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  第1章 板垣退助洋行の添乗員

   自由民権を取り締まる側

 今村和郎は6年半のフランス生活(これは後で述べる)を終えて明治11年(1878年)6月11日に帰国したのち、太政官法制局で権少書記官に復帰(司法省兼務)、12年には内務省に移り、翌13年3月8日総務局取調局長(同9月7日からは権大書記官)に昇進していた。
 この時期、自由民権運動は愛国社の再興(11年)をきっかけに全国各地に民権結社が結成され、これら政治結社(政社)を組織化した運動が高揚期を迎えていた。
 ことに13年は国会期成同盟が片岡健吉らを代表として太政官に提出した「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書」に呼応して全国的に国会開設の請願行動が渦巻いた年である。
 政府はこの上願書を拒絶するとともに、運動への弾圧を強化した。今村は内務省の幹部書記官として集会条例起草者の内閣書記官・渡辺洪基を支えた。
 明治13年(1880年)4月5日、政府は太政官第12号布告をもってこの「集会条例」を公布する。

   苛令酷律の「集会条例」

 集会条例を紹介する。(原文は漢字カタカナ混じりだが、ひらがな混じりに直して清音の部分も読み方通り濁音とした。また句読点も入れた)。

 第1条 政治に関する事項を講談論議する為め公衆を集むる者は、開会3日前に講談論議の事項、講談論議する人の姓名、住所、会同の場所、年月日を詳記し其会主又は会長、幹事等より管轄警察所に届出て其認可を受くべし
 第2条 政治に関する事項を講談論議する為め結社する者は、結社前、其社名、社則、会場及び社員名簿を管轄警察署に届出て、其認可を受くべし。其社則を改正し、及び社員の出入ありたるときも同様たるべし。此届出を為すに当り警察署より尋問することあれば、社中の事は何事たりとも之に答弁すべし

 と、こまごました「しばり」を掛け、管轄警察署の権限で「国安に妨害ありと認むるとき」は認可を拒否していいことにした。屋外での政談演説会は駄目(第9条)、政治集会の広告や政社同士の連絡も次のように禁止された。

 第8条 政治に関する事項を講談論議する為め其旨趣を広告し、又は委員若くは文書を発して公衆を誘導し、又は他の社と連絡し及び通信往復することを得ず

 認可された政談演説会でも正服警察官の監視を受け(第5条)、その警察官は、主催者が「認可の証を開示せざるとき」、講談論議の内容が「届書に掲げざる事項に亘るとき」、「人を罪戻に教唆誘導するの意を含み、又は公衆の安寧に妨害ありと認むるとき」、集会に参加できない人、つまり第7条に規定する軍人や教員、生徒に「退去を命じて之に従はざるとき」は全会を解散する権限を与えられた。
 第10条から第15条までは罰則で、2年以下の禁獄または100円以下の罰金が規定されている。(同条例は全16条)
 『自由党史』はこの条例を評して「苟も名を政社に列する団結は、挙げて之を鉄圜中に擠せずんば已まざらんとするなり。苛令酷律の圧迫、漸く是時より熾ならんとす」と論難している。(同書五車楼版=上巻341ぺージ、岩波文庫版=上巻279ぺージ) (つづく)

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      龍馬学10講座-龍馬のすべて-(土佐史談会主催、定員100名、参加費無料)
         場所 高知県立文学館ホール
         時間 午後1時半~3時半の2時間
   日程      講師        講座内容
 5月27日(水)岩崎義郎  坂本龍馬の祖先明智説、龍馬の家族、龍馬の剣術修行と小栗流
 6月 7日(日)小美濃清明 江戸留学と国際情勢(品川)
 7月29日(水)三浦夏樹  土佐勤王党と脱藩事情
 8月 1日(土)佐藤寿良  龍馬と海舟、神戸海軍操練所
 9月 5日(土)渋谷雅之  龍馬、長崎、船
10月 3日(土)豊田満広  薩長連合、海援隊成立、岩崎との関係、いろは丸
11月 7日(土)広谷喜十郎 福井藩と龍馬との関係・大政奉還への道
12月 5日(土)松岡司    龍馬・中岡の死とその背景
 1月17日(日)谷是     龍馬死後の海援隊とその思想の継承
 2月 6日(土)高橋正    文学に描かれた龍馬像

