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 NHKテレビの大河ドラマ、約30%の視聴率をあげた「篤姫」の次、2009年は「天地人」、主人公は上杉家の家老・直江兼続(なおえ・かねつぐ)。妻夫木聡が演じます。
 戦国時代から徳川時代前期の武将です。1560年生まれの1620年歿。
 「兜に〈愛〉という文字を掲げた兼続は、その波乱の生涯を通じて、民・義・故郷への愛を貫いた。ドラマは失われつつある日本人の義と愛を描きます」と、NHKのホームページは番組の狙いをうたっています。
 戦国の世、弱肉強食、下克上、殺し合いの時代です。きれいごとだけでは済まされません。『土佐史談』28号(昭和4年)にはこんな話が載っています(杜山居士「郷土史断片」冥土の使)
 
 或る時兼続の家臣三寳寺勝蔵という者が家来を切り殺した。落ち度があったとしても命まで奪うとはひどい、と怒った親族が、生かして返してくれと兼続に訴え出た。
 兼続は無理を言うなと再三説得し、葬式の費用として白銀2枚を与えたが、親族のものは納得せず、同じ訴えを繰り返した。
 兼続も遂に怒って、そんなに言うなら訴え通りにしてやろうと、親族3人を捕へ、お前たちが冥土へ行って連れて参れと、3人の首を刎ね、次の手紙をしたためて遺族に渡した。
 未得御意候得共、一筆令啓上候、三寳寺勝蔵家来何某、不慮の儀に付相果候、親族共歎候て呼返し呉候様に申候に付、則三人の者迎に遣候、彼の死人御返可被下候、恐々謹言。  慶長六年二月七日  直江山城守兼続
 閻魔王
   冥官披露
  (手紙の文面以外は現代文に直してあります)
  この11月25日新刊の由良弥生著『愛の武将か非情の策士か 知らぜざる直江兼続』(ランダムハウス講談社)には、3人の首を河原に晒し、その横に立て札を立て、それに閻魔大王への手紙を書いたとあります。
  「しつこい」と怒って3人もの首をはねる、人の死をなんとも思わぬ、ずいぶん乱暴な話ではないか。戦国の世、偉いてさんなら何でもあり、ということか。
 ところで、土佐史とはなんの関係もない東北の話が『土佐史談』という雑誌に郷土史の断片として載っているかというと、前段がある。
 土佐の本山という所の庄屋が死者への通行手形として閻魔大王宛、地獄の関所滞りなく通過されたしとの手紙を書いたという話があり、似たような話で最も有名なのは米沢藩のこれだとして紹介されたものです。
 私は知りませんでしたが、歴史家の間ではそれほど有名だったのでしょうか。
 その米沢藩上杉家、ずっと後のことになるが、土佐山内家と親戚関係になる。土佐藩7代藩主・豊常公を初めとして16代豊範公時代まで、室を迎えたり送り出したりの関係である。
 文人としての名も高い9代豊雍公(1768-89年)は上杉越前守治憲公(鷹山)の求めに応じて藩校「興譲館」の額字を揮毫し、答礼として名馬荒波を贈られている。(『土佐史談』36号=昭和6年=松山白洋「土佐歌人群像」)
 下って明治維新、米沢藩は会津藩などとともに奥羽越列藩同盟を結んで戊辰戦争を戦って敗れた。
 この東北戦争が比較的早く終息できた裏には米沢藩の向背があった。最強硬派の会津藩を帰順に説得したのが米沢藩なら、その米沢藩を和平の方向に決定付けたのは土佐藩の文章の力。秋溟・岩崎馬之助の草した檄文「上杉家を説きて官軍に降らしむるの書」がものをいったという。この辺の事情は『土佐史談』41号(昭和7年)松村巖「岩崎秋溟」に詳しい。














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 新しい『土佐史談』が出ました。
 239号は「欧米文化と土佐人の交流」と題した特集号です。本文231ページの大冊です。
 それでは目次のご紹介。ローカルの雑誌ですので、他県の方の興味をすべてカバーできるとは思いませんが、キリシタンの論考などは研究者に必読の新資料を提供するものではないでしょうか。

