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 私はプロフィールにある通り新聞社のOBです。取材経験はほとんどなく、専ら記者と工場の接点にあって新聞紙面の製造に当たってきました。
 いま「工場」(こうば)と言いました。活字拾いの活版以降の工程を担当する部署をこう呼んでいましたが、記者と対比して差別意識があったんですねえ。
 降版時間という言葉があります。紙面を作り上げて印刷担当部署へ渡す時刻のことで、締め切り時間と並ぶ製作工程の重要な節目ですが、輪転機部門が建物の下の方にあるとはいえ、上下の差別感は拭えません。
 それはさておき、高知新聞社では37年前の昭和47年に活版印刷部門から鉛をなくしました。
 新聞紙面に社告として発表した公式の日付は6月1日となっていますが、実際は5月22日から鉛はなくなっています。
 新聞製作の技術革新はすさまじく、一般印刷業界も含めて鉛の臭いは完全に消え、今はコンピューター万能時代となっています。
 以下の文章は私が平成6年(2004年)9月1日の紙面に載せてもらったものです。新聞社から鉛の消えた日の思い出です。
 腰痛がひどくなって、気力の衰えいかんともし難く、今回と次回は昔の文章をそのまま載せることでお茶を濁さしてください。
     *         *
 ニュースにしろ物語にしろ、紙のメディアは紙に文字を載せるという体裁だけ見ればその誕生以来変わっていない。
 しかし、その製作技術は最初の手書き(書写)から木版、銅版、鉛活字を経て現在のコンピューターを駆使する方式まで、何度かの革新を繰り返しながら進化している。
 昭和47年(1972年)5月22日、高知新聞は鉛活字による紙面づくりに別れを告げた。
 朝刊・夕刊を発行する新聞社としては、たしかトップを走っていた。
 しかし一般読者がその革命的変革を知ることはなかったと思う。紙面はきのう、きょうの境目なく続いていた。
 読者がそのことを知らされるのは、およそ10日後である。
 高知新聞のCTS(コールド・タイプセッティング・システム)公式スタートは同年6月1日とされている。(つづく)

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 明治10年(1877年)の西南戦争。西南の役、丁丑の乱とも呼ばれる。ご承知の通り征韓論に敗れて下野した西郷隆盛を盟主とする士族の武力反乱である。
 戦場となったのは熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県。なかでも熊本城をめぐる攻防は生やさしいものではなかった。
 熊本鎮台の軍隊や県庁職員とその家族およそ5000人の立てこもる熊本城。司令長官の谷干城陸軍少将は、徴兵による官軍では野戦は無理として篭城戦術をとる。
 これに対する薩摩軍は士族の精鋭、いわば戦争のプロであったが、城を落すことはできなかった。
 日本の城は、四角形の城壁をめぐらしただけの中国や朝鮮のそれと違って、城壁を不規則にめぐらし堀も構えて、城内の形勢を敵に分からせないようにしてある。
 援軍の来るまで52日もの篭城に耐えられたのも、こんな物理的な防禦体制もさることながら、篭城する側のモチベーションが勝っていたと見ることできる。
 戦場になった土地に前線も銃後もない。兵士を支えたのは妻たちであった。
 その先頭に立ったのが谷将軍の玖満子夫人で、このとき34歳。
 傷病兵の看護は勿論、お産のときにはみずから産婆となって赤ん坊を取り上げる。こんな話も伝わっている。
 あるとき、もち米の配給があった。おはぎを作ろうということになったが道具がない。夫人は夜半、包囲する薩摩軍の目を盗んで塀や土手を乗り越え、焼け残りの空き家から釜やすり鉢を調達してきたという。
 城兵の士気は大いに高まったが、さて、成功したから良かったものの、見つかって司令長官夫人が捕虜になった場合の戦局全体に及ぼす影響に思いをめぐらしていたかどうか。
 とにかく男まさりであることに間違いないが、お顔の方もまた男まさりで、あまり良くなかった。
 結婚の話が出たのは将軍が江戸遊学のときで、二人はお見合いの機会もないまま、将軍帰郷を待って式を挙げた、いや挙げさせられた。 将軍の書いた『隈山詒謀録』に、こうある。
 「国沢氏(夫人のこと)当年19歳余、未だ一見なきの人、今夜相見る、真に初対面なり」
 父君の眼鏡にかない、気に入られての強引な挙式だった訳です。
 前回紹介した山崎正董博士は『土佐史談』43号(昭和8年)に次のような逸話を書いてあります。
 結婚式を済ませて綿帽子をとった花嫁を見たとき将軍はびっくりした。なにか口実があれば父に話そうと、将軍は妻のすることを注意していた。
