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  あすから師走。師走といえば…。

 大石内蔵助を総大将とする赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入り主君の恨みを晴らしたのは今から300年あまり前の元禄15年12月14日のこと。

 上野介の首級をあげて泉岳寺へ引き揚げる一行の中にただひとりの足軽寺坂吉右衛門の姿はなかった。46人であった。

 逃げたという説、大石から密命を受けて一行から離れたという説、いろいろあって本当のところは分からない。

 ただ「忠臣蔵」の物語では浅野内匠頭の遺族らへ報告するよう大石から命ぜられ西に向かったと描かれている。

 今回はその吉右衛門が土佐藩士として無事83歳の生涯を終えたという話。

  『土佐史壇』2号(大正7年)に青木義正という人の講演要旨が載っています。浜口雄幸・第27代内閣総理大臣の実兄で土佐高等女学校の校長などを勤めた人です。(水口家から養子に行って青木家を継ぎました)

  「赤穂義士と土佐との関係」と題した講演で3つの側面から薀蓄を傾けていますが、そのなかから今回は吉右衛門と土佐との関係を紹介します。

  吉右衛門が姿を消したのは内蔵助から「お前は今後の行動を他と共にする必要はない。お前には別に使命を与える。安芸(広島)゜に行って今回の義挙の顛末を告げよ」と命じられたからである。

 吉右衛門は早速早馬に乗って、まず赤穂に駆けつけた。3昼夜で着いた。当時、江戸と播州との間を3日で到着するということは異例の速さである。

 浅野家と縁故のあった華岳寺の蟠渓和尚に事の次第を報じたあと広島へ馬を走らせる。広島の浅野本家には蟄居中の浅野大学(浅野内匠頭の弟)がいた。

 使命を果たしたあと江戸に帰って幕府に自首するが、すでに46人の処刑も済んでいたので格別の詮議もなく無罪放免となった。

 その後、義士の一人吉田忠左衛門の女婿、姫路藩士の伊藤某(別の史料により伊藤十郎太夫、或いは伊藤八郎右衛門)に仕え、再び江戸に出て麻布の曹渓寺に身を寄せた。

 寺の僧(梁州禅師)が檀家である麻布山内家(麻布様)の主膳公と懇意だったことから、その紹介で麻布家に奇遇することになったわけであるが、これは討ち入りから16年のちのことである。

 この頃山内家は7代豊常公が家督を継いだ翌年であったが、室鳩巣という人物が斡旋して吉右衛門の籍を土佐の本家に移そうという動きがあった。

 ところが、山内家は米澤の上杉家と縁談が進行中であり、上杉家は吉良家と父子の間柄、この辺の遠慮があって召し抱えのことは成立せず、麻布家お抱えのまま、麻布の屋敷で死亡した。
 
 これらのことは『土佐史談』33号(昭和5年)に福島成行氏(山内家家史編輯者)も書いており、それによりますと、吉右衛門は麻布様のもと「刀矢のこと」を担当し、夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。

 子孫も代々、麻布山内家に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、明治維新に至って土佐藩士の禄を離れています。そして今は信正さんの時代で茨城県に健在だと昭和9年12月20日の高知新聞を転載した『土佐史談』50号は伝えています。

 寺坂吉右衛門の正統であることを物語るものとして同家には、討ち入りの際吉右衛門が使用した衣服の片袖、槍1筋、提燈の柄、家系図があるそうです。

 最後に昭和9年6月12日の大阪朝日新聞の記事を紹介します。『土佐史談』48号が転載したもので、見出しは「寺坂吉右衛門の逃亡説は覆さる 貴重な文献現はる」。

 姫路藩士・伊藤十郎太夫の子孫の家から義士の手紙など古文書133点が出てきたということを報じています。

  青木義正氏は、講演のなかで大石内蔵助良雄の先祖は土佐の出であるとの説、義士の遺墨が土佐に伝わった由来についても述べていますが、これはまたの機会に。
 
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 前に一度お話しましたが、『土佐史壇』は大正6年の創刊、明治でかぞえますと50年ですから、藩政時代を経験し、維新の嵐を潜り抜けてきた方たちが多数健在でした。

 雑誌にはその人たち体験談や文章が記録されており、文字通り史料の宝庫です。

 今回はその中から安芸喜代香という自由民権運動の闘士が石川島監獄に収監され、どんな仕打ちを受けたかを、彼が大正7年6月23日、土佐史談会で講演した筆記録から紹介します。(『土佐史壇』3号所載)