アメリカにおける馬場辰猪…人民外交論…
                         松岡僖一
土佐のキリシタン               岡村庄造
桑名古庵とキリシタン            岩崎義郎
日・仏の悲劇…堺事件の真相       高橋正
「ジョン・マン」と「中濱万次郎」―グローバル・
マインドの形成―               北代淳二
土佐藩海外派遣第一号・山田馬次郎の研究
                      ふじとのぶかつ
前田壮馬                    小川三枝
元海援隊士のアメリカ留学―菅野覚兵衛と
白峰駿馬                    佐藤寿良
岩倉使節会計 田中光顕          安岡昭男
ロンドンに斃れた若き志士 福岡守人  犬塚孝明
中江兆民のフランス             猪野睦
中島信行・岸田俊子の欧米体験      横澤清子
古沢滋と自由民権運動           山下重一
弘田長の留学                 渋谷雅之
岩崎彌之助・岩崎久彌            小林正彬
後藤象二郎の外遊              大橋昭夫
嶋村速雄と吉松茂太郎―海外経験豊富な海兵同期
の両提督                    高橋秀典
アメリカ南長老派宣教師の働きとその響き 門脇昭
反骨の人―岡繁樹              高橋正
奥宮健之とナショナリズム         間宮國夫
幸徳秋水の系譜ならびに英学について 間宮尚子
広井勇と欧米文化              上森千秋
寺田寅彦の欧州留学            永国淳哉
セルボーニアン西谷退三の虚像と実像  井沢浩一
小島祐馬とフランス留学           中森健二
山脇信徳                    河村章代
土佐のロマン・ロラン 片山敏彦      水田和子
洋画家・中村博のフランス留学       谷是
漂着船と土佐                 渡邊哲哉
 以上29編です。




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ソースネクスト
 第11回に寺坂吉右衛門が江戸ー赤穂間を3日で駆け抜けたことを紹介しましたが、これは矢張り新記録だったんですねえ。

 『土佐史壇』13号(大正14年)をひもときますと、杜山居士の筆名で「昔の郵便の不便」という記事がありました。筆者は土佐史談会の会長もつとめられた寺石正路氏です。

 大石内蔵助らの吉良邸討ち入りの発端となったのは、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた殿中刃傷事件ですが、浅野家ではこの日二回、急使をもって赤穂に急報します。