 参加希望の方は実施予定日の1週間前までに必ず「ハガキ」でお申し込みください。定員いっぱいになり次第締め切らせていただきます(土佐史談会会員を優先いたします)。すべて受講される方、都合の良い月に受講される方は、その旨をハガキにお書きください。
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 土佐史談229、231、232号(平成17~18年)に連載させてもらった「今村WARAU伝」を何回かに分けて読んでいただきます。
 Webに乗せることによって広く識者の批判をいただき、この伝記をより完全なものにしたいためであります。

   第一章 板垣退助洋行の添乗員

   『自由党史』に名前4度

 明治初期、土佐の地から出て、得意のフランス語を駆使して世界にはばたいた青年がいた。今村和郎、「わろう」と名乗る(注1)。日本に国会が開設されたとき貴族院議員に勅選された高知県出身者7人のうちの1人だが、人物像は後世ほとんど伝えられていない。中江兆民や、西園寺公望の書物に名前だけは目にできるが、人となりまで踏み込んだ描写はない。

 (注1)「和郎」の正しい呼び方は何か「かずろう」や「かずお」とも読める。『議会制度70年史』は「かずろう」としている。和郎の弟、猪吉の孫、今村耕太郎氏(神奈川県在住だったが、平成19年に亡くなられた)の話では、家庭内での亡きおじいさんの呼び名は「わろう」だという。井田進也氏の研究によると「WARAU」「WARO」と書いた文書がフランス国内に残っているという。「わろう」と自称していた証明になる。(昭和62年12月、岩波書店発行『中江兆民のフランス』21および103ぺージ)

 彼の人生で一番輝いたのは板垣退助の通訳として外遊に随行したことではないか。『自由党史』(宇田友猪・和田三郎編纂、板垣退肋監修、明治43年3月18日印刷)には次の4カ所に名を残している。

 ①(明治15年7月のある日、後藤象二郎と板垣退肋は)「相伴ふて萬里観光の途に上るを約し、譯員今村和郎、自由新聞社員栗原亮一、此行に随ふに決す」(五車楼版=上巻682ページ、岩波文庫版=中巻207ぺージ)
 ②(板垣はこの外遊に際し馬場辰猪を通訳として同伴したいと希望し、馬場もまたそのつもりだったが)「後藤之を肯ぜず、疾く已に今村和郎に約を結び、又た動かすべからず」(五車楼版=上巻688ぺージ、岩波文庫版=中巻211ぺージ)
 ③「11月11日の期に至り、板垣は後藤と倶に、栗原亮一、及び譯員今村和郎を伴ひ、仏国郵船ボルガ号に搭じ、欧州に向て重洋に航せり」(五車楼版=上巻706ぺージ、岩波文庫版=中巻225ぺージ)
 ④「16年6月22日、自由党総理板垣退助欧州より帰朝す。去年11月、横浜を解纜せしより、茲に7閲月(中略)、5月13日、仏国郵船ペイオー号に搭じて馬耳塞(マルセイユ)を発し、6月15日、香港に於て同国郵船タイナス号に移乗して帰る。後藤は始め米国を経て帰朝する計画なりしも、中頃にして又た変更し、板垣と共に帰る。栗原亮一、今村和郎、其行を同ふすること出遊の時の如し」(五車楼版=下巻84ぺージ、岩波文庫版=中巻306ぺージ)

 4つのシーンとも、板垣自由党総理の外遊にからんでの登場である。後藤の、ほとんど横車とも思える強い推薦で一行に加えられた今村、この4カ所以外に名前が出てこないことからみると、自由民権の活動とは格別かかわりがなかったように見える。しかし『自由党史』の中では触れられていないが、彼は実はこの運動に対する体制側の政策を法制面から支えた有能な官僚の一人であった。(つづく)