 明治20年(1887年)東京は3大事件建白運動で騒然としていました。

 3大事件とは①売国的な条約改正を止めよ②言論出版集会の自由を認めよ③地租軽減を断行せよーこの3つの目標を掲げて全国から多数の総代が上京、政府に対して陳情活動を繰り返した運動です。

 あまりうるさいので政府は12月26日、突如「保安条例」なるものを発布して「明日午後3時までに帝都を隔たる3里以外に退去せよ」と命じて来ました。

 拒否したものは即逮捕されました。

 安芸たちは硬軟両様の議論を戦わしましたが、吉本松吉という人物の説得を受け入れていったん横浜まで退却します。

 吉本というのは高知で代言人(弁護士)をしていましたが、大阪の代言人事務所に招聘されて移り、その足で大阪の総代となって上京していました。

 穏健な考え方の持ち主で、獄につくのはたやすいが、ここは退いて戦線を立て直そうと「苦諫百端声涙共にくだる」説得に同席の一同これを受け入れます。

 横浜の旅館に落ち着いたものの、考えれば考えるほど腹の虫が収まりません。

 安芸、横山又吉、門田智、長沢理定、高田一二の5人は保安条例の取り消しを求めて引き返し逮捕されました。(『土佐史談』158号、高田雁山「保安条例違犯事件顛末」)

 そして石川島監獄署の12番監に放り込まれます。12番監とは徳川時代から国事犯を入れておく所で、この時は片岡健吉や星亨ら40人ほどが収容されました。

 明治政府は反対党を火付けか強盗のように見ていたので、扱いは捕虜以上に虐待され、少しでも不服をいうとすぐ殴られる。看守にサーベルで殴打された者も少なくなかった。

 片岡健吉ら2、3人キリスト者が居ましたが、この人たちがお祈りをするに声を出して祈ると、看守が大声で怒鳴りつける。そのため信者たちは黙祷をしていました。

 肉体的に一番苦しかったのは食べ物が少なかったこと。

 軽禁錮刑でしたから労働はありませんでしたが、その代わり飯は「四合飯」。四歩六飯といって麦が6歩に米が4歩、果たして4合あったかどうか。藁切れが多く入っていました。

 監房の障子が破れ放題で、寒風が吹き込む。その穴をふさごうと紙を張るのですが、5粒10粒の飯粒を出し合うのが大問題となるほど、みんな飢えていました。

 副食物は香の物が2切れとごま塩ひと摘み、朝は薄い味噌汁が1椀。

 労働に出ますと五合飯が食べられると、1合の飯に釣られて平囚の働いている工場へ行く者もありましたが、私(安芸)は空腹を忍んで終日なるべく動かないようにして本を読んでいました。

 明治21年2月10日のことでした。典獄からのご馳走ということで煮た鶏肉が山盛りで幾鉢も出ました。そのうえ飯は毎時の四六ではなく上白の米飯でした。

 特赦放免が近いと感じましたが、案の定、翌11日の紀元節、早朝に教戒堂へ呼び出され、東京裁判所からの大赦出獄及び保安条例違犯解除の命令書を伝達せられ出獄できました。

 なお吉本松吉はそのまま横浜から大阪に帰り、尻無川事件の弁護などを担当します。

 尻無川事件とは、明治政府の打倒と大臣暗殺を企てたグループが、その資金提供を依頼した友人を、密告を恐れて、大阪府下尻無川畔で殺害した事件です。主犯処刑後も埋葬の世話に当たるなど民権派の代言人でした。


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 戦国時代―文字通り戦いに明け暮れる毎日ではなかったであろうが、ひとたび戦闘が起きると、攻め込まれる側は戦場も銃後もなかった。
 
 槍や刀を持って殺し合いに参加しない女性も、いや応なしに戦いの修羅場に巻き込まれざるを得なかった。

 『おあん物語』という本がある。関ケ原合戦(慶長5年)を敗戦側で体験した女性の昔語りを後世、氏名不詳の作者が書きとめたものである。

 『土佐史談』215号(平成12年)で松本瑛子先生が研究を発表している。女性史のうえからも貴重な史料といっている。

 おあんの父は山田去暦。この名は剃髪後の号で、山田上野という人物と同一人ではないかという。
 
 敗軍の石田三成に仕えていた去暦は美濃大垣城に籠っていた。徳川軍が攻めてくる。佐和山城ではないかという説もあるが、それはともかく城中のおあんたち女性はどうしていたか。