 まず米の研ぎ方。流れた米粒を一粒残らず拾い取って無駄がない。
 漬物は頭の方も尻尾の方も長く切りのけていたので、これはいいところを見つけたと思ったが、頭と尻尾は自分が取り、中のよい所を父上と将軍との皿に入れて食膳に出すという具合。
 非の打ち所のない夫人の言動に心うたれ、家を治めることは容貌が第一要件でないことを痛感した。
 当時の谷家はずいぶん貧乏で、例えば醤油を入れてある瓶一つのほかないので、酢を買うときは茶碗に醤油を移して置き、その瓶を持って行くというくらいだった。
 そんな赤貧洗う時代から軍人、政治家の家庭を守って47年、明治42年(1909年)12月19日、病気になって7日目、66歳で先立った。
 将軍の悲しみは深く、僅か1年半後にはあとを追うことになる。
 
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 谷干城という名前を聞いて一番先に連想するのは何でしょうか。
 私は西南の役の時の熊本城篭城が思い浮かびます。
 熊本鎮台司令長官だった谷少将は明治10年(1877年)の西南戦争の際、西郷隆盛軍の攻撃から52日間にわたって熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献しました。
 学問の神様として知られる谷秦山を祖先に持つこの人は天保8年、土佐藩士・谷萬七の第4子として生まれ、明治44年(1911年)5月13日、75歳で亡くなっています。
 思想的には国粋主義の立場に立ち、自由民権運動の板垣退助とは非常に仲が悪かったようです。
 新聞記者あがりの小島徳治という人の書いた『南国夜話』という本には、明治18年、帰郷した干城が退助に会見を申し込み、民権派の隠れ家で「皿も鉢も粉みじん」になる大激論を交わした話が載っています。
 干城、「たてき」と読みますが、「かんじょう」で通っています。ここでは将軍と呼ばしていただきます。
 将軍は明治42年12月19日、夫人に先立たれました。わずか1年半で後を追ったわけです。
 陸軍中将であり、陸軍士官学校長を務め、正二位勲一等子爵、大臣経験もある貴族院議員とあれば、その葬儀は定めし盛儀であったろうと思われるでしょうが、当時としては型破りの、まことに簡素なものでありました。
 そのころ名士の葬儀というと、自宅より出棺し、延々たる行列で練り歩いて青山または谷中の斎場で行われるのが一般だったそうです。
 谷家の場合は庭に安置した霊柩を前に神式で告別式を行い、朝野の名士が会葬されたことは当然ですが、熊本篭城会の樺山大将の弔辞のあと日暮里火葬場で荼毘に付せられました。
 平素犬猿の間柄であった板垣伯も駆けつけて涙を流されたそうです。
 すべて遺言に基づいて行われたものですが、その遺言は66歳の時、ある人の葬儀に参列したあとの感想とともに日記(明治35年7月12日)に書かれていました。
 長文ですので要点のみを抄出して紹介します。
     *     *
 (この葬儀)会葬者夥し 弔詞頗る多し ひそかに思う 弔詞の多く「のりと」の長きは甚だ面白からず 会葬者に対しても気の毒なり
 余死せば青山または谷中の祭場に運ぶを要せず 粗末の棺に入れ 赤毛布に包み 庭に仮小屋を作り この中に入れ 供え物をなし 親戚一統告別をなすべし
 知己の人へは左の通り報知すべし
 「谷干城 何月何日死去致し候。葬式の儀は遺言により邸内において神式をもって相営み候間、この段御知らせ申し上げ候。
 但し遺骸の儀は火葬に致し郷里へ送り候間 告別は何月何日何時より何時まで。
 生花放鳥はもとよりその他の御贈り物は失礼ながら一切お断り申し上げ候也」
 右のごとき文にて宜し 文も簡にして明瞭なるを佳とす。
 神官のノリトも極く短簡にすべし、決して履歴功績等を喋々すべからず。ただ安心して霊魂の高天原に行くことを注文すべし。
 石碑は自然石たるは勿論なり、ただ谷干城墓と書し、生卒の年号月日を書くべし、位階勲等は決して書すべからず。
     *     *
 将軍の遺骨は3日後の5月19日、この日まで自宅に置かれていた玖満子夫人の遺骨と一緒に最後の帰国となりました。
 24日に行われた郷里高知での告別式も簡素なもので、2000人の会葬者はありましたが、遺言通り霊柩の礼拝にとどめ、久万村(高知市久万)先塋の地に埋葬されました。
 石碑には勲等位階などは略すようにとの遺言でしたが、遺族の話し合いで子爵の2字だけは入れることにしたということです。
 以上、『土佐史談』43号(昭和8年)山崎正董「谷将軍」を基に紹介しました。筆者は当時、熊本医科大学名誉教授でした。
 ただこの遺言のようなことは、栄誉を極めた人だから言えるのかも知れません。
 余談になりますが、将軍の篭城した熊本城はいま復元募金をしており、1万円以上を寄付した人を「1口城主」に認定する制度が人気を集めているということです。
