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 最近、世界文化遺産について調べるうち、兵庫県の姫路城がことし秋から5年かけて大々的に修理されることを知りました。
 昭和30年代に行われた前回の大修理は全面解体しての修理でしたが、今回は漆喰の塗り替えや破損瓦の取り替えなど。期間中は素屋根で大天守が覆われます。
 この城と土佐とのかかわり、土佐漆喰が使われていることもありますが、その保存に高知宿毛出身の中村重遠大佐の存在が大きいといわれます。
 『土佐史談』でもしばしば取り上げられています。昭和30年85号の橋詰延寿「姫路城と土佐」、平成元年182号の橋田庫欣「明治と宿毛」、同9年203号の山脇哲臣「城と樹木」など。
 中村大佐の功績といっても、全く個人だけの力で出来たものではないでしょうし、身びいきがあるといけませんので、地元姫路市での評価を取り上げます。
 インターネットの姫路城公式ホームページには中村大佐への言及はありませんが、姫路市役所ホームページは「姫路城を救った中村大佐」という見出しで「恩人」という表現を使っています。
 また城内菱の門の近くには旧藩主酒井忠正の書になる立派な顕彰碑が建てられています。 
 この姫路城、徳川家康の二女督姫を妻とする池田輝政によって建てられました。高知城と同じ慶長6年(1601年)から工事が始まっています。
 それまでは羽柴秀吉が建てた3層の城が建っていましたが、それを取り壊して現在の外観5層、内部は地下1階、地上6階の大天守となりました。
 明治2年(1869年)の廃藩置県で陸軍省(当時は兵部省)に管轄が引き継がれましたが、保存に巨額の費用がかかるため廃棄される運命となりました。競売にかけられ、市内の神戸清一郎という人に23円50銭で落札されました。当時(明治7年)の米価は10kg49銭と統計にあります。しかし引き合わないことが分かり権利は放棄されたということです。
 ここで中村大佐が登場します。大佐は当時陸軍省の第四局長代理でした。貴重な名城は後世に残すべきだと考えた大佐は 明治11年12月26日、陸軍卿山県有朋にこの旨の建白書を提出、これを受けて陸軍省は翌12年(1879年)1月29日、軍の費用で城の修理を決定、危うく廃棄を免れることができたわけです。
 中村重遠(なかむら・しげとう)は通称新一郎、進一郎とも。天保11年(1840年)12月2日、宿毛村大庄屋・小野弥源次義為の二男として生まれ、中村儀平の養子に。戊辰戦争には機勢隊を率いて北陸路を進みました。
 明治4年(1871年)兵部省に出仕、同6年の征韓論では反対の立場に立ち、板垣退助らとは袂を別ちました。佐賀の乱や西南の役には熊本鎮台の参謀として谷干城を助けて活躍しました。
 明治17年(1884年)2月22日、病気のため東京の家で死亡、青山墓地に葬られました。45歳の若さでした。
 姫路城の異称は白鷺城、フリー百科辞典ウィキペディアによりますと「はくろじょう」と読むのが正解ということです。典拠は財団法人日本城郭協会監修の『日本100名城公式ガイドブック』。
 「しらさぎじょう」とばかり思っていましたが、城の異称は音読みが普通ということです。
 『土佐史談』85号から「中村大佐顕彰碑」の全文を掲げておきます。文は切れ目なく追い込みで書かれていますが、読みにくいので段落をつけます

 國宝姫路城ハ豊公創業以来悠久三百年ノ歴史ヲ有シ天下ノ名城トシテ知ラル
 明治初年國費ノ急激ナル伸暢ニ伴ヒ國費多端ニシテ城郭ノ保存修繕ノ余裕ナキヲ以テ名古屋城ト共ニ廃毀ノ議廟堂ニ起ル
 時ノ第四局長代理中村重遠大佐痛ク之ヲ惜ミ百方要路ヲ説得シ且山縣陸軍卿ニ是等二城ノ存置方建白書ヲ提出シ屡々其ノ芸術的城砦的価値ヲ開陳スル所アリタリ
 其ノ結果明治十二年一月二十九日廃毀取止ノ指令ニ接ス
 姫路城ノ今日アル実ニ大佐ノ高邁ナル識見ニ基キ建白セラレタル賜ナリ
 大佐ハ高知縣飯尾ニ生レ質実剛介ニシテ信義ヲ重ジ經史ニ通ジ文武兼備ノ典型的武人ナリ 
 壮クシテ戊辰佐賀西南ノ役ニ従ヒ屡々帷幄ニ参ジ歴戦ノ勲績赫々タルモノアリ将来ヲ嘱目セラレシ所不幸病ヲ得テ明治十七年二月二十二日溘焉長逝セラレ享年四十五遺骸ヲ東京青山ノ墓地ニ葬ル 後年其ノ墓碑ヲ建ツルニ方リ特ニ山縣元帥ノ篆額ト谷干城ノ碑文ヲ刻ム以テ大佐ノ偉大ナル器質ヲ窺フニ足ラン
