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 『土佐史談』第240号(平成21年3月20日発行)の目次です。
◇吉井勇の(高知・歌行脚時代)ノート(一)―大鹿卓宛書簡新資料をもとに―                         細川光洋(19ページ)
◇長徳寺・吾橋庄について            岡林裕彦(13ページ)
◇弘岡吉良氏について              朝倉慶景( 7ページ)
◇種崎船匠孫八と洋式造船           岡義秀  (12ページ)
◇岡軌光と山田十畝               公文豪  (10ページ)
◇寺田寅彦研究―寅彦の浮世絵考―     永国淳哉( 7ページ)
◇「土佐日記」研究史年表            野本幸男(46ページ)
  読み物ではありませんが、頭の下がる労作です。
◇史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る―関東例会を終えて―
                           皆川真理子(11ページ)
 次のNHK大河ドラマが「龍馬伝」に決まったのを受けて土佐史談会で
は土佐史談会ならではの坂本龍馬に関する講座・講演・歴史散歩などを
考えているということです。

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土佐史談会
高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
〒 780-0850
℡ 088-854-5566
Email tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp
振替口座 00910-3-75719
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 高知県の東部・安田というところに幕末、高松小埜(しょうや)という人物がいて家塾を開いていました。
 塾の名は徴する資料を得ませんが、その門下からは中岡慎太郎、石田英吉(のち男爵)、高松太郎(海援隊)、安岡斧太郎(天誅組)らの人材が出ています。安芸郡勤王志士育ての親と言われる所以です。
 この小埜、地元高知でもあまり知られていません。『高知県人名事典 新版』(平成11年・高知新聞社刊)ではエピソードも含めて詳しく紹介されていますが、見出し語は高松小埜ではなく通称の「高松順蔵」。
 インターネットを検索しても名前は見えるものの、人物像に踏み込んだ文章はほとんど見当たりません。フリー百科事典ウィキペディアにさえありません。唯一(?)龍馬堂のホームページに略歴が紹介されているのみです。
 この人物、本人はどう思うか知りませんが坂本龍馬の姉・千鶴の夫と紹介されるのが一番多いようです。当然、自由民権運動で植木枝盛らとともに活躍した坂本直寛(南海男)の父です。
 文化4年(1807年)郷士高松益之丞の長男に生まれました。母は千代。
 通称は順蔵(淳蔵とも)のほか鶴吉、諱は清素、小埜は近くの小野山にちなんだ号です。 
 ここら当たりまではインターネットで調べることができますが、以下『土佐史談』をもとに、この人にまつわるエピソードを全国発信いたします。
 105号(昭和38年)と112号(同40年)に地元の中学校長を務めた郷土史家・安岡大六氏(筆名は大麓)が小埜のことを書いています。
 小埜は8歳で郷士職を継ぎ、やがて江戸へ出て学問を研究するとともに長谷川流の居合術を修行しました。居合は彼の得意とするところで、
 「小豆を口に含み、これを吹き出すと同時に抜刀して切り、2つになった小豆が下に落ちぬ間に刀はすでに鞘に納めていたと云う」 
 「  」内は原文そのまま引用さしてもらいました。次も同じ。
 「或夏、高知から帰る途中、赤岡を通っていると、涼台へ腰を下していた若者が、小埜が過ぎた後から犬をけしかけた。犬はしきりに小埜に吠えかかったが、彼は平然として歩いていた。しかし急に犬の声が止まったので、若者たちが行って見ると、あわれ犬は真二つになって倒れていたが、刀を抜く手は見せなかったと伝えられる」
 坂本龍馬との関係は冒頭に述べましたが、千鶴は龍馬より18歳上の長姉で、父八平が亡くなったばかりの頃、龍馬へ出した手紙が残っています。龍馬の健康を気遣って、栄養をとり灸をすえなさいとすすめたあと「自分に気を付けんと、今は気をつける人ないぞよ」と姉らしく言い聞かせています。お守りを送ったとも書いています。(宮地佐一郎『坂本龍馬全集』558ページ)
 高松家の住まいは、西に小野山、北は竹やぶ、東北は八幡宮の森があり、南には祖父が3人の子供が生まれた時に植えたという3本の老松が聳え、その間から街の人家の屋根越しに太平洋が眺められたといいます。
 龍馬もたびたび姉夫婦の家にやってきて、わが家のようになにも挨拶せずに座敷へ上がり込み、そのまま寝転んだり、起き上がったりして、椽に立っては海を眺めていたという話が伝えられています。
 小埜は「武」ばかりでなく「文」の面でもたしなみがあり、絵は篆刻で有名な壬生水石に学び、和歌の道にもいそしんで歌集『採推歌』4卷(2000余首)を残しています。 
 千鶴は文久元年(1861年)12月25日、45歳で夫に先立ちましたが、翌春、庭の桜の花を霊前に手向けた小埜の歌があります。
  『もろともにながめし花も此の春は仏の前にささげつるかな』
 彼の名はやがて藩主山内容堂の知るところとなり、再三使者を立てて召し出そうとしましたが、固辞して出ませんでした。
 その後、郷士職を弟の勇蔵に譲り、小野山の麓で悠々自適の生活を送りましたが、彼の高風と学問を慕って集まってくる若者を集めては和漢の学や敷島の道を説き、幾多の人材を養成して明治9年(1876年)8月2日亡くなりました。70年の生涯でした。