  「われらも母人も其外家中の内儀むすめたちも皆々天守に居て鐵炮の玉をい(鋳)ました。
 又味方へ取たる首を天守へ集められて夫々に札を付てならべおき夜る夜る首におはくろを付ておじやる。
 それはなぜなりや。昔はおはぐろ首は能き人とてしやうくわん(賞翫)した。夫故白は(歯)の首にはおはぐろ付て給はれと頼まれておじやつたが後は首もこわい物ではおりない(ござらぬ)。
 其首共の血くさい中にね(寝)た事でおじやつた。」(『日本庶民生活史料集成』第8巻373ページ、昭和44年 三一書房発行)

 砲弾を鋳造するのはともかく、生首の並ぶなかで寝起きし、首に化粧するとはすさまじい体験である。

 この時代の戦い、切り取った敵方の首の数が論功行賞の対象だったとか。戦場に散乱する首のない死骸、いつ、誰が、どうやって始末したのだろう。葬ったのか、葬らなかったのか、私には想像できない。

  松本先生はまたお歯黒の歴史にも少し触れている。

 去暦一家は城の堀をたらい舟に乗って脱出した。

  「母人我等をつれて北のへい(塀)わきよりはしごをかけてつりなわ(釣縄)にて下へさがり扨たらひにのりてほりをむかふへ渡りておじやつた。」(前掲書)

 一家は翌慶長6年、土佐へやって来た。嫡子助丞が山内氏に馬廻格で召し出され、藩政時代を通じて家臣団の位置を保った。

 おあんは雨森という人と結婚、子供はいなかったようだ。

 明治に入って立志社の二代目社長を勤めた山田平左衛門は後裔。いまは男系が絶え、他家へ嫁いだ女性がご主人ともども高知市筆山にある四カ所の墓地と系図を守って神奈川県にお住まいである。

 なお蛇足ながら私の宣伝を少々。この山田一族のなかに万延元年遣米使節団に随行した馬次郎という若者がいて、アメリカのチェス倶楽部の面々を前に日本の将棋の手ほどきをした話などを『土佐史談』239号(12月20日発行予定)に書かしてもらっています。


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 「長宗我部人気、テレビゲームで急上昇」という記事が10月22日の高知新聞に載りました。

 カプコンという会社が売り出しているゲームソフト「戦国BASARA」に長宗我部元親が海賊の親分として登場し、子分から「アニキ」と呼ばれているそうです。

 長宗我部元親(長曽我部元親となっている本もあります)、土佐人なら知らぬ人はないでしょう。徳川時代の山内氏の前、戦国時代はこの人が土佐の支配者でした。

 永禄3年(1560年)父の死後家督を継ぎ、岡豊城(現南国市)を拠点に15年かかって天正3年には土佐全土を支配下に収めました。現高知市に本拠を移し天下取りを目指します。

 野心家ですねえ。激しい戦火を交えながら天正13年春には四国統一を果たしますが、豊臣秀吉の四国征伐にあって降伏、もとの土佐一国に封じ込められました。

 この人、戦争だけでなく、政治家としても非凡な才能を発揮し、文学のたしなみもあったと伝えられていますが、今回はこれは措いて、海賊・水軍の話。

 秀吉の配下に入った元親は、秀吉の全国制覇の先兵として各地の戦闘に動員され、外国にまで遠征させられます。

  『土佐史談』173号(昭和61年)で吉永豊実氏が「長宗我部氏の海事政策」と題して論じていますが、水軍による戦として①長浜城戦②大隅攻略③小田原城戦④朝鮮遠征を挙げています。

 ここでは小田原城戦を取り上げます。

 天正18年(1590年)春、天下統一の仕上げを目指した秀吉の命令で、北條氏(隠居・氏政、当主・氏直)を小田原城に攻めます。(小田原評定というのはこの時のことです) 

 元親は大黒丸という大船を陣頭指揮して上陸作戦を敢行、大勝を収めて秀吉から「今度の手柄日本一」とお褒めの言葉をいただきます。乗組員にも鳥目(銭)など数々の褒賞があり、日頃から力を入れていた船の成果があがった戦でした。