 現司法大臣岩村通世閣下ハ大佐ト郷を同シウシ其ノ父君大佐ト親交アリ為ニ是等ノ文献ヲ余ニ提供セラル洵ニ景仰措ク能ハズ乃テ関係有志相謀リ顕彰碑を有縁ノ城内ニ建テ以テ其ノ偉績ヲ後毘ニ傳フ
            昭和十九年三月  姫路市長 原惣兵衛
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高知市丸の内1-1-10 高知県立図書館内
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前々回ちらっと将棋という言葉が出ましたので今回は囲碁・将棋の話です。
 戦国・織豊期の諸大名たちの多くは囲碁・将棋を好みました。
 武田信玄は囲碁が相当強かったといわれています。
 織田信長ですが、本能寺の変で討たれる前夜、名人として聞こえた日海(のちの本因坊算砂)と利玄坊を呼んで碁を打たしています。「三コウ」というめったにできない形で勝ち負けなしとなり、このことから三コウを不吉の前兆と言うようになったということです。
 豊臣秀吉は1585年(天正13年)と1588年(同16年)に御前仕合を主催し、ともに優勝した日海に朱印状を与え、碁の役職(碁所=ごどころ)につけています。
 徳川家康も囲碁・将棋を保護奨励し、慶長17年(1612年)囲碁の本因坊・利玄坊、将棋の大橋宗桂にそれぞれ50石・5人扶持を支給し、幕府としてその普及に当たらせました。
 そして1626年(寛永3年)から御城碁、1682年(天和2年)から御城将棋が始まります。初めは不定期でしたが、1716年(享保元年)からは家康の命日にちなんで毎年11月17日と対局日も統一されました。
 土佐史談会理事の朝倉慶景(よしかげ)さんは『土佐史談』に「囲碁からみた長宗我部氏」(217号)、「囲碁林家五世門入(井家道蔵)について」(233号)という論考を発表しています。
 朝倉さんは昨年、第29回平尾学術奨励賞に輝いた方で、長年にわたり中世史を中心に研鑚を積んでこられました。
 その論文によりますと、土佐の長宗我部元親も同じ趣味を持ち、家臣に森弥五郎という碁打ちを抱え、破格の待遇を与えていました。弥五郎は利玄坊の弟子だったということです。
 たかが碁打ちと言うなかれ。諸大名に取り入ってスパイもどきの情報収集に当たった者もいたようですし、大名の側でも囲碁を通じて為政者の歓心を買う役目にも使ったようです。
 元親も利玄坊や本因坊に見事な碁盤を進上したり、秀吉や家康が伏見の長宗我部邸に臨まれたときなど、弥五郎を側に置いて来客への接待に当たらせています。つまり碁を通じて天下人と誼みを通じていたのです。
 このように囲碁は社交的なものだけではなく、政治・外交手段としての役目が非常に大きかったと言えます。
 ところが、元親の跡を継いだ盛親はどうだったでしょう。自ら打つことはなかったようですし、弥五郎を手許に置くこともありませんでした。
 朝倉さんは次のように書いています。
 「囲碁・将棋の最高位者を抱える家康であれば碁会や将棋会に名をかりて政治上の会合を持つことは十分考えられるところである。盛親には元親や家康のように手許へ囲碁の実力者を置き、いつでも直ちに対処する姿勢はなかった。囲碁を政治・外交にも利用しようとする家康と、そうでない盛親とでは所詮歩む道が異なっていたようである」
 その後、盛親は家康に領国土佐を没収され、最後は京の大路引き回しのうえ六条河原で斬られたのはご承知の通りです。
 昔も今も、何事によらず勝負には情報が大事ということです。
 囲碁の話ばかりになりましたが、将棋は欧米にも紹介されています。
 駒の名前が英語でどう書かれているか、見てみましょう。1869年、ロンドンで発行された雑誌「チェス・ワールド」からの抜き書きです。
   王将  Oho‐shio
   金将  Kin‐shio
   銀将  Gin‐shio Gin‐nari‐kin
   桂馬  Kiema   Kiema‐nari‐kin
   香車  Kioshia  Kioshia-nari-kin
   飛車  His‐hia  Rioho
   角行  Kakuko  Riome
