み。大皷を撃つ者は高く歩みて踊り。其足取のあやしき。喩へん方もなし。去るに其童子共は皆々能く其業を習ひ覚えし者と見え。調べのよきは是亦不思議なる事にこそなん。各々村々より斯く踊り出し。河原へ出づれば。一群圓く立ちならび。太皷うつ者の中にて。其頭して謡を歌へり。
其謡を聴くに「源の牛若丸母の懐を離れ出てより。鞍馬山に住みて人と為り。國々巡り陸奥の國へと赴きける。頃しも春の末つかた。櫻、山吹咲き乱れたる家の中に娘のあるに縁を求め」なんど。総て牛若丸人と為りて。驕る平家を亡したる抔の事共を細やかに謡ひ。又、袂の如くに一ながれに連りたどり。踊などして町中へまで廻り。湊の邊にて又、前の如く踊などして。幾群と斯くの有様にて。其處や此處やにつどへる事の可笑さ喩へん方なし。
これを実盛祭とも送蝗祭ともいひなせり。
惣して土佐國は土佐、吾川、長岡、香美の四郡を中土佐と称へ。安藝の郡を上土佐といひ。高岡、幡多両郡を下土佐といへり。下土佐ハ知らねども。中土佐も虫送てふものあれども。皆、鐘皷のみ打鳴して虫を逐ふの様を爲しけることは多けれども。斯る珍らしき虫送ハ見聞せしことなし。又、此處へ斯る時に行逢ふことのありけるハ。これぞ旅の土産とこそいはん。」
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2009.08.14
(50)河田小龍という人(上)

龍馬海援隊を生んだ思想
河田小龍(1824~1898=明治31年、75歳)、「かわだ・しょうりょう」と読みます。アメリカ帰りの中浜万次郎に聞き書きした『漂巽紀略』(ひょうそんきりゃく、巽=たつみ=南東の方角に流された物語のあらまし)を著わしたことで有名です。
本職は画家ですが、多芸であります。詩を作り文も達者、書を能くし、狂歌を好みました。その号も小梁、松梁、笑龍などのほか■山(はざん、■=白へんに番)、鱗長、半舫斎、大巧、玉琳、翠竹、鄙人銭聾、鬼国山樵、青柳橋人、おたつなどを使い分け多彩です。
■山とは白髪山に因むそうです。虚瓢子舞迂(からじしぶう)というのもあります。人前をはばからず平気でブウをする癖があったそうで、その音を「舞迂」の文字に置き換えて名乗ったようです。姓も川田を名乗った時期がありました。(土佐史談56号=昭和11年=松村巌「河田小龍」)
平成17年3月28日、高知市南はりまや町の電車通り脇に「河田小龍生誕地・墨雲洞跡」碑が建てられました。料亭得月楼本店東側、消防署南町分団の北側で、小龍の生まれた所から30㍍ほど離れているということです。
碑には次のように刻まれています。
「名は維鶴(これたつ)、別号小梁、■山など。文政七年、土生玉助・礼子の長男として旧浦戸町片町(南方30m)に生。画は島本蘭渓、儒を岡本寧浦、京に上り狩野永岳、中林竹洞、長崎の木下逸雲に学び、南北合派を修得、蘭学画風を土佐に伝えた。嘉永五年米国から帰郷した中浜万次郎とここで寝食を共にし『漂巽紀略』を著し日本の開国に益した。のち築屋敷の仮寓先で青年坂本龍馬に世界の情勢を語り洋船操縦技術習得の急務を述べ、後に亀山社中土佐海援隊で活躍した長岡謙吉、近藤長次郎、新宮馬之助らは小龍の弟子である。この地は膨大な画人や志士達に新思想を鼓吹啓蒙した記念すべき土地である。ここにこの碑を残し、永く後世に伝わらんことを願望する。」
建碑に至る経緯は土佐史談232号に土佐史談会の谷是副会長が表紙の解説として書いていますが、小龍の海軍論が龍馬の海援隊創設につながっていると言っても過言ではないでしょう。
『龍馬を創った男 河田小龍』というタイトルをうたった本も出版されています(桑原恭子著、新人物往来社、平成5年)。 (つづく)
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2009.08.07
(49)今村WARAU伝(第15回・最終回)
第五章 貴族院勅選議員への道
貴族院議員と行政裁判院評定官