 江戸城本丸松の廊下で事件の起こった元禄14年(1701年)3月14日午前、まず早水藤左衛門らが早打ちで出発します。

 内匠頭は異例の早さで即日切腹の処分となり、こんどは原惣右衛門らが早打ちで西に向かいます。

 早打ちとは馬を馳せて急を知らせることと広辞苑にあります。

 二つの急使は昼夜兼行175里を走り、18日赤穂に到着です。

 4日かかりました。さすが1藩1城の浮沈がかかった緊急事態の速報です。

 吉右衛門は3日で駆け抜けていますから新記録でしょう。

 しかし、こんなことは例外中の例外、万延元年の大事件がどんな具合に伝わったか、資料で見てみようというのが杜山居士の一文です。

 資料というのは土佐藩士・森正名(1805~1873年)の日記です。横谷(おうこく)と号し、『土佐人物志』『有馬入湯紀行』など多くの著述を残しています。

 万延元年の大事件というのは大老・井伊掃部頭直弼が殺された、いわゆる桜田門外の変のことで、3月3日雪の朝でした。

 事件の日は当時の年号では安政7年。この事件のため3月28日に至って万延と改元されました。

 森横谷はこの年、まだ安政7年です、3月11日、若干の同行と中国畿内への旅に出ます。その日まで土佐にはなんの噂もありませんでした。

 16日、伊予(愛媛)道後温泉で旅館棉屋万次郎の妻から初めて事件を知らされます。

 「此の日亭主の妻女いふ。江戸表に御大老井伊様を、水戸浪人十数人にて、御下城の所を桜田御門外にて打取りたりと、一両日前より風聞あり」

 「御下城」とあり、情報はゆがんでいます。

 大変なことゆえ口外ならぬといわれていたのか、小声だったそうです。

 森一行は瀬戸内海を渡って20日安芸(広島)に着きます。中屋栄助という旅館に投宿し、金子徳之助という老学者を訪ねます。

 金子「井伊侯、桜田御門外にて盗のため害に遭い給いしの説あり、聞き給えるや」

 森「松山にて商人の話に、井伊侯3月3日桜田門外にて水戸浪人20人ばかり面を包み御駕籠の両方より切り懸かり遂に侯を突き殺したりと聞けり」

 金子「松山にてもその説あれば、いよいよそのことありしも知るべからず」

 こんな問答があったと記されているそうです。

 杜山居士は次のように感想を述べています。

 「金子翁は霜山と号し芸州の大儒なり、芸州は浅野家にて中国の大藩なり、この藩この人にして、桜田騒動の後17日目にして、未だその事実の確否を知らず、これを他藩の人、他藩の噂に聞き尋ねて、初めて事実の確的らしきを認む。封建時代通信機関の不備不便なる、言語の外なりというべし」

 この事件、幕府は最後まで極秘のうちに処理し、後日急病のため死亡したとするのですが、私は、江戸から遠く離れた松山の宿屋のおかみが、この極秘情報を2週間足らずのうちに得ていたことに、杜山居士とは別の驚きを感ずるのです。

 この時代、情報は旅人の口から口へと伝わったのでしょうか。だとすれば、旅館というところは情報の交差点。

 なおこの桜田門外の変、訪米中の遣米使節団は4月23日にフィラデルフィアの新聞で知ることになりますが、殺されたのが井伊直弼とは分からなかったようです。3月には閏月がありましたので約80日かかったことになります。





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 あすはいよいよ討ち入りの日。(11)「47士か46士か…寺坂吉右衛門のこと」のつづきです。合わせて読んでください。

 青山義正さんはこの講演のなかで忠臣蔵の大石内蔵助良雄の祖先は土佐の出であるという説を紹介しています。(『土佐史壇』2号=大正7年)。

 もし兵庫県の方がお読みになっていましたら、高知県にはこんな話も伝わっているとご承知ください。

 まず一つの説、青山さんは否定しますが…。

 高知県中部の山の中に本山(もとやま)という町があって、そこの大石という地区に大石姓を名乗る家が数軒あるそうです。

 慶長年間、土佐の領主が長宗我部から山内に代わって間もなく、ここを山内刑部という家老が治めることになります。

 慶長8年(1603年)圧政に住民が立ち上がり、本山一揆とも瀧山一揆ともいわれる抵抗運動が1カ月余り続きました。

 結局は鎮圧されますが、一揆の大将・左馬之助(高石左馬允、本姓大石と青山氏は言っています)が四国山地を越えて逃れ、赤穂に至ったとされます。

 しかし青山氏は2つの理由を挙げてこれを否定します。

 本山一揆は慶長8年、討ち入りは元禄14年(1710年)、この間100年余り。乱世ならいざ知らず、すでに太平の世の中、門閥を重んじたあの時代に、敗残のよそ者の家系が100年ほどで家老の地位まで登ることはありえない。