 元親の伝記『元親記』の「小田原陣の事」を掲げます。(土佐文学研究会著『注釈元親記』=昭和47年、土佐史談会発行)

 四国衆は船手ににして、伊豆崎を乗り廻し、佐川口の請取り(担当)にて、元親、加藤左馬助殿同じ口に陣取って堅め、要害を拵へ持たれたり。
 この時、元親卿大黒丸と云ふ十八端帆の大船、池六右衛門船大将して、伊豆崎を乗り廻し、塩懸かりして(潮時を待って停泊)元親卿よりの一左右(命令)を待つ。
 この船、櫓衆(矢倉衆、兵士)二百人乗りたり。石火矢(大砲)二挺、十匁の鉄炮二百挺、弓百張、鎗二百本、長刀六十枝、熊手、火矢の道具、数限りなく入れたり。
 扨、塩時を得て、一左右有りて船を飾り立て、どらを打ち、貝を吹き、船子ども足拍子を揃へ、板を踏み鳴らし、喚き叫んで城の南表より押し入る。(中略)浜の手の櫓を二つ、石火矢を以て打ち崩し、要害を打ち破り(後略)
 
 このあと元親は秀吉の暴挙の手先となって朝鮮に水軍を出します。この時の残虐行為を見ますと、「アニキ」と呼ぶには躊躇しますが、海賊のキャプテンとしてイメージしたゲームソフトもあながち的外れではないように思えてきました。
 
 しかし、海賊の名がなぜ「長宗我部」でなければならないかは分かりません。珍しい姓だからでしょうか。


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 森小弁という人を知っていますか…いきなりいわれても答えられる人は少ないと思いますが、さきごろ(2008年11月)来日され高知をも訪問したミクロネシア連邦エマニュエル・マリー・モリ大統領のひ祖父さんに当たる人です。

 明治25年(1892年)たった一人でトラック諸島(現チューク州)に上陸、現地の娘さんと結婚してコプラの輸出を手がけ、同諸島水曜島の大酋長に押し上げられました。

 11人の子宝に恵まれましたので今では2000人を超す子孫がいるといわれます。

 平成9年にひ孫のマーリーンさんが高知を訪れていますが、この方は小弁の11番目の子の子供(16人)の子・実氏の長女と言っていましたから一大ファミリーの繁栄ぶりがうかがわれます。

 人口11万人の2割を占める日系の人たちに支えられて大統領は2007年5月に選出されました。小弁の長男・太郎の孫。ことし59歳。

 小弁は昭和8年(1933年)から講談社の雑誌『少年倶楽部』に連載された「冒険ダン吉」という絵物語のモデルとされることもありますが、それはどうもあやしく、作者の島田啓三のフィクションであるとの説が有力です。主人公のダン吉はなぜか腕時計をはめています。しかしその生涯はダン吉そのものです。

 森小弁(1869~1945年)の人となりは、『高知県人名事典 新版』(高知新聞社刊)から引用さしてもらいます。

 「明治2年10月15日現高知市生まれ。父可造、母加奈。若いころは自由民権運動に傾倒し、激化事件の一つ大阪事件に連座して投獄される。出獄後政治を志し高知縣出身の政治家・大江卓、後藤象次郎の玄関番になるが、やがて政治に失望、当時の北守南進論の影響もあって南洋貿易を夢見るようになる。新設のミニ商社「一屋商会」に入り、明治24年(1891年)12月帆船「天祐丸」で横浜を出港」した。

 そしてミクロネシア初の日本人定住者となるわけですが、この森氏の先祖はなんと豊臣秀吉に最初から仕え九州小倉の城主にまでなった壱岐守勝信と分かりました。関ケ原の戦では敗軍の将ですが、山内一豊が引き取って子供ともども土佐に住んでいました。

 森(毛利)勝信の嫡男は豊前守勝長、大阪夏の陣が始まると土佐から駆けつけ、真田幸村が右陣を守れば、勝長は左陣を受け持って徳川家康軍と戦い、遂に長男とともに討死しています。

 その二男司次が土佐へ逃げてきて土着、その子が荒地を開拓して郷士にとり立てられ、幕末維新に至って小弁の従兄三兵衛が戊辰戦争で戦死、その功で森家は上士である新御留守居組に昇格しています。

