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  今回はこの雑誌の話。第一号が出たのは大正六年九月。誌名は『土佐史壇』でした。この名前は第十七号(大正十五年)まで続きます。十八号から今の『土佐史談』。
 創刊号を開いてみますと、安藝喜代香という人の講演要旨「板垣伯岐阜遭難に就て」が載っています。板垣伯というのは自由民権運動の指導者で自由党総理・板垣退助。明治十五年四月六日、岐阜市を遊説中、暴漢に襲われ短刀で刺されました。その時「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を吐いたと『自由党史』に書かれています。
 安藝喜代香は伯に随従して現場に居合わせました。「自由は死せず」という有名な言葉は自由党史の著者がまとめ上げた科白(せりふ)で本当は土佐弁で「馬鹿なやつ、板垣を殺したちいくか、自由は死にゃせんぞ」と叫んだと話しています。


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 手始めに、土佐藩の15代藩主・山内豊信公。容堂と号しました。明治5年(西暦1872年)46歳で亡くなりましたが、歯が非常に悪く、金の総入れ歯をしていたそうです。金の入れ歯はこの人が初めてではないかと言われています。口をすすぐのにダイダイの汁を精製したポンズを使っていました。
 尾籠な話ですが、トイレに居る時間が長く、2時間にわたることもあったということです。すこぶる潔癖で、手を洗うにも肱から先全部という具合。
 お酒が好きで、一晩に1升5合はあけられた。小さな盃でチビリチビリとやるものだから長くて、燗(かん)の世話をするお付きの者は大変。また参内するときもヒョウタンを離さなかったということです。
 駕籠に乗るのが嫌いで、登城は専ら馬。乗馬は達者であったから、騎馬でお供する者は閉口したそうです。『土佐史談』46号(昭和9年)に福島成行さんと松村巖さんが書いています。


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