今村は明治23年1月10日付で法制部長に昇進、7月7日には第3部長に変わる。これは官制の改正に伴う呼び名の変更で、従来の行政部が2つに分かれて、第1部が内務、外務、軍制、教育の担当、第2部が財務、勧業、運輸、通信の担当、第3部は法制部と司法部の仕事を合わせ所管することになったためである。
今村が内閣法制局参事官時代の22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、同時に議員法、貴族院令、衆議院議員選挙法が公布された。
そして23年中の帝国議会開会に向けて諸準備が進められた。
7月には第1回総選挙が行われて衆議院議員が決定、貴族院議員も次々と顔ぶれが固まりつつあった。
貴族院令(勅令第11号)第1条によると、貴族院は次の議員で組織されるとされた。
1、皇族(男子成年に達したるとき)
2、公侯爵(満25歳に達したるとき)
3、伯子男爵(おのおのその同爵中より選挙せられたる者(満25歳に達したるとき、任期7年)
4、国家に勲労あり、または学識ある者より特に勅任せられたる者。
5、各府県において土地或は工業商業につき多額の直接国税を納むる者の中より1人を互選して勅任せられたる者、 満30歳以上の男子、任期は7年。
第4項は勅選議員と呼ばれ、最後まで決まらなかったが、23年9月29日になって59人(その後2人を追加)が決まった。
今村和郎は法制局部長として他の尾崎三良、平田東助とともに選に入った。
ちなみに、このとき高知県出身者で第4項勅選議員に選ばれたのは小畑美稲、細川潤次郎、岡内重俊、岩村通俊(以上元老院議官)、川田小一郎、岩崎弥之助(以上民間)の各氏である。
24年1月28日、今村は行政裁判院評定官に任命される。
行政裁判院とは明治憲法第61条が行政事件の裁判を司法裁判から分離する方針をとったため23年10月1日に行政裁判法(23年法律48号)に基づいて設けられた1審制の裁判所で、全国にただ1カ所東京に置かれた。裁判官に当たる評定官は5年以上高等行政官または裁判官の経験がある30歳以上の者の中から内閣の推薦で任命された。衆議院議員と地方議員はなれなかったが、その他は兼官が許されていた。
44歳の若さで死亡
今村和郎は明治24年3月3日付で「願いにより」貴族院議員を辞職する。貴族院勅選議員は貴族院令第5条によって終身議員と定められていたが、病気(肺結核)のため自ら身を引いた。
3月6日の貴族院本会議で議長の伊藤博文伯爵から議事に先立って報告された。
伊藤議長の発言内容を掲げておく。
「私は先日以来病気に付て長く引きこもっておりましたでございます。未だ全く平癒とも心得ませぬが、議会閉会の期も近きに迫りましたでございまするに依って一両日前に出京いたしました。昨日も是非出席いたしたいと存じましたが、何分病後で神経痛を起しまして遂に昨日も出席を怠りましたが、きょうはやや軽快を覚えまするによって出席いたしました。しかるに長らく引きこもっておりました故に、ことにやや病後疲労も感じておりまするから、議事上の整理においても或いは不十分なる所なきにしもあらずかと恐れまするので、その辺はあらかじめご寛恕を乞うておきたいと存じます。万一間違いをいたしました節には誤正いたしまするつもりでござりまする。その辺をお断り申しておきます。かつ音声も十分ならぬかも知れませぬ。何分切迫しておりまする今日のことでござりまするによって本日は是非出席するようにという段々の勧告もありましたによって出席をいたしましたのでござります。
本日の議事を開きまする前にご報道に及びまする事件が2項ありまする。
第1、去る3日今村和郎君の辞職を勅許せられたり、第2、昨5日三浦君より32人の賛成者をもって政府に対する質問趣意書提出したるにより同日これを政府に提出せり。この2件が報道でござります。
次は本日の議事日程によりまして予算案前回の続きを開きます。ただいま書記官に命じて朗読いたさせます。(貴族院第1回通常会議事速記録第44号から)