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 慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋の2階で暗殺されました。その部屋の床の間に掛けてあった掛軸、梅に椿を配した一幅は淡海槐堂(板倉筑前介)の描いたものでした。
 この掛軸は近江屋井口家のものと思われていましたが、意外にもこの暗殺事件の直前、作者の槐堂が直接この部屋を訪れて龍馬に贈ったものだったと、立命館史学会員の西尾秋風氏が『土佐史談』170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)に書いています。
 西尾氏は、槐堂の弟・江馬天江の孫で日本風俗史の大家であった江馬務が発掘して書き残した文章、
 「槐堂と龍馬は常に親交していた様子で、龍馬の横死した夜も槐堂は、龍馬をその河原町の寓居(近江屋)に尋ね、深夜まで時事を談じたが、この夜槐堂は龍馬へ一幅の自画の梅軸を贈り、龍馬は喜んでこれを床の間に掛けて鑑賞した。」
 を引用しています。江馬務が何をもとに断定したかには触れていません。
 槐堂が辞して間もなく刺客が乱入したことになります。通説ではたまたま尋ねて来ていた同志の岡本健三郎が帰ったあと数名の刺客が踏み込んできたことになっていますが、槐堂のことは伝承されていませんし、本人もなぜか沈黙を守っています。
 西尾氏はそこから「槐堂は真犯人を知っていたのではないか」と推理を発展させるのですが……。
          ※
 槐堂が7卿落ちに巨額の資金援助をしたことは前回書きましたが、中岡慎太郎も慶応3年10月11日に300両を借りた覚えが残っています。(好古斎ホームページ)
 天誅組の吉村虎太郎とも親しく、文久3年(1863年)8月の大和義挙に際して500両と小銃30挺を贈っています。
 町奉行にこの援助について訊問を受けた際「盗賊がホクチを買うに決して放火に入用なりとは言うまい。小銃も遊猟のために貸したもので、戦争用に供したのではない」と言い張ったといいます。
 義挙に失敗した虎太郎や那須信吾らの首は大和から京都に送られて埋められましたが、槐堂は牢番に賄賂をつかまして埋めた場所に案内させ、掘り出して霊山に改葬しました。改葬までの間は自宅に預かっていたということです。
 『土佐史談』52号(昭和10年)松村巖「吉村寅太郎」▽67号(昭和14年)同「淡海槐堂」より。
          ※
 槐堂は池田屋事件にもからんでいます。元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町のこの旅館に潜んでいた長州藩士らを新選組が襲った事件です。土佐藩の野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)と藤崎八郎はこの事件の犠牲者とされていますが、池田屋に集合していたわけではありません。板倉筑前介を訪ねる途中で新選組との戦いに巻き込まれたのです。重傷を受けて長州藩邸まで逃れたものの傷は深く、27日自ら割腹して19歳の命を散らしました。『土佐史談』188号(平成4年)に門脇鎌久氏が「芸西村の志士の碑」と題して書いています。
 野老山家は女優・栗原小巻の先祖で、20年余り前になりますが墓参のため自分で車を運転して高知(芸西村)に来たことがあります。
          ※
 江戸時代最後の仇討ちといわれた土佐藩士広井磐之助(いわのすけ)の復讐行にも板倉筑前介の名前が登場します。
 父大六の仇・棚橋三郎の消息を求めて国を出た磐之助はまず板倉を頼ります。
 板倉は私費で設けた「並修館」に入れて銃の射撃を習わせるとともに、仇を探るには虚無僧になるのがいいと、近くの明暗寺に世話するなどの援助をします。
 坂本龍馬や軍艦奉行・勝海舟の協力もあって磐之助は文久3年6月2日、紀州領を出たところの泉州山中渓(だに、現阪南市)で、父の死から8年ぶりに念願を遂げることができました。
 前掲松村巖「淡海槐堂」は、磐之助が本懐を遂げたことを報告する、板倉先生様宛6月朔夕付け632字の手紙を収載しています。 此の手紙によりますと、相手は土州生まれ、江戸松と申す者、実は楠太郎倅棚橋三郎と名乗ったので、彼へも刀を渡して勝負したところ、首尾よく報復を果たせたと述べています。 なお、この件について『土佐史談』には31号(昭和5年)寺石正路「廣井磐之助復讐談」▽210号(平成11年)依光貫之「広井磐之助の仇討ちの場所はどこか」などがあり、ことに依光氏は事件名について、それまで言われてきた「中山峠」でなく「中山渓の仇討ち」とするのが一番ふさわしいと提案しています。