 また良雄家の先祖はかなり前まで明らかになっており、曽祖父の内蔵助良勝と高石左馬之助がほぼ同時代に当たるからいよいよおかしい、という訳です。

 ところが、この良雄の先祖が、先の本山から出たという別の資料があるのです。

 ちょっと長くなりますが、書いてみます。

 高知の町の商人堺屋某がある年、琴平に参詣したあと丸亀から大阪へ赴いた。同じ船にひとりの老尼が乗り合わせた。その時聞いた身の上話が書き物となって残っている。

 老尼が「本山という所は土佐の城下からどれほど離れているか」と聞くから、1日くらいと答えた。

 すると老尼は「私の先祖は本山の出です」という。大石良雄の末女で清圓尼と名乗った。

 老尼の話によると、良雄の妻、つまり母は但馬豊岡藩石塚源五左衛門の妹で、ふたりの間に生まれた子は5人。

 長は女、次は討ち入りに加わった主税良金、その下が女、次が大三郎、最後が女即ち清圓尼。

 この時尼は84歳、父が在世中恩顧を加えた京都堺町土屋庄右衛門方に身を寄せているという。父良雄が切腹した時は11歳だったそうです。

 これから計算しますと尼は元禄6年(1693年)の生まれで、船に乗り合わした「ある年」とは安永6年(1777年)ということになります。

 そして尼は大石遺族の末路を詳しく語っています。姉妹3人で母方の仇をとった話もしています。腕や肩には刀傷があったそうです。

 大三郎は自殺し、良雄の男系血脈は絶えました。それだけ、土佐にありという祖先のことが思われ、生涯のうちにはぜひ本山に行って祖先の墓参を果たしたいが、まだその機会に恵まれないのが残念だとしみじみ語ったそうです。

 私は大石内蔵助良雄の家庭のことについてはほとんど知識がありません。符合するでしょうか。3男3女だったということを読んだ記憶がありますが…。

 青木義正氏が語ったもう一点、討ち入り当日泉岳寺にいて大高源五ら4人の遺墨を持って宿毛に帰った白明というお坊さんの話は新聞に載りました(12月8日付高知新聞夕刊)のでやめます。

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 日本人として初めてアメリカに渡った中浜万次郎が過ごしたフェアヘーブン(マサチューセッツ州)のホイットフィールド家が記念館として修復され、来年5月「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として開館する。

 記念館開設の会の代表を務める聖路加国際病院の日野原重明・理事長は97歳という高齢にもかかわらず日米両国を往復して活動しておられる。

 発起人会の初会合はことし1月15日でした。すごい行動力です。

 ところで12月8日、私の世代はすぐ日米開戦の日、真珠湾攻撃と反応しますが、当時のアメリカ大統領はルーズベルト。

 ルーズベルト大統領といっても2人いて、1人は第26代のセオドア、2人目が第32代のフランクリン・デラノ(在任1933~1945年)。2人は従兄弟です。

 この32代から万次郎の子息・中浜東一郎氏に来た手紙があります。

  『土佐史談』44号は昭和8年7月15日の大阪朝日新聞の記事を転載して、東一郎氏の喜びぶりを報じています。

 この手紙は大統領の曽祖父が、万次郎らを救出したジョン・ハウランド号の持ち主の1人だったと述べています。(新聞記事は「曽祖父」となっています)

 このことは東一郎氏の孫・中浜博氏の著書『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(平成17年、冨山房インターナショナル)にも載っていますが、あまり知られていませんので、土佐史談記事に読み当たった機会に同書から紹介しましょう(46~47ページ、手紙の写真つき)

 1933年6月8日
 親愛なる中濱博士(中略)
 私はフェアヘーブンのワレン・デラノのgrandsonです。彼はお父様をフェアヘーブンにお連れしたホイットフィールド船長の船のpart ownerです。
 私の記憶によると、あなたのお父様は私の祖父の家のすぐ筋向かいのトリップさんの家に住んでおられました。
 私の少年の頃、私の祖父がフェアヘーブンの学校に通い、時々デラノの家族と一緒に教会に行った小さな日本の少年についていろいろなことを私に話してくれたのをよく覚えております。(中略)
 中濱という名前は私の家族の記憶にいつまでも残ることでしょう。(後略)