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  『土佐史談』80号と81号(昭和27年)に郷土史家の橋詰延寿(えんじゅ)さんが「土佐事物誌」という記事を連載されています。今回はその中から。全国的な話題ではありませんが、ご勘弁を。
 まず、今で言う図書館の話。
 享和年間(1801~03)といいますから今から200年余り前のことです。
 藩政後期、9代藩主山内豊雍の時代、世は町人文化の花開く文化文政(化政)期へ移ろうとしていた時です。
 町奉行の馬詰親音(うまづめ・もとね)が城下の吉田屋亀助に資本を貸し下げて貨本屋を開業させました。これが高知での貸本屋の始まりだということです。
 資本は藩が持っていますから直営です。
 時代は下って藩政は終わり、明治12年8月1日、高知公園高知城内懐徳館に高知書籍館が設けられました。一般大衆の閲覧に供する図書館の誕生です。
 運営はその後高知教育会という団体に寄託(高知図書館と改称)されましたが、大正3年12月県議会の議を経て県立図書館を新築(大正天皇即位記念事業)、戦災に至ったわけです。
 昭和2年11月1日高知県令第51号の高知県立図書館規則によりますと、開館時間は午後9時まで。閲覧は原則として館内で、同時に和装は15冊、洋装は5冊、和洋合わせて10冊まで借りられたようです。
 館外への持ち出しも認められていましたが3冊以内で、担保として何がしかの現金を預けなければならなかったようです。(『土佐史談』39号=昭和7年=武市佐市郎「高知公園史」)
 高知書籍館から数えて今年は130年になります。
          *
 次は「もみぬき井戸」の話です。
 高知市街の東部に桜井という井戸があります。これも先の馬詰親音が寛政年間(1789~1800年)近江の彦根から4人の技術者を招き、モミヌキの器材を取り寄せて掘らせたものです。
 モミヌキというのは江戸の伝九郎という職人が工夫した工法で、底のない桶の形をしたガワという側壁を入れて掘り進んだもののようです。
 旁に桜の木があったので桜井と名が付きました。これが土佐で初めてのモミヌキ井戸だということです。
 馬詰奉行は自ら碑を建ててこの事業を伝えています。
 ある人が「これくらいの仕事に記念碑を建てるなど少々過ぎたことではないか」となじったところ、奉行の反論が面白い。
 「いや、後世、弘法大師の井戸だと伝えられては、自分の功が奪われる…」
 奉行は希望者には年賦償還で資金を貸し下げ、井戸掘りを奨励したという。
 当時の生活用水は主に川の水でしょうし、井戸といっても川の水を引いた池のようなもの。地下水を取るモミヌキ井戸の普及は衛生行政のヒットと言えましょう。
 この井戸掘りの副産物として土佐でも三和土(たたき)の製造が始まっています。
 いまならセメントでしょうが、土と石灰を水で練り上げた三和土が側壁に使われるようになったからです。城下浦戸町の角屋六平という商人が近江の職人に教わったものだと伝えられています。
 彦根といえば井伊直弼の母国、近江の人よ、ありがとう。

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 前回のつづきです。名もない一新聞整理記者の体験に過ぎませんが、鉛時代を知るものもだんだん少なくなり、今はもう歴史のひと駒としてかすんでしまった印刷技術史の一断面として読んでいただければ幸です。
     *     *
 それまでの新聞製作方式はコールドの対(つい)「ホット」であった。火を使うからである。
 ドイツのグーテンベルグが1440年代に発明した金属版は、おおむね鉛、スズ、アンチモンを85・4・11の割合で混ぜた合金で、比較的低温(240度)で溶け、繰り返し何回も鋳込めることから、以後500余年、印刷文化の中枢をになってきた。
 高知新聞は創刊当時は既製活字の購入で印刷していたようであるが、輪転機の導入で熱くなる。
 鉛合金を溶かして活字や印刷用鉛版を鋳造する。バーナーが炎をあげ、どろどろに溶けた地金の釜がすぐそばにあった。
 活字の一字一字は指先でころがるが、組み上がった紙面は結構重い。
 騒音は出る。印刷インキによる汚れもある。労働環境、決して宜しくない。
 鉛による大気汚染や硝酸など有害物質の放出も問題になっていた。
 そのうえホット方式は左右あべこべの世界であった。
 新聞社編集局の一画に「整理」と呼ばれる部署があった。
 取材記者の原稿を受け取つて大きさを決め、見出しをつけ、紙面をレイアウトして大組みを担当した。
 紙面のトップは右側の頭(あたま)だが大組みでは左上がトップである。
 この感覚、体(からだ)で覚えるには少々時間がかかる。
 ある人は赤インクをたっぷり含ました筆で裏までしみ通る図面を描き、裏返した。またある人は設計図を天井に貼り着けた場面を想像し、仰向けに下からうかがい見ながら大組み作業に臨んだ。
 みなそれぞれ苦労したものである。
 47年5月21日深夜を最後に、熱くて重い騒音の世界は消え、右は右、左は左に正常化した。
 製作現場の連絡用黒板にはだれが書いたのか「ホットした」との落書きがあった。
(以下略)        (おわり)

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