2017.06.26
竹の花など
私が京都を離れて67年になります。
相国寺東門前町に住んでいました。お寺の土塀が続く片側だけの町で、中ほどに「ラジオ食堂」という外食券食堂がありました。田舎から出てきた学生さんたちのお世話をする、ご夫婦だけで経営する小さなお店。近くに桑原武夫先生や田畑忍先生のお屋敷があったのを覚えています。
先日、桑原先生から寄付された膨大な蔵書を京都図書館の職員が処分してしまったというニュースが報じられていました。司書ともあろう職員が、書物に対してどんな「処分」をしたのでしょう。廃棄物として出したのでしょうか、まさか切り刻んだりはしなかったでしょう。もったいないことです。
私が個人としてデジタル化を進めてきた雑誌『土佐史談』は先ごろ264号に達しました。ページごとに画像だけでなくテキストも添えてありますので、文字検索が可能です。
6月16日の高知新聞夕刊に、高知市内で「竹の花」が咲いているのが見つかったという記事が載っていました。竹は120年に1度しか花をつけないと言われているそうで、こころみに「竹の花」で検索してみますと、1件だけありました。「竹が花をつける年は『凶作』」だそうです。(58号=1937年)。高知県女子師範学校郷土室が調べた土佐の習俗迷信の一コマです。
相国寺東門前町に住んでいました。お寺の土塀が続く片側だけの町で、中ほどに「ラジオ食堂」という外食券食堂がありました。田舎から出てきた学生さんたちのお世話をする、ご夫婦だけで経営する小さなお店。近くに桑原武夫先生や田畑忍先生のお屋敷があったのを覚えています。
先日、桑原先生から寄付された膨大な蔵書を京都図書館の職員が処分してしまったというニュースが報じられていました。司書ともあろう職員が、書物に対してどんな「処分」をしたのでしょう。廃棄物として出したのでしょうか、まさか切り刻んだりはしなかったでしょう。もったいないことです。
私が個人としてデジタル化を進めてきた雑誌『土佐史談』は先ごろ264号に達しました。ページごとに画像だけでなくテキストも添えてありますので、文字検索が可能です。
6月16日の高知新聞夕刊に、高知市内で「竹の花」が咲いているのが見つかったという記事が載っていました。竹は120年に1度しか花をつけないと言われているそうで、こころみに「竹の花」で検索してみますと、1件だけありました。「竹が花をつける年は『凶作』」だそうです。(58号=1937年)。高知県女子師範学校郷土室が調べた土佐の習俗迷信の一コマです。
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2016.01.01
謹賀新年
平成も今年ではや28年、丙申、明けましておめでとうございます。いつの間にか85歳。こんな句の詠める、心優しいおじいさんでありたいと思うこの頃です。
寒くとも日陰に居れよ雪達磨 栗原亮一
赤土のそこは滑るぞ落ち椿 詠み人失念
寒くとも日陰に居れよ雪達磨 栗原亮一
赤土のそこは滑るぞ落ち椿 詠み人失念
2015.11.27
龍馬暗殺 土佐藩が知った日
きょう11月27日は、坂本龍馬が1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋・井口新助方2階で午後9時すぎ襲撃されて闘死した知らせが、土佐藩に届いた日であります。この12日間、高知では龍馬は生きていたことになります。
龍馬が生まれたのは、今から180年前の1835(天保6)年11月15日。この日とともに、11月27日も覚えておいてよい日付だと思います。
当時の情報の伝わり方については、このブログ「兎耳いろいろ」【■最新記事(99)=2011年2月1日】)で書きました。読み返してほしいと思います。
龍馬が生まれたのは、今から180年前の1835(天保6)年11月15日。この日とともに、11月27日も覚えておいてよい日付だと思います。