 次回はこの熊本城に将軍と一緒に篭城した玖満子夫人について書いてみたいと思っています。 

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 (19)で藩政時代の農民生活に触れたとき、当時「娯楽」という言葉はまだなく「遊慰」と言っていたと書きました。
 生活が豊かになり、便利になって、それに外来語が氾濫して、暮らしの言葉も進化を遂げています。
 例えば寝間着がパジャマになり、庭いじりがガーデニングになるなど。流しもシンクに変わっています。形や機能の進化が伴っていることは勿論です。
 「犢鼻褌」…なんと読みますか。そしてなんのことでしょう。
 江戸時代、男性の陰部を隠す褌(ふんどし)をこう言いました。「とうさぎ」と読みます。
 『土佐史談』から拾ってみましょう。
 土佐藩2代藩主山内忠義が五台山竹林寺で酒をあがられたとき、踊りをみたいと言い出された。にわかの催しで早速に踊子が集まりません。藩主は孫六の刀を横たえ、仁王門のところに立って急がした。
 そのとき長沢十蔵と申す者がとっさに、はやり歌をくどきながら藩主の周りを踊りました。
 歌の文句が良かったのかどうか、忠義公も機嫌を直したということです。
 踊る十蔵のいでたちは「伊達染の浴衣の裾高くとり、赤白ないまぜの犢鼻褌を結び」と書いてあります。(5号=大正9年、武市佐市郎「土佐藩時代の俗歌」)
 藩政時代、宝暦・明和期を生きた森勘左衛門定広(1710‐73年)という格式御馬廻の武士がいました。世は太平で、1年間に僅か20日余りの勤務でこと足りた郭中武士の生活をつづった日記を残しています。
 その孫、森正名(横谷)が著した「土佐人物志」の中に、祖父は質素な衣服を着ており、それを作る際にも木綿1反を使うなら「犢鼻褌」1つを余すよう言っていたというくだりがあります。(198号=平成7年、森口幸司「土佐人物志のなかの森勘左衛門定広」)
 もう1件、明治7年に高知県士族・池月真澄という硬骨漢が官吏に古褌を贈った事件の判決文に「自から用ふる汚穢の犢鼻褌を脱ぎ、幣物と做して呈する科により禁獄70日申付らる」とあります。(32号=昭和5年、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」)
 こんな、広辞苑にもないような、むずかしい言葉は廃れて、やがて猿股となり、パンツが普通の時代となります。ズロース、パンティー、ブリーフ、ショーツなども使われました。
 私などパンツといえば下着のイメージですが、最近の若い世代はズボンを言うようです。もっともアクセントは違うでしょうが…。パンツルック。ジーパン→ジーンズ→デニム。下着のことはインナー。ついていけません。
 近頃のお母さんは「バギー」と言います。なんでしょうか。この言葉をさかのぼりますとベビーカー、さらに乳母車となりましょうか。形も機能も違いますが…。
 乳母車といえば昭和50年ごろの人気テレビ番組「子連れ狼」を思い出します。萬屋錦之助演ずる主人公・拝一刀を、乳母車に乗った息子・大五郎が「ちゃん」と呼び掛けるシーンが評判でした。
 『土佐史談』にも乳母車を押して行商に廻る町の人気者の話が載っています。(土佐弁です、ご了承ください)
 「小鳥の十姉妹を飼うのが流行したのは昭和の初めだった。その男の家も愛鳥家で、たまるかと驚くほど家の中いっぱい、十姉妹を飼いよった。けんど本職は下駄のハガエだった。
 この家のひとり息子は歯替えの注文を集め、出来あがったら持ってゆく。注文の下駄を入れるもんは、専用の乳母車である。
 夏も冬もよう働いた。」
 こんな調子で庶民の人生模様の哀歓を描いています。(233号=平成18年、市原麟一郎「とさ現代民話の主人公」)
 下駄の歯替えなどという商売は日本国中どこかに残っているでしょうか。
 このほかクーラーがエアコンになり、コップはグラスとスマートになりました。チャックもファスナー、アベックはカップルと言った方がかっこいい時勢です。
 そして最新の文明の利器、移動体通信は自動車電話から小さく小さくなって携帯電話、やがて電話も消えて、今ではケータイ。
 「空気が読めない」「漢字が読めない」=「KY」など論外。また、いくら人材集めのためとはいえ「ミラバケッソ」は無理というもの。
 若者言葉でしょうか「オトナ買い」という言葉がブックオフのバナー広告にあります。まとめ買い、バスケット買いということでしょう。「イケメン」と同じように、公認されるのもそう遠くないと思います。
 日本語も外来語もともに、確実に変わっています。

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