 東一郎氏の喜びの声「大統領からの親書で長く親交を結んでもらいたいというのは、まことに光栄であり、同時に父の伝記研究の貴重な新材料が増えてうれしい」

 万次郎が暮らしたホイットフィールド船長の家は一時取り壊されそうになっていたが、日野原理事長らの募金活動で買い取り、修復中とのこと。

 大統領の手紙にあるトリップさんというのは、博氏の著作によると、万次郎の無二の親友で、一時そこに泊まっていたのかも知れないということです。


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 前回は兄・義正のことだったので今回は弟・雄幸の話。
 昭和4年(1929年)7月2日、立憲民政党総裁として60歳で第27代内閣総理大臣に就任、明治生まれで初めての首相でした。
 同5年11月14日、東京駅ホームで佐郷屋留雄という右翼青年にピストルで撃たれ、その傷がもとで6年8月26日死去した。
 同年4月まで22カ月の在任期間中、金解禁や緊縮政策を断行し、軍部の横暴を抑えてロンドン海軍軍縮条約に調印した。
 これらの業績については多くの伝記や研究書がある。また『土佐史談』でも正延哲士氏が数回にわたって論考を発表している。(207号=平成10年、208号、210号、214号、220号、221号)
 ここでは政治問題は措いて生い立ちを取り上げてみたい。
 雄幸は明治3年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(現高知市)の水口胤平、繁子の三男として生まれた。
 雄幸は「ユウコウ」と読まれることもあるが高知では「オサヂ」。「ヂ」と濁る。この発音、できるのは土佐だけかも知れない。東京などでは「ジ」であろう。
 この名前の由来について城山三郎著『男子の本懐』(昭和54年、週刊朝日連載)は次のエピソードを書いている。
 男子の続いた水口家では女の子を欲しがり「お幸」という名を用意した。ところが3番目も男の子。そこで「お」を「雄」に変えて届けた。
 ところが、異説あり。インターネットのフリー百科辞典ウィキペディアにはこうある。
 出生届を出しに行く途中で父親が酒を飲み、酔ったため誤って名前の前後を逆に記入したという。
 偉人ともなると、いろいろ逸話が言われるものである。
 水口雄幸は明治22年(1889年)高知県安芸郡田野村(現田野町)浜口義立(ヨシナリ)の長女・夏子と結婚し、浜口家の養嗣子となるが、五台山村と田野村は50キロほど離れている。
 どうして結びついたか。その経緯についても2つの違った話が伝わっている。
 まず前掲『男子の本懐』から。
 男の子2人を夭折させた浜口家は、いい婿養子を迎えることが悲願。近廻りには候補者は居なかった。雄幸が自宅から徒歩で通う高知市の高知尋常中学校(現追手前高校)にまで乗り込んで卒業生から在校生の成績や操行まで調べ上げる。
 白羽の矢は雄幸の上に落ちる。校門で待ち構えて首実検もした。
 なるほど容貌は問題だが、男は顔ではない。手づるをさがして水口家へ縁談を持ちかけ、自分でも直接出向いて懇望した。
 話がまとまって二人の初対面は19歳と16歳。少年を初めて見た少女は「まあ、あのひとかよ!」と、思わず声を上げた、と城山三郎氏は書いてある。
 その2は土佐史談会会員の内川大海氏が『土佐史談』221号(平成14年)に発表した「浜口雄幸と野村茂久馬」。
 まず野村茂久馬という人物。高知の人なら大抵知っているだろう、赤バス高知県交通の創業者。土佐の交通王といわれた貴族院議員。
 田野村の隣り、奈半利村(現奈半利町)の生まれ。父に連れられて高知市に出、雄幸とは高知尋常中学校へ明治18年に入学した同級生。
 学校の規則で全員寮へ入らされた(この点も城山本とずれがある)が、2人は8畳の部屋に同室であった。このことは茂久馬が創立した高知通運『六十年史』にも載っている(同書72ページ)。
 ある日、茂久馬が故郷へ帰って奈半利川で鮎釣りをしていると、父親健吉と親しかった義立も釣りに来ており、「娘の婿になる良い青年は居ないかね」と問われた。茂久馬は即座に雄幸を推薦し、話が進んだという。
 浜口雄幸の語録としては城山氏の伝記小説のタイトルともなった「男子の本懐」が有名だが、高知県安芸郡芸西村にある研修施設「考える村」の語録の道には「正しく明るき政治に機密費が要るわけがない」と刻んだ碑がある。昭和5年度予算編成で雄幸は不明朗な各省機密費を30%削った。その時の言葉というか信念。(前掲『男子の本懐』=新潮社刊城山三郎全集第1巻166ページ参照)
また平成10年には彼が19年間暮らした五台山の生家が復元されている。

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