   歩兵  Ho‐hei   Ho-nari-kin
 王手は発音通り「Ote」と書かれています。
 
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 南国高知の平野部でも雪は降ります。しかし、それが住民生活に深刻な影響を及ぼすことはまずありません。交通信号機も北国のように縦型ではなく青黄赤と横に並んでいます。
 従って雪にまつわる言い伝えや警句の類はなさそうです。
 反対に雨や台風、暴風雨についての風俗はたっぷりあります。
 例えば「梅の花が下向いて咲いたら、その年は雨が多い」など。
 『土佐史談』58号(昭和12年)に高知県女子師範学校郷土室が調査した「土佐に於ける習俗迷信」が45ページにわたって載っています。
 その中から面白そうなのを……。
 まず天候から。
 魚(鮎、鰡、鯉)がはねると雨。これは珍しくありません。
 「春の夕焼け蓑着て待て、夏の夕焼け鎌を研げ」
 「蛍が家の中に入ると大水」というのもあります。
 下駄を投げて裏返しになれば雨、表が出れば晴れ。田舎育ちの私は学校帰りによくやりました。いまは下駄など履いていませんし、車時代ですから危なくて、こんな遊びはしない方がいいでしょう。やるなら広場で安全を確かめて。
 「朝曇りに禿が泣く」 ゴルフのスタートで帽子を忘れるなよと、よく言われました。
 小動物のクモにこんな迷信があります。
 「朝のクモは縁起がよいので殺してならぬ。夜のクモは縁起が悪い」
 「朝の下りグモを桝で受けると、その日は運が良い」
 嫌われもののゴキブリですが、高知県の窪川町(今の四万十町)で女子師範の調査チームは「わくと金持ちになる」との言い伝えを採録しています。
 故人の喪の明ける四十九日の習俗を紹介しましょう。
 搗いた餅を屋根越しに投げて、その餅を兄弟姉妹引っ張り合って食べる。
 搗いた餅を49に分け、兄弟姉妹引っ張り合って食べる。
 1升の餅を49に分け、そのうちに笠餅といって1つ特に大きいのを作り、桝の裏を使って包丁で切り、包丁の先に突き刺し塩を振りかけ、血縁の者が挟み合って食べる。
 屋根越しに餅を投げるというのにどんないわれが込められているのでしょうか。
 1升餅を搗くものでないとか、食べ物の挟み合いをするものでないというのは、こんなことに由来しているのでしょう。
 法事の正座で「しびれ」がきれました。額に紙を張り「しびれ、しびれ、京へ上れ、京の町のおばさんが、箒を持って追っかけた」と唱えて撫でる(へそへ塩をすりこむ)と、しびれが引くそうです。
 邸内に植えると良い木に南天があります。軒より高くなると家が栄える、1000本植えると長者になるとありますが、1000本も植えられる庭があれば、すでに長者でしょう。
 植えると悪い木として、ビワ、ブドウ、桜、サンショウ、桐、柳などが挙げられており、それぞれに病人が出るとか夫婦仲が悪くなるとかの理由付けがされていますが、迷信でしょう。
 椿も病人が絶えぬとされていますが、私の家の庭にはその椿が1本あります。しかし家族が風邪程度の病気になることはあっても「絶えぬ」というほどではありません。
 13日朝のNHKニュース「おはよう日本」では椿や山茶花など水分の多い樹木の生垣が火災の延焼防止に効果があると実験結果を報じていました。

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 今回紹介するのは『土佐史談』44号(昭和8年)小関豊吉氏の「藩政時代に於ける農村に関する政策と農民の生活」と題する論文からです。
 藩政時代は武士階級が政治上も社会上もあらゆる特権を握っていたことはご承知の通りですが、当然に庶民階級は武士を養うための存在でした。
 徳川家康は有名な倹約家で、その意を受けた土佐藩をはじめ諸侯も家臣や一般住民の生活水準を極端に切り詰め、多少のきつい・ゆるいはあったにしても、この方針は終始一貫したものでした。
 ことに農民は米を作って年貢を納めるのを職分とすべきものとし、その生活の内容にまで甚だしい干渉を加えました。
 衣食住はもとより教養・娯楽、 娯楽という言葉はまだなくて「遊慰」といったそうですが、遊慰は人民を怠惰にし、生産を阻害する有害無益なものと考えられたようです。