 これらのことは『土佐史談』108号(平成10年)と215号(同12年)で内川清輔氏が、発掘した新史料も交えて発表しています。内川氏は「なんと波瀾に富み、歴史を強く生きた家系であろうか」と感嘆していますが、これに続く小弁からエマニュエル大統領に至る生き様も私たちを勇気付けるものがあります。

 なおモリ大統領は今回初めて高知まで足を延ばし、11月8日から10日まで滞在しました。この間、高知市中秦泉寺にある勝信の墓にお参りを果たしています。高知城や日曜市にも徒歩で出かけました。高知新聞は「外務省の担当官はおろか警護もつかず」と書いていましたが、まさか。いくら非公式訪問と言っても一国の元首です。警備陣、本当に知らん顔だったでしょうか。


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 今回は『土佐史談』を離れます。

 政府は追加経済対策として総額2兆円を国民一人ひとりに分配することを決めました。一人あたり1万2000円で、65歳以上と18歳以下は8000円加算だとか。

 兆という巨額も頭割りにすると僅か、1回でおしまいですから私には僅かに見えます。

  思い出すのは「米100俵」の話です。

 明治元年(1868年)戊辰戦争に敗れた長岡藩(新潟県)にその窮状を見かねた支藩の三根山藩から100俵の米が送られてくる。

 どう使うか。藩士の多くは分け合って飢えをしのごうと望んだ。

 いろいろ論議はあったであろうが、藩庁は敗戦国の復興を図るため「書籍器械の費」に当てることにした(同3年5月7日付長岡藩政庁触書)。

 この評決をリードしたのは学校設立に熱心だった大参事文武総督の小林虎三郎であった。

 虎三郎には17歳下の雄七郎という末弟がいた。慶応義塾に学んでいた。

 同4年の春、土佐藩の海南学校から福沢諭吉のもとへ英語の教師を招聘したいという話が持ち込まれた。

 雄七郎は福沢の指示で塚原周造、梅浦精一、吉田五十穂らとともに高知に赴く。病身だった虎三郎も暖地療養をかねて同行する。
 
 一行は品川沖から土佐藩の汽船もみぢ丸に乗って高知に着いた。この船はアメリカの河蒸気を購入して修理したものであったから速力が遅く、5日もかかった。揺れもひどかった。

 高知ではテロに倒れた吉田東洋の子、吉田正春と親しくなった。海南学校で教えた科目は分かっていない。(松本健一著『小林虎三郎「米百俵」の思想』=平成13年学習研究社=から抜粋)

 高知での足跡が私の力では分からない。

 高知縣立図書館に『海南学校仝窓會名簿』(大正14年10月現在)がある。明治5年以降の先生・生徒の名簿だが、同5年5月離高とされている小林雄七郎の名前を見つけることはできなかった。