当時の情報の伝わり方については、このブログ「兎耳いろいろ」【■最新記事(99)=2011年2月1日】)で書きました。読み返してほしいと思います。
2015.08.20
植木枝盛邸跡のいま
高知市桜馬場の植木枝盛邸がなくなって4年経ちました。2011(平成23)年7月に取り壊し作業が始まり、書斎部分が高知市立自由民権記念館に移築され、8月20日から一般公開されています。跡地はどうなっているのでしょうか。行ってみました。
27年4月13日(建築基準法による確認済)と日付けの入った○○氏邸新築工事現場という立て看板が先ほどまでありましたが、いまはそれも取り払われて、敷地の半分ほどは家庭菜園となって野菜が育っています。
道路に面してあった枝盛邸を示す石柱は前のままありました。近くの緑地、桜馬場橋のたもとにある「高知城下 歴史の道総合案内」板も昔のまま。これなど、枝盛邸が桟橋通りに移転したことを追記するのが親切というものですが、すでに4年もたつのにそんな気配はありません。
27年4月13日(建築基準法による確認済)と日付けの入った○○氏邸新築工事現場という立て看板が先ほどまでありましたが、いまはそれも取り払われて、敷地の半分ほどは家庭菜園となって野菜が育っています。
道路に面してあった枝盛邸を示す石柱は前のままありました。近くの緑地、桜馬場橋のたもとにある「高知城下 歴史の道総合案内」板も昔のまま。これなど、枝盛邸が桟橋通りに移転したことを追記するのが親切というものですが、すでに4年もたつのにそんな気配はありません。
2015.07.23
旧制城東中学校の野球部
今年は全国高校野球選手権大会が始まって100年の記念の年。敗戦後の1946(昭和21)年、高知城東中学校(現追手前高校)が高知県勢として初めて出場した。第28回全国中等学校優勝野球大会である。当時はまだ1県1校の時代ではなかった。四国予選があった。
その時、私は城東中学校の3年生。同級生はこのチームには5人いた。
投手は前田祐吉。陸軍幼年学校帰りの秀才。高知市通町の製紙業前田嘉郎氏の子息。彼のカーブはすごかった。当時はドロップといった。慶應義塾大学に進んだ
一塁に河野了。「さとる」と読む。高知市井口町の永福時の長男で、のち京都の龍谷大学に学び住職を務めた。
二塁は野瀬泰一。高知市中島町の野瀬薬局の御曹子で、のちお医者さんとなり大阪で開業した。
三塁を守ったのは国則孝雄。責任感の強い男で、高知中央自動車学校の教官をした。
中堅手は岡村熊長。介良国民学校の出身で、のち中学野球の監督。「くまおさ」だが「くまちょう先生」、「クマチョウさん」と慕われた。強打者だった。
現在健在なのは前田のみ、あと4人はみな鬼籍に入った。前田とは2009(平成21)年に彼が高知県スポーツ殿堂入りした時飲んで以来会っていないが、元気だと思う(いま85歳)。
このチームを引率して、戦後の食糧難、交通難のなかを西宮まで遠征したのは入江雅幸先生であった。1959(昭和34)年8月に発行された追手前高等学校校友会の『創立八十周年記念誌』に「戦争から甲子園時代まで」と題して回顧感想録を書き残している。そのなかから野球に関する部分を紹介する。
敗戦後生徒の志気を鼓舞する方法としてスポーツを取上げ先づ野球に手をつけた。
しかし米国の国技を真似るものとして校長からも一部職員からも反対反感があった。しかし矢張り校友の強い支持を得、特に畠中源太郎氏の熱心な後援を得たので心強い限りであった。
丁度幼年校から復校した前田君が野球に長じ非凡な投球を示していたので俄然名をなすに至ったのである。
ボールは商店になく、部費は勿論皆無で、自弁で苦心作成修理して練習を続けた。当時市商も野球部復活を目指していたが、N部長の厚い友情と寛容によって焼け残りの貴重なボール十個を譲ってくれた。この好意が無かったら練習に事欠き城東の戦後第一回の選抜大会への出場は覚束なかったかも知れなかった。