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 幕末、国事に奔走する志士たち。国を憂いて東奔西走するには資金がいる。先立つものは「カネ」である。
 脱藩…藩の庇護を離れるわけだから自己資金は不可欠である。衣類は着たきり、夜は野宿するとしても、食だけはどうにもならない。
 こんな貧乏志士たちから公卿までの活動を支えたスポンサーの一人に淡海槐堂という人があった。
 「おうみ・かいどう」と読みます。いろんな名前を持つ人で、本名は緝(つぐむ)。号が槐堂です。別称として敬天、敬夫、頑山、醒蘇、公朔、重徐、重□(さんずいに余と書いて、じゅうとでしょうか、しげみちでしょうか)。雅号に紅蕉書屋、千秋草堂というのもあります。誤植らしきものも含めて目についたものを記しました。中岡慎太郎(変名・石川清之助)の手紙に「快堂先生」と見えますが、これは昔の人流の当て字でしょう。龍馬を良馬と書いた人がいたように…。
 文政5年(1822年)12月朔日、近江の国、今の滋賀県長浜市の医師とも儒者ともいわれる下坂篁斎(下阪甲内と書いた本もあり、検索泣かせです)の第5子として生まれ、3歳で京都の豪商、薬種商を営む武田家の養子に入ります。
 安政2年(1855年)公家の一つ醍醐家に仕えて板倉姓をもらい筑前介に任ぜられ、板倉筑前介を名乗ります。
 慶応4年(1868年)3月、醍醐家を退いたのを機に姓を生国近江にちなんで淡海と改めて淡海筑前介になり、明治3年からは位記を返上して号を槐堂とし、このときから淡海槐堂を名乗っています。
 武田家は武田信玄の子孫で、武田家滅亡後、京都に逃れて奇応丸などの薬を売って巨万の富を築き上げた商人です。「おひや薬」の名で有名だったそうですが、『防長回天史』には「伏見街道桶屋薬トイヘル薬種屋」、子母沢寛の『新撰組始末記』には「五條橋東小児薬おけや薬といふを売れり」とあるそうで、どの名前が正しいのか、また屋号なのか薬品名なのか私には分かりません。
 その富、例えば、文久3年のクーデターで敗れた尊王攘夷派の三条実美ら公卿7人が長州へ逃れた、いわゆる7卿落ちに当たり、5回にわたって計2150両を融通していることで富豪ぶりがうかがわれます。
 この人、文久3年に京都大仏日吉山に「並修館」という文武館を自費で建てて志士と交わります。
 自らは「文」を担当し、「武」は井汲唯一という剣客が当たりました。
 坂本龍馬をはじめ武市半平太、中岡慎太郎、吉村虎太郎ら多くの志士が出入りしました。 「文」を担当しただけあって絵も善くし、龍馬と慎太郎が殺された部屋にあった梅に椿の花を配した血染めの掛軸はこの人の描いたものです。
 今回はこれまでとし、次回は土佐の人士とのかかわりを中心に続けます。
 参考記事=『土佐史談』6号(大正10年)宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」▽67号(昭和14年)松村巖「淡海槐堂」▽170号(昭和60年、坂本龍馬生誕150年記念特集号)西尾秋風「淡海槐堂と土佐稲荷の謎-坂本竜馬暗殺秘帖」
 このほかインターネット「好古斎」ホームページ▽大阪龍馬会メールマガジン▽龍馬堂ホームページなどを参考にしました。

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