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 大河ドラマの話が出たついでにもう1件。少々長くなります。
 平成22年は『龍馬傳』。三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎から見た新しい龍馬像を描くという。主役の龍馬には意表をついて歌手の福山雅治が起用された。龍馬については研究し尽くされ、描き尽くされて、もう新しい切り口はないと思いきや、オリジナル脚本といいますから、時代劇経験のないフレッシュ福山とともに期待しましょう。タレントとしてのイメージが突出固定していないだけ、龍馬像に変な邪魔が入らなくてよいかもしれません。
 ところで、頭がよくて漢学では土佐の4神童のひとりといわれた弥太郎、安政6年(1859年)藩から長崎へ派遣されたときは外国語に悩まされて、「蟹行(かいこう、横文字)してその意を通ずる能はず、げき舌(げきぜつ、鳥がさえずる言葉)してその語を解せず」と悲鳴をあげ、とても勤まりませんと解任を願い出て長崎を引き揚げています。
 それから8年、勉強したでしょうね。慶応3年、藩の出先長崎土佐商会の主任に抜擢され、一切のことを取り仕切ることになります。
 商会は外国商社と交渉をもつと同時に坂本龍馬の海援隊の事務方を努め、資金や食糧・石炭の手当など面倒をみますが、龍馬の発言力は強く、経営の面で板ばさみになり苦しい場面もあったようです。(土佐史談117号、中野忠明「土佐藩の長崎貿易に現われた岩崎弥太郎」から)
 そんななか、イカルス号事件は起こります。英艦イカルス号の水兵2人が長崎市丸山の遊郭街で殺された事件です。実際は福岡藩士の犯行であったことが明治になって分かるのですが、当時犯人の疑いが海援隊にかかり、英国公使パークスが軍艦を率いて土佐に乗り込み、犯人差し出しを要求してきました。
 この事件処理に当たって弥太郎は消極的というか、長いものには巻かれろ主義だったようです。疑いを招いた当日の海援隊所属船「横笛」の行動については「ぬれぎぬだ」と主張する龍馬らとの間に「言った」「聞いてない」の激論があったといわれます。『土佐史談』では201号(平成8年)で徳弘寿男さんが「土佐における維新夜明けの一断層」として書いており、「明治以降の岩崎弥太郎は土佐人の単純さ、非合理性、非妥協性を最も嫌い、自ら、土佐が郷土(おくに)であることを忘れようとさえしたように思える」と述べています。
 ついでながら、弥太郎は日記のなかで龍馬を「良馬」と書いています。「りょうま」と呼ばれていた証明にはなりますが、どうしてこう昔の人は当て字を書くのでしょう。筆記具の毛筆と関係があるのでしょうか。
 なお弥太郎の若いころの人となりについては『土佐史談』73号(昭和15年)で松村巖さんが次ぎのような挿話を紹介しています。
 ◇ある結婚披露宴の席で酒の一気飲みに挑戦、「初は2合5勺より、次は5合に至り、1升を盡くす。長鯨の百川を吸うが如く、皆、一口にして吸盡す。客皆喝采して已まず」。翌日、客のひとりが体の具合を尋ねたところ笑って曰く「吾れ盃を飲むまねして悉く懐中に傾瀉す。但衣褌の沾湿せしを覚えしのみ」
 ◇江戸で安積艮斎の塾に学んでいた時、近くで火事が起こり、塾に火が迫ってきた。師弟あわてて避難したところ艮斎の母の姿が見えない。「艮斎、弟子を顧み、大声疾呼して曰、誰か入て母を救う者ぞと。弥太郎、声に応じ身を躍らして馳せ入り、これを助けて出づ」。


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 固有名詞の読み方でもう一度。
 土佐藩の初代藩主・山内一豊。平成18年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公として脚光を浴びました。慶長6年(1601)遠州掛川から土佐へやって来た。
 高知の地元では「ヤマウチ・カツトヨ」と呼ぶのが普通(土佐山内家宝物資料館)。大河ドラマでは「カズトヨ」となっていて不満を漏らす郷土史家もいました。
  『土佐史談』では173号や215号に土佐山内家18代当主の山内豊秋さんが、一豊の人となりについて「太り気味で目が少し赤く(高血圧体質?)酒は洗杯に二三杯」と書いています。
  なお神奈川の首藤山内家では「山内」を「ヤマノウチ」というそうで、東京のアナウンサーが「土佐の地元ではヤマウチというヤマノウチ・カズトヨ」とニュースを読んでいたのを聞いたことがあります。




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 みなさんは『坂本龍馬』をなんと読みますか。「りょうま」「りゅうま」?
 昭和四年の国定教科書高等小学国史に龍馬が登場し、その振り仮名が「りうま」、同八年の小学国史教師用も同じく「りうま」となっていた。教科書だから間違ったことを教えてはいかんと、土佐史談会は松山秀美会長の名で「りょうま」と訂正するよう申請書なるものを文部大臣宛に出した。五つの理由を挙げている。昭和九年のことである。(『土佐史談』四八号一六八ページ)。これが効いたかどうか、同十二年の高等小学国史では「りょうま」に変わっている。
 これは読み方、呼び方の問題だが、当用漢字のできた戦後になると「りょう・りゅう」の書体が「竜」となる。新聞は「竜馬」を使い始める。司馬遼太郎氏も『竜馬がゆく』である。ある日、土佐史談会のメンバーが新聞社へやって来た。龍馬本人が手紙に「龍馬」と書いているから「龍馬」にしてくれという。幕末に竜という書体はないから、字をどんなに崩しても竜にはならない。署名がすべて「龍馬」なのは当然だが、別人と思われてもいかんので、高知新聞としては「龍」で行こうと統一した思い出がある。(文芸作品の題名などは例外)
 昔の人は平気で当て字を使う癖があり、坂本も阪本であったり、龍馬が良馬となっていたりするので注意を要する。
 もとへ戻って教科書の話。現在の小学六年社会科のある教科書では、読み方は「りょうま」、漢字は「竜馬」となっているそうである。


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