 農民娯楽の最も一般的なものは神祭と婚礼その他の酒盛りですが、人数が10人を過ぎたら駄目とか、料理も1汁2菜にしろといったお触れが出ています。
 次は文政2年(1819年)に出されたお触れです。
     ※          ※
 婚礼、葬祭ならびに初幟初雛等の出会い、ゆえなく大勢集まってはならぬ。
 盆祭りに分限不相応に燈籠をともし、仏前の飾り仰山にしないこと。
 2尺以上の凧揚げ停止。
 碁将棋ならびに小鳥飼いは百姓には不相応なので、先だって示された通り堅く相守るべきこと。
 発句・てには停止のこと。
     ※          ※
 住民生活への干渉ですから、干渉されるべき状態が為政者の目にあまるほどだったのでしょう。
 このようなお触れは文政時代に先立つ享保4年、同11年、宝暦8年、天明7年にも出されています。なかなか守られなかったという証明です。
 小鳥の飼育はどうして駄目? まさか自然保護ではないでしょう。
 碁将棋や俳句を楽しむ者のなかには、「ごくどう」や賭けを争うなどの弊害があったかもしれないと思われもしますが、一面農民の教養の高まりを示しているかもしれません。



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 明けましておめでとうございます。
  ことしもどうかよろしくお願いいたします。
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 新年第1号は『土佐史談』最新号239号から。
 土佐藩が藩として初めて海外に送った山田馬次郎について。
 普通「万延元年遣米使節団」と呼ばれていますが、横浜を出帆したのは安政7年(1860年)1月22日で、途中万延と改元があって9月28日に横浜に帰って来ています。
 使節団の総勢は新見房次郎正興(豊前守)を正使とする77名。主な任務は安政5年に調印した日米修好通商条約の批准書を交換することでした。
 乗り組んだ船は咸臨丸ではありません、アメリカ差し回しのポウハタン号。
 木造の軍艦で、両側に水車のような推進器を備えた帆船です。帆走もしますし、石炭を焚いても走れます。
 冷蔵庫などありませんから生きた牛や豚、鶏も乗っていました。窮屈だったそうです。
 ハワイへ寄って12日間停泊、石炭・食糧など補給をすましてサンフランシスコへ着いたのが3月9日。
 大陸横断鉄道はまだ完成していません。船は太平洋岸を南下します。
 パナマへ着きました。地峡を横断して大西洋岸に出ます。
 パナマ運河もまだありませんから汽車です。
 パナマ政府が特別に仕立てた列車で、蒸気機関車を含めて8両連結、雪隠も付いていたそうです。途中、すれ違ったと記録されていますから、複線だったのでしょう。
 見るのも初めてなら乗るのも初めての汽車。一行はその速さにびっくりです。
 馬次郎は帰国後しばらくして山内容堂公に復命していますが、その報告内容を側近の寺村左膳道成が日記に次のように書きとめています。(山内家資料 幕末維新第3編)
 「今日当人より承るに、外国には陸地を走る船あり。蒸気船同様にて鉄道を布き、其上を走ると云。蒸気船よりも早しと云。色々珍ら敷咄も有之候」
 ワシントンで批准書交換をすました一行は4月20日同地を出発、乗船地のニューヨークに向かいます。
 途中、フィラデルフィアで桜田門外の変の情報を知ったことは(15)で触れました。
 ここで馬次郎らは、現地チェス倶楽部のメンバーを前に日本の将棋のデモンストレーションを行います。
 この将棋の話は日本の文献では探し得ませんが、アメリカの新聞が伝えています。
 馬次郎を美男子だったと書いています。30歳の若さですから、そうでしょう。
 ニューヨークからはまたアメリカの軍艦ナイアガラに乗って、5月12日出発、万延元年9月28日横浜に投錨。3月に閏月がありますから9カ月余りの外遊でした。
 馬次郎の戻った日本は攘夷の焔が渦巻き、アメリカでの見聞が生かされないまま、2年後の文久2年(1862年)11月30日病死しました。享年32。旅の疲れでしょうか。

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