今村和郎は辞任後わずか2カ月で死亡する。明治24年(1891年)5月6日、44歳8カ月の若さであった。死の前々日特旨をもって正四位勲五等に叙せられた。
墓は東京小石川の音羽護国寺にある。
彼の人間味については次の文章から想像願いたい。
「先生のわが校にありて法学教授の労をとらるるや全心全力を尽くして反復丁寧、斯学の精粋を授けらるること数年1日の如く、その校堂に臨まるるや温然たる容顔、懇切なる言辞、生等あたかも嬰児の父母を慕うの情ありし……ああ悲しいかな、先生幼きより志節を負い気高く志遠く研磨深邃(しんすい)舌鋒火の燃えるが如く…」 (明治法律学校生徒代表・柳川寅吉の弔辞から)
【補遺】今村和郎の末弟・猪吉については先に触れたが、立志学舎の成績表(明治9年12月の勤惰表、同10年7月の勤怠表、同10歳下半季の大小試験并勤惰表=12月、いずれも高知市民図書館蔵)に「今村猪吉」の名がある。
別人でなければ安政3年(1855年)の生まれだから当時21~2歳。父・治之助はすでに亡く、兄・和郎は在フランスだが、母・烈は生きており、まだ高知に居たことが知れる。ただ猪吉は士族の子弟ではない。ここに疑問も残るが、士族救済のため明治7年に設置された立志社が商家の子弟をも受け入れていた1つの証明にもなろうか。

後列右から3番目が今村猪吉(和郎の弟)。その右が妻の順。(順は和郎の妻でしたが子供は2人とも夭折、夫と死別したあと猪吉と再婚して家系を守った)。文中に出てきた今村耕太郎は猪吉・順夫婦の孫。この写真を提供してくれたのは今村本家の良夫(この写真では前列右から2番目に帽子をかぶった少年)。大正14年(1925年)政屋今村いとこ会なる集まりだということでした。耕太郎も良夫も平成18年相次いで鬼籍に入りました(敬称略)。
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貴族院議員と行政裁判院評定官
今村は明治23年1月10日付で法制部長に昇進、7月7日には第3部長に変わる。これは官制の改正に伴う呼び名の変更で、従来の行政部が2つに分かれて、第1部が内務、外務、軍制、教育の担当、第2部が財務、勧業、運輸、通信の担当、第3部は法制部と司法部の仕事を合わせ所管することになったためである。
今村が内閣法制局参事官時代の22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、同時に議員法、貴族院令、衆議院議員選挙法が公布された。
そして23年中の帝国議会開会に向けて諸準備が進められた。
7月には第1回総選挙が行われて衆議院議員が決定、貴族院議員も次々と顔ぶれが固まりつつあった。
貴族院令(勅令第11号)第1条によると、貴族院は次の議員で組織されるとされた。
1、皇族(男子成年に達したるとき)
2、公侯爵(満25歳に達したるとき)
3、伯子男爵(おのおのその同爵中より選挙せられたる者(満25歳に達したるとき、任期7年)
4、国家に勲労あり、または学識ある者より特に勅任せられたる者。
5、各府県において土地或は工業商業につき多額の直接国税を納むる者の中より1人を互選して勅任せられたる者、 満30歳以上の男子、任期は7年。
第4項は勅選議員と呼ばれ、最後まで決まらなかったが、23年9月29日になって59人(その後2人を追加)が決まった。
今村和郎は法制局部長として他の尾崎三良、平田東助とともに選に入った。
ちなみに、このとき高知県出身者で第4項勅選議員に選ばれたのは小畑美稲、細川潤次郎、岡内重俊、岩村通俊(以上元老院議官)、川田小一郎、岩崎弥之助(以上民間)の各氏である。
24年1月28日、今村は行政裁判院評定官に任命される。
行政裁判院とは明治憲法第61条が行政事件の裁判を司法裁判から分離する方針をとったため23年10月1日に行政裁判法(23年法律48号)に基づいて設けられた1審制の裁判所で、全国にただ1カ所東京に置かれた。裁判官に当たる評定官は5年以上高等行政官または裁判官の経験がある30歳以上の者の中から内閣の推薦で任命された。衆議院議員と地方議員はなれなかったが、その他は兼官が許されていた。
44歳の若さで死亡
今村和郎は明治24年3月3日付で「願いにより」貴族院議員を辞職する。貴族院勅選議員は貴族院令第5条によって終身議員と定められていたが、病気(肺結核)のため自ら身を引いた。
3月6日の貴族院本会議で議長の伊藤博文伯爵から議事に先立って報告された。
伊藤議長の発言内容を掲げておく。
「私は先日以来病気に付て長く引きこもっておりましたでございます。未だ全く平癒とも心得ませぬが、議会閉会の期も近きに迫りましたでございまするに依って一両日前に出京いたしました。昨日も是非出席いたしたいと存じましたが、何分病後で神経痛を起しまして遂に昨日も出席を怠りましたが、きょうはやや軽快を覚えまするによって出席いたしました。しかるに長らく引きこもっておりました故に、ことにやや病後疲労も感じておりまするから、議事上の整理においても或いは不十分なる所なきにしもあらずかと恐れまするので、その辺はあらかじめご寛恕を乞うておきたいと存じます。万一間違いをいたしました節には誤正いたしまするつもりでござりまする。その辺をお断り申しておきます。かつ音声も十分ならぬかも知れませぬ。何分切迫しておりまする今日のことでござりまするによって本日は是非出席するようにという段々の勧告もありましたによって出席をいたしましたのでござります。
本日の議事を開きまする前にご報道に及びまする事件が2項ありまする。
第1、去る3日今村和郎君の辞職を勅許せられたり、第2、昨5日三浦君より32人の賛成者をもって政府に対する質問趣意書提出したるにより同日これを政府に提出せり。この2件が報道でござります。
次は本日の議事日程によりまして予算案前回の続きを開きます。ただいま書記官に命じて朗読いたさせます。(貴族院第1回通常会議事速記録第44号から)
今村和郎は辞任後わずか2カ月で死亡する。明治24年(1891年)5月6日、44歳8カ月の若さであった。死の前々日特旨をもって正四位勲五等に叙せられた。
墓は東京小石川の音羽護国寺にある。
彼の人間味については次の文章から想像願いたい。
「先生のわが校にありて法学教授の労をとらるるや全心全力を尽くして反復丁寧、斯学の精粋を授けらるること数年1日の如く、その校堂に臨まるるや温然たる容顔、懇切なる言辞、生等あたかも嬰児の父母を慕うの情ありし……ああ悲しいかな、先生幼きより志節を負い気高く志遠く研磨深邃(しんすい)舌鋒火の燃えるが如く…」 (明治法律学校生徒代表・柳川寅吉の弔辞から)
【補遺】今村和郎の末弟・猪吉については先に触れたが、立志学舎の成績表(明治9年12月の勤惰表、同10年7月の勤怠表、同10歳下半季の大小試験并勤惰表=12月、いずれも高知市民図書館蔵)に「今村猪吉」の名がある。
別人でなければ安政3年(1855年)の生まれだから当時21~2歳。父・治之助はすでに亡く、兄・和郎は在フランスだが、母・烈は生きており、まだ高知に居たことが知れる。ただ猪吉は士族の子弟ではない。ここに疑問も残るが、士族救済のため明治7年に設置された立志社が商家の子弟をも受け入れていた1つの証明にもなろうか。

後列右から3番目が今村猪吉(和郎の弟)。その右が妻の順。(順は和郎の妻でしたが子供は2人とも夭折、夫と死別したあと猪吉と再婚して家系を守った)。文中に出てきた今村耕太郎は猪吉・順夫婦の孫。この写真を提供してくれたのは今村本家の良夫(この写真では前列右から2番目に帽子をかぶった少年)。大正14年(1925年)政屋今村いとこ会なる集まりだということでした。耕太郎も良夫も平成18年相次いで鬼籍に入りました(敬称略)。
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