遠征に際して米はなし闇米の移動は禁止であり、資金はなく、鉄道は南海地震で未だ修理がつかず、山を越えトンネルを抜け、神戸に着くまでにも苦労したのであった。
三の宮駅に着いた時、駅頭の悲惨事には目を蔽わずには居られなかった。終戦日尚ほ浅く、浮浪人、栄養失調者等が駅構内外に溢れ、この有様で果して野球大会が出来るものであろうかと目を疑い危惧の念にかられた。旅館等ある筈なく焼野原の神戸で漸く校友宇田氏の家屋を拝借し得たのであった。
飯炊きの燃料は会社の建物を壊し、調味料は阪神の校友を訪ね求め漸く賄う状態であった。
次に夏の甲子園大会に出場の際は、国内の秩序も次第に回復し、食事情も好転に向い、市民のファンも次第に増加し前回と較べて楽な遠征が出来た。
しかし寄附金は主として校友に頼り学校の野球部というより寧ろ校友会の野球部であった。城東が所謂「偉大なる敗者」の賛辞を戴いたのはその時であった。
野球を中心に校友の団結も愈々堅く結ばれて母校復興に寄与するところ少なくなかった。
その時、私は城東中学校の3年生。同級生はこのチームには5人いた。
投手は前田祐吉。陸軍幼年学校帰りの秀才。高知市通町の製紙業前田嘉郎氏の子息。彼のカーブはすごかった。当時はドロップといった。慶應義塾大学に進んだ
一塁に河野了。「さとる」と読む。高知市井口町の永福時の長男で、のち京都の龍谷大学に学び住職を務めた。
二塁は野瀬泰一。高知市中島町の野瀬薬局の御曹子で、のちお医者さんとなり大阪で開業した。
三塁を守ったのは国則孝雄。責任感の強い男で、高知中央自動車学校の教官をした。
中堅手は岡村熊長。介良国民学校の出身で、のち中学野球の監督。「くまおさ」だが「くまちょう先生」、「クマチョウさん」と慕われた。強打者だった。
現在健在なのは前田のみ、あと4人はみな鬼籍に入った。前田とは2009(平成21)年に彼が高知県スポーツ殿堂入りした時飲んで以来会っていないが、元気だと思う(いま85歳)。
このチームを引率して、戦後の食糧難、交通難のなかを西宮まで遠征したのは入江雅幸先生であった。1959(昭和34)年8月に発行された追手前高等学校校友会の『創立八十周年記念誌』に「戦争から甲子園時代まで」と題して回顧感想録を書き残している。そのなかから野球に関する部分を紹介する。
敗戦後生徒の志気を鼓舞する方法としてスポーツを取上げ先づ野球に手をつけた。
しかし米国の国技を真似るものとして校長からも一部職員からも反対反感があった。しかし矢張り校友の強い支持を得、特に畠中源太郎氏の熱心な後援を得たので心強い限りであった。
丁度幼年校から復校した前田君が野球に長じ非凡な投球を示していたので俄然名をなすに至ったのである。
ボールは商店になく、部費は勿論皆無で、自弁で苦心作成修理して練習を続けた。当時市商も野球部復活を目指していたが、N部長の厚い友情と寛容によって焼け残りの貴重なボール十個を譲ってくれた。この好意が無かったら練習に事欠き城東の戦後第一回の選抜大会への出場は覚束なかったかも知れなかった。
遠征に際して米はなし闇米の移動は禁止であり、資金はなく、鉄道は南海地震で未だ修理がつかず、山を越えトンネルを抜け、神戸に着くまでにも苦労したのであった。
三の宮駅に着いた時、駅頭の悲惨事には目を蔽わずには居られなかった。終戦日尚ほ浅く、浮浪人、栄養失調者等が駅構内外に溢れ、この有様で果して野球大会が出来るものであろうかと目を疑い危惧の念にかられた。旅館等ある筈なく焼野原の神戸で漸く校友宇田氏の家屋を拝借し得たのであった。
飯炊きの燃料は会社の建物を壊し、調味料は阪神の校友を訪ね求め漸く賄う状態であった。
次に夏の甲子園大会に出場の際は、国内の秩序も次第に回復し、食事情も好転に向い、市民のファンも次第に増加し前回と較べて楽な遠征が出来た。
しかし寄附金は主として校友に頼り学校の野球部というより寧ろ校友会の野球部であった。城東が所謂「偉大なる敗者」の賛辞を戴いたのはその時であった。
野球を中心に校友の団結も愈々堅く結ばれて母校復興に寄与するところ